時政(坂東彌十郎)、執権別当に。
これで実質、北条が鎌倉のトップに立った。
だが、まだ不安定だ。
「北条のやり方は汚い」「いずれしっぺ返しを受けるぞ」
「武蔵を手に入れようとしている」
そんな状況下、反北条の旗頭になりそうなのだ修善寺の頼家(金子大地)。
頼家も牙を抜かれていない。
「鎌倉殿はこのわしじゃ! このまま朽ち果てるつもりはない!」
「もはや、あの女(政子)、母とは思わぬ」
頼家は後鳥羽上皇(尾上松也)に「北条追討の院宣」を要請する。
これを知った北条。
義時(小栗旬)は──
「頼家様を討ち取る。これは謀反だ」
「こうなっては他に道はない」
鬼となった義時。
義時はかつての自分を捨てた。
かつての自分は息子。泰時(坂口健太郎)のような、やさしい、正論を大事にする人間だった。
だから泰時を評して言う。
「太郎(泰時)はかつての私なんだ。あれは私なんだ」
「太郎は私の望みだ」
「望み」というのは「良心」と言い換えてもいいだろう。
だが、もはや義時は後戻り出来ない。
修羅の道を突き進むしかない。
司馬遼太郎は「歴史には、まずブルドーザーのように道を切り拓く人が現れて、次にその道を整地する人が現れる」と書いた。
信長→秀吉→家康
幕末の過激な志士→明治政府
この図式で言えば、義時は「ブルドーザーで道を切り拓く人」になり、泰時はおそらく「整地する人」になるのだろう。
義時は善児(梶原善)を責めることが出来なかった。
兄、宗時(片岡愛之助)を殺害したのがわかったにも関わらず、
「あれは有用な男だ」
「わたしは善児を責められようか?」
自分も善児と同じだと義時は自覚しているのだ。
善児同様、自分の手も血で汚れている。
そんな義時に対して、運慶(相島一之)。
「お前、悪い顔になったな」
こう言いつつ、
「だが、まだ救いがある。お前には迷いがある。その迷いが救いなのよ」
自分の行為に迷いや葛藤がある義時はまだ鬼になり切っていないんですね。
鬼になるとは、何の迷いや葛藤もなく陰謀、粛清などが出来ること。
罪を自覚できなくなること。
こうなってしまったら人間おしまいだ。
そして、芸術家・運慶は葛藤しながら修羅の道を進む義時に創作心をそそられたようだ。
「お前のために仏を彫りたい。いい仏が彫れそうだ」
確かに苦悩している人、罪を背負って歩み続ける人は美しい。
苦悩が鑿(のみ)となって顔や体を彫っていく。
おそらく運慶が彫る仏の顔は義時の顔になるのだろうが、どんな顔になるのだろう?
鬼になり切れていなかった人物はもうひとり。
善児だ。
頼家を殺害しようとして、『一幡』の文字を見た時、手が止まった。
それで返り討ちに遭った。
それはトウ(山本千尋)の時も同じで、
範頼(迫田孝也)殺害の時、トウの両親は殺せたが、少女のトウは殺せなかった。
そのことが数年後──
「じっとこの時を待っていた! 父の仇! 母の仇!」
修羅の道を歩いている者にとって、
人間らしさや弱さは命取りになるんですね。
やさしさもそう。
でも、これらをなくしてしまってはいけないと思う。
暗闇の中にも光はある。
最後はトウ。
数年間、憎悪を隠して善児に仕えて来たトウは強く凄まじい。
善児を越えるキャラクターになった。
善児退場。トウ檜舞台に。
見事な退場&登場劇である。
これで実質、北条が鎌倉のトップに立った。
だが、まだ不安定だ。
「北条のやり方は汚い」「いずれしっぺ返しを受けるぞ」
「武蔵を手に入れようとしている」
そんな状況下、反北条の旗頭になりそうなのだ修善寺の頼家(金子大地)。
頼家も牙を抜かれていない。
「鎌倉殿はこのわしじゃ! このまま朽ち果てるつもりはない!」
「もはや、あの女(政子)、母とは思わぬ」
頼家は後鳥羽上皇(尾上松也)に「北条追討の院宣」を要請する。
これを知った北条。
義時(小栗旬)は──
「頼家様を討ち取る。これは謀反だ」
「こうなっては他に道はない」
鬼となった義時。
義時はかつての自分を捨てた。
かつての自分は息子。泰時(坂口健太郎)のような、やさしい、正論を大事にする人間だった。
だから泰時を評して言う。
「太郎(泰時)はかつての私なんだ。あれは私なんだ」
「太郎は私の望みだ」
「望み」というのは「良心」と言い換えてもいいだろう。
だが、もはや義時は後戻り出来ない。
修羅の道を突き進むしかない。
司馬遼太郎は「歴史には、まずブルドーザーのように道を切り拓く人が現れて、次にその道を整地する人が現れる」と書いた。
信長→秀吉→家康
幕末の過激な志士→明治政府
この図式で言えば、義時は「ブルドーザーで道を切り拓く人」になり、泰時はおそらく「整地する人」になるのだろう。
義時は善児(梶原善)を責めることが出来なかった。
兄、宗時(片岡愛之助)を殺害したのがわかったにも関わらず、
「あれは有用な男だ」
「わたしは善児を責められようか?」
自分も善児と同じだと義時は自覚しているのだ。
善児同様、自分の手も血で汚れている。
そんな義時に対して、運慶(相島一之)。
「お前、悪い顔になったな」
こう言いつつ、
「だが、まだ救いがある。お前には迷いがある。その迷いが救いなのよ」
自分の行為に迷いや葛藤がある義時はまだ鬼になり切っていないんですね。
鬼になるとは、何の迷いや葛藤もなく陰謀、粛清などが出来ること。
罪を自覚できなくなること。
こうなってしまったら人間おしまいだ。
そして、芸術家・運慶は葛藤しながら修羅の道を進む義時に創作心をそそられたようだ。
「お前のために仏を彫りたい。いい仏が彫れそうだ」
確かに苦悩している人、罪を背負って歩み続ける人は美しい。
苦悩が鑿(のみ)となって顔や体を彫っていく。
おそらく運慶が彫る仏の顔は義時の顔になるのだろうが、どんな顔になるのだろう?
鬼になり切れていなかった人物はもうひとり。
善児だ。
頼家を殺害しようとして、『一幡』の文字を見た時、手が止まった。
それで返り討ちに遭った。
それはトウ(山本千尋)の時も同じで、
範頼(迫田孝也)殺害の時、トウの両親は殺せたが、少女のトウは殺せなかった。
そのことが数年後──
「じっとこの時を待っていた! 父の仇! 母の仇!」
修羅の道を歩いている者にとって、
人間らしさや弱さは命取りになるんですね。
やさしさもそう。
でも、これらをなくしてしまってはいけないと思う。
暗闇の中にも光はある。
最後はトウ。
数年間、憎悪を隠して善児に仕えて来たトウは強く凄まじい。
善児を越えるキャラクターになった。
善児退場。トウ檜舞台に。
見事な退場&登場劇である。