エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

平林寺・・・松平伊豆の守信綱もここに眠る

2010年11月26日 | 日記
平林寺には江戸幕府の前期に活躍した「知恵伊豆」こと松平伊豆の守信綱も眠っている。
大河内松平家の霊廟である。

大河内松平家は川越城主である。



広大なスペースに、大河内松平家の歴代の墓所が厳かに鎮まっているのである。
いまは、花を添える必要もないほど紅葉が彩っている。



楓の色とりどりの色彩が目を覆い尽くしてくれるのである。

江戸前期の老中。
将軍家光に仕え、知才溢れる忠勤により小姓から老中に出世した。
島原の乱を鎮圧し、家光の死や由井正雪の乱、明暦の大火などの危機を乗り切り、幼君家綱を助けて幕府の確立に尽力した。
川越藩主としても城下町を復興、農政にも意を用い、「小江戸」川越の基盤を築いたのである。



信綱の墓石である。



その夫人の墓石である。



この二人の墓所にたどりつくように、参道が通っているのである。
墓所の横に真っ赤な楓の木があった。

信綱は、主に民政を得意としており、幕藩体制は信綱の時代に完全に固められたと言ってよいのである。
また、政治の天才とも言える才能を持っており、家光からも信頼され、柳生宗矩、春日局と共に家光を支えた「鼎の脚」の1人に数えられたのであった。



家光が死んだ際、殉死しなかったことを江戸の市民は激しく非難した。
「伊豆まめは、豆腐にしては、よけれども、役に立たぬは切らずなりけり」と皮肉った。

ただし信綱が殉死しなかったのは、家綱の補佐を家光から委託されていたためである。
為政者は、こうした市井の人々のあらぬ誹りも甘んじて受けるべきであると言っている。

「私はこうした!」
とか。
「私は正しい!」
とか。
あるいはまた「あなたたちはどうなのか?」
とか言って、質問に答えず。

答弁はだらだらとポイントを外し続ける・
自らを省みる事も無く、ただ人をせめるような発言に怒りを覚えるのはぼくだけであろうか?

攻める側も攻められる側も、国民不在であると言えよう。
見苦しい国会中継に辟易するのである。
そんな不愉快な日々を今日は洗い流した思いであった。



埼玉・・・恐るべし!
である。






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                     荒野人


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