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エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

青きもの

2016年08月25日 | ポエム
青柿といい、青榠樝といい、夏の終わりは若々しい。
見上げれば、青々とした空。
その呼吸は、シンコペーションである。



夏のシンコペーションは、青きものである。







「青柿の形すこやか二つ三つ」







榠樝と蜜柑。
青きものの代表格である。
ただし、青蜜柑は秋の季語である。



青柿は、夏の季語となっている。



この樹の下には、蝉の穴が穿たれている。
幼虫の這い出して来た、穴である。

明日はもう一度、蝉時雨の風景をお見せしたいものである。



      荒 野人

夕焼雲

2016年08月24日 | ポエム
誠に夏らしい大夕焼、である。
こうして染め上げられる空の変遷を見ているのは、楽しい。



夕焼の雲には、夥しい情念が籠められている。
その情念は、憤怒であったり、愉悦であったり、あるいは悲痛であったりする。

とまれ、時間の経過とともに薄れてゆく。
地平線の彼方へと、放擲されるのである。
水平線の彼方でも良い。







「図書館の本の匂いや大夕焼」







このモニュメントは、光が丘公園のジャブジャブ池の手前にある。
図書館の横である。

ぼくの大好きなエリア、である。
今日も、雨上がりの夕方に出かけてみたいのだけれど暑い。
あまりにも暑い。



気温との相談である。



      荒 野人

雲の不思議

2016年08月23日 | ポエム
雲の不思議、について触れようか・・・。
と言っても、特別な事でもない。

台風襲来の前の雲は、おどろおどろしている。



いまいち、境目のはっきりしない雲の峰である。
けれども、雲には霊力がある。
不思議な魔力を秘めているのである。

時々空を見上げるのは、だからこそである。



歌舞には、夏の雲。
中段には、秋の雲。

雲で、二つの季節を見ると良い事があると云う。
人知れず、ぼくはそう思っている。

このブログでも何回も、その趣旨はには触れた。
触れる都度、その雲を抱いた空の写真をお見せして来た。







「秋隣千切れる先の雲の果て」







こうした雲も又、怪しげである。



     荒 野人

さぎ草

2016年08月22日 | ポエム
さぎ草は、まさしく鷺が羽を広げて飛翔している様である。
優雅であり、その白さが初々しい。
清廉であり清楚でもある。

この花には「二律背反」を以て、言葉を紡ぐ事ができない。
それほど繊細で鮮明な花、である。
かてて加えて、その小さき姿に限りなき憧憬を寄せたいのである。







「鷺草や何処の空を染め抜ける」







数羽が空を翔る。
あたかも、竹の簾に描かれてでもいるかのようでもある。



こうした花を慈しむ心持ちは、美しい。
美しいし、晴れやかである。

この姿を何に投影すれば良いのか、思いもつかない。
俳句に詠み上げるのは、至難の業である。

今朝まで推敲を重ねたのだけれど、まだ納得がいかない。
この句には、更なる推敲が必要だ。
推敲の要諦は、的確な名詞をいかに用いるかである。
この句は、情緒に流され過ぎているからである。



     荒 野人

野牡丹の空

2016年08月21日 | ポエム
大雨のあと、空は晴れ上がっているけれど信用できない。
大気は不安定になっている。
台風が三つ、列島を狙っているからである。



今日は、突然の雨が予想されるけれど取りあえず晴れている。
昨日は、豪雨、晴れ、豪雨、晴れの繰り返しであった。

今朝の空は、まるでラファエロの描く空のような雲が浮かんでいた。
昨日の空の垣間見せた雲は、秋色であった。



個の空の下「野ぼたん」が咲いている。
鮮やかな色が、秋色の空に良く似合うのである。







「野ぼたんの情念宿る紫紺かな」







秋色の空に紫紺。
妙なる取り合わせである。



さてさて、いよいよ秋を詠う。
台風が去って、空が戻って来た時・・・。
先ずは「おみなえし」と「おとこえし」を見に出かけなくてはなるまい。



     荒 野人