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エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

龍角寺古墳群・・・往時に復元された101号古墳

2010年11月15日 | 遺跡
龍角寺古墳群の中でも、建設当時の様相を見せてくれるのは101号墳墓である。



古墳の周りに埴輪を配置していて、往時の姿を再現しているのである。



逆光で見ると、なんだか荘厳な景色になってくる。



正面には軍団が置かれている。
墳墓を守っているのである。

この軍団の並び方は、極めて小さな軍団であるけれど中国・秦の始皇帝のあの「兵馬俑抗」の軍団に近いような印象である。

101号墳は、龍角寺古墳群の東南端にある墳丘の直径が約25メートルの円墳で、幅約3メートルの二重の周溝を持っている。
1984年から1986年にかけて発掘が行われ、5ヶ所もの埋葬施設が検出され、土師器、須恵器、金銅製耳輪、管玉、直刀、鉄製馬具、鉄鏃、鉄鎌などの出土品が発掘されたのである。



埴輪は、3世紀後半から6世紀後半にかけて造られ、前方後円墳とともに消滅したのである。
古墳時代に花開いた文化であった。



埴輪の目は鋭いのであるけれど、それはヘラでくりぬいた結果である。
そのシャープさが、ぼくには古代を感じさせる造作であるといえるのだ。



現在まで龍角寺古墳群に属する古墳の中で、16基の古墳から埴輪が検出されている。
未だ未発掘の古墳が多い事から、この古墳群は更にロマンを感じさせてくれるのである。





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                     荒野人

古墳の様相・・・龍角寺古墳群の景色

2010年11月13日 | 遺跡
千葉県の成田空港近く、芝山古墳群も有名だけれど「龍角寺古墳群」も見ごたえのある景色が広がっている。
加えて、風土記の丘として行政が手を加えていてテーマ・パークとなっているのである。



古墳の団地状態である。

実にぼくは興奮状態でこの場所を歩いたのであった。
この114基からなる古墳群の多くは、なんと未調査であっていまだ造営当時のまま眠りを貪っているのである。



深く長い思索の時間を過ごしている古墳の主は、一体どんな人物像であろうか?と考えるだけで楽しいしロマン溢るる時間を提供してくれるのである。



ごらんのように、見渡す限り墳丘が続くのである。
円墳もあれば前方後円墳や方墳もある。



わくわく、どきどきである。
この墳丘は上ることを禁じられている。
当然である。

ここの古墳は6世紀から7世紀にかけて造営されたのである。
時代的には弥生時代から古墳時代の遺跡である。

枯葉を踏みしめ、墳丘の密集した地を歩く。
一切の思考は停止してしまい、まるで幽体離脱のようになって精神は空中に浮遊する感覚に捉われるのである。



素晴らしい時間が流れていくのである。



奥深い古墳群である。



こういった場所に立つと、人は想像力が試される。



それも楽しい。
古墳の主と対話するのである。



いつか必ずノックするから・・・と念じながらこの密集した古墳の土を踏みしめたのである。





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甲府盆地を見下ろす釈迦堂遺跡の住居跡

2010年11月10日 | 遺跡
甲府盆地の秋は現在進行中である。

昨日は所用があって甲府市に出かけたのである。
何時ものように、石川PAで朝食の「朝ラーメン」を頂いた。



逸品である。
同伴した長女は「わかめ蕎麦」になった。



これもなかなかの味であるのだけれど「次は、やっぱりラーメンだね!」となったのであった。

中央高速を快調に走りつつ、釈迦堂PAで一休みした。



この遺跡は、優れて土偶が出土しているのである。
先土器時代から平安時代に亘る遺構・遺物が出土しているのである。

加えて日本の出土した土偶の約1割、1,116個体もの土偶がこの釈迦堂遺跡のものである。
大英博物館の土偶展にも要請されて出品している。



火焔土器も鑑賞に耐えうるし、住居跡は縄文前期の遺跡である。
取り急ぎ、住居跡をもう一つ紹介しよう。



ロマンを湛(たた)えた住居跡である。

秋は確実に進行している。



欅である。
青空に映える赤である。



縄文時代の人々は、こうした金色の社会を堪能したであろうことは想像に難くない。
いま、ぼくは縄文時代にスリップしたいと切望する。

女や食料を奪い合うという争いもあったのだろうけれど、それは人の本能に拠る。
否定できない争いである。

豊かな社会であると信じたいのである。





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                     荒野人

曲輪から曲輪へと木橋を渡った

2010年11月02日 | 遺跡
何某(なにがし)である。
何某は二の曲輪を管理していたのである。



追手門は、本丸への道である。



あの屋根が、三の曲輪である。



この屋根は二の曲輪である。
何某は、この屋根の曲輪を管理していたのであった。



城内には井戸の遺構が残されていた。
城主の板書「この水飲むべからず」とあった。



城内は、石垣では無く植え込みで区画されている。
往時もそうだったのであろうか?

もしそうなら、この城主の大きさが偲ばれるのである。



城内の一画に私有地があり、囲われていたけれど古い墓石が残されていた。
きっと、この城の上級武士の屋敷があったのだろうと思われるのである。
誰が守っているのだろうか。



楽しい散策ができた。
難波田城内の散策である。

あなたが散策されるのなら、まず二の曲輪にこられよ!
何某が案内するであろう。






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                     荒野人

難波田城跡を歩く

2010年10月31日 | 遺跡
埼玉県富士見市に残る難波田城公園は、市営の施設としては優れて立派である。
ぼくは、かつてこの地域に住んでいた事がある。

アパートは東武東上線鶴瀬駅から徒歩1分の場所であった。



この城跡は、良く晴れた日に散策すると楽しいであろうと推測できる。
水濠と土塁で構成されていて、往時の面影が偲ばれる造りとなっているのである。



曲輪(くるわ)と曲輪を東西につなぐ木橋で、復元されたものである。
公園の入り口のすぐそばに架かっている。



もちろん入口は「冠木門(かぶらきもん)」である。
公園内の三か所に復元されている。



この冠木門に屋根をかけると「追手門」となる。
大概、地方都市の城郭の正門に当たるのである。



10月とは言え、まだまだ緑濃くたたずまいは静謐であった。



富士見市の教育委員会はなかなか歴史観のある組織であると感心したのである。
温故知新の精神が生きている。

児童たちは良い教育環境に囲まれているのである。

ぼくは今、東京に住まいしているけれど富士見市に戻っても良いかな!と思わせる環境である。







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