プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

映画『安重根  伊藤博文を撃つ』と1905年「韓国保護条約」(その2・完)

2011-03-14 21:14:46 | 政治経済

【私は、阪神淡路震災の揺れの激しさは経験したが、今回のTVで繰り返される巨大津波の映像の恐ろしさには、只々驚くばかりである。その上、今回は原発の核の脅威にまで晒されている。被災者の皆様へのお見舞いと、亡くなられた方々への衷心からのお悔やみを申し上げます。】

前回、書いたように1905年「韓国保護条約」は、安重根義軍参謀中将裁判を正当化する裁判管轄権の根拠とされた。1910年「韓国併合条約」を巡っては、周知のように、内容的にも手続き上でも不当なものであるのだから併合条約成立の時点から「すでに無効」だったという韓国側の主張に対し、条約締結の時点では正当有効であり1948年の大韓民国成立の時点で「もはや無効」となったという日本側の解釈が対立したままで両国の溝は埋まっていない。ところで、昨年の春から夏にかけて韓国併合に直接つながる1905年「韓国保護条約」そのものについても、その不法性に関する研究成果が相次いで発表されている。1910年当時は、欧米列強の帝国主義と植民地支配がいまだ罷り通っていた時代だが、その不法性を研究することは、帝国主義と植民地支配の実態を歴史的事実経過から知ることになる。これは、戦後の日米関係を考えるうえでも、すぐれて現代的課題であると思う。戦後、植民地保有が許されなくなった帝国として、アメリカはどのような振舞いをしてきたか。形式的独立国に親米傀儡政権をつくる、そして政治的経済的軍事的、さらには文化的に従属させ、米軍基地を置く――軍隊を駐留させ、言いなりの政府をコントロールしながら、植民地経営の負担から逃れて実質的には植民地をもつ。これが、戦後日米関係―安保条約の本質であった。

 

映画にも出てくるが、1905年「韓国保護条約」は伊藤博文が軍司令官とともに韓国閣議に出席し閣僚一人ひとりを威嚇しながら外部大臣朴斉純に締結を強要したものである。旅順関東都督府地方院真鍋判官は、「韓国保護条約」(日本側は「日韓協約」と呼んだ)第一条を援用して、日本政府が其臣民に対して有する公権作用の下に均しく韓国臣民を保護するに在るものと解釈すべきに依り・・本件の犯罪には帝国刑法の規定を適用すべきものにして韓国法を適用すべからざるものと判定する。したがって、帝国刑法199条(殺人罪)を適用して有罪とし、量刑としては政府の求め通り「極刑」を言い渡した。そして、伊藤公爵死亡時刻と同時刻を選び、死亡の5か月後の同日である1910326日午前10時絞首刑は執行された(戸塚悦朗「1905年『韓国保護条約(?)』は捏造だったのか」『今、「韓国併合」を問う』アジェンダ・プロジェクト所収)。

当時の国際法を前提にした上で、国家の代表個人を脅迫して締結した条約は有効か、大韓帝国皇帝高宗の同意に基づく批准も、全権委任状もない外部大臣の調印は有効か。そもそも、日本側が「日韓協約」と呼ぶ「文書」は、調印を強要した時点では、「条約」とも「協約」とも書かれておらず、タイトルの記載が一切なかった未完成の文書原案に過ぎないというのが、条約原本などに当たって詳細な研究を重ねた李泰鎮ソウル大学教授の結論である。

ところが、オランダ外務省のレンドルプは、高宗皇帝によって密かに派遣された大韓帝国政府代表3名にたいして、オランダ外務大臣に面会できない(第2回ハーグ平和会議への参加を認めない)という判断をした。

 

戸塚悦朗龍谷大教授は、日本外務省の英文翻訳文が諸外国の外交担当者に1905年「韓国保護条約」の有効性を誤信させたのだろうという(日本外務省は、この「文書」のタイトルを日本語で「日韓協約」、韓国語で「韓日協商條約」、英語で「CONVENTION」とした)。戸塚さんは、日本政府は、英文訳【条約正文ではない】を諸国政府の間に頒布し、高宗皇帝の署名批准があったかのような言動を繰り返したのではないかと推測されている。そして、あたかも韓国皇帝が保護国化を希望した「合法的」な条約締結であったと思わせるべく、このような工作の全過程を総指揮したのが伊藤博文公爵だったのだ。
安重根が伊藤博文を日帝の頭目と考える所以である。

 


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