エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

奥多摩湖は正式名称を小河内貯水池というのである

2010年10月23日 | ドライブ
奥多摩湖の湖畔に白丸西ノ平遺跡の敷石住居跡が移設復元されている。
都合二基の住居跡が残されている。



もうひとつ。



奥多摩には、縄文前期から縄文の全時代を通じた遺跡が数多く残されているのである。
おそらく、この奥多摩湖の湖底にも静かに眠っているのであろう。



気持ちが残されたまま沈んでいった人々も多かったのであろう。
この奥多摩湖一帯は、峡谷といっていい場所が数多いのである。

従って、このダム湖は川沿いに延々と伸びている。



思いの深さが寒緋桜を早々に咲かせるのであろう。

奥多摩湖(おくたまこ、英語: Lake Okutama)は正式名称を小河内貯水池(おごうちちょすいち、英語: Ogōchi Reservoir)と言い、東京都西多摩郡奥多摩町と山梨県北都留郡丹波山村、同県同郡小菅村に跨る東京都水道局管理の人造湖(貯水池)である。



山の色は濃いのである。



水没から逃れた村落も数多いのである。
ダム湖が、それほど広範に亘っている証左であり、人口も多かったと推測されるのである。

ダム建設にあたり、旧小河内村と山梨県丹波山村及び小菅村の945世帯約6,000人が移転を余儀なくされた。
中でも旧小河内村は、その大部分が水没したのであった。

移住先の一つに山梨県北巨摩郡高根町(現在の北杜市)近辺があり、彼らはその後小海線清里駅(清里高原)周辺に再移住し、清里高原における農業や畜産、観光業の発展に大きく寄与したという歴史がある。

また、このダム湖がいかに国家的土木事業だったのかを語るように、石川達三が『日蔭の村』(1937年(昭和12年)10月刊行)によって、ダム建設開始までの旧小河内村の状況が紹介しているのである。

この湖底に沈むのを惜しんだのであろうか、道祖神を始めとする石仏などが湖畔に移設されている。
文字を必要としない感覚でご覧いただければ幸いである。











いくつかの石仏やら石碑をぼくは丹念に撮影したのである。
機会を得てもう一度石仏やら石碑を紹介したいと思っているのである。





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                     荒野人


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1 コメント

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奥多摩 (Bunbunbun)
2010-10-23 07:15:35
そう言えば、このダム、「小河内ダム」といいませんか?
小学校の頃集めていた切手に、小河内ダム完成記念切手があったような気がします・・・。
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