プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

A級戦犯合祀  無意味な問題の矮小化

2006-07-21 19:17:30 | 政治経済
A級戦犯靖国合祀にたいする昭和天皇の「不快感」発言が話題となっています。東京裁判で、自らの戦争責任を棚上げし、自分たちは本当は対米戦争には反対だったが陸軍に押し切られたのだ、すべての責任は陸軍にあるという虚偽の「歴史像」を創作し、陸軍を切り捨てることによって自らの生き残りを図った宮中グループに属する昭和天皇が、A級戦犯合祀に不快感を示したからといって不思議ではありません。日本の戦争責任と戦後処理問題全体からみれば、A級戦犯合祀はほんの歴史の一齣の問題に過ぎません。

日本人は、先の戦争についての歴史の検証と評価を個別の研究は別として、正式には誰も何もおこないませんでした。戦争責任の問題は、国内的にはなんら問われることなく、東京裁判(極東国際軍事裁判)での戦犯判決に預けるだけでした。そして国内的には、むしろ東京裁判での戦犯とその遺族に同情が集まり、1952年7月頃から、国民の間で“戦犯”釈放運動が起り、最終的には四千万もの署名が集まったのを受け、国会でも前後四回にわたり、ABC級を問わず“戦犯”の釈放決議を全会一致(共産党は少数会派に属していて賛成したわけではないといっていますが)で行ったのです。こうして、国際的にも、サンフランシスコ講和条約第11条の手続きにもとづき関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は1956年に、米関係BC級戦犯も58年5月30日、最終的に釈放されました。こうして“一億総懺悔”。日本には“戦犯”はいないことになりました。
このような経過から、極東軍事裁判で“A級戦犯”とされた十四人(七人は処刑され、二人は未決拘禁中に、五人は服役中に死亡)を靖国神社に祀ることについてなんでそんなに大騒ぎするのかという議論が出てきてもおかしくはありません。

問題は、これからどうするかです。いのままでは「世界の中の日米同盟」のもとで、戦争屋アメリカ軍との共同作戦に自衛隊が狩りだされた場合、間違いなく発生するであろう戦死者を祀る公的施設がありません。靖国神社からA級戦犯を分祀するのか(國學院大學・大原康男教授は祀られている十四人の“A級戦犯”の御霊(みたま)を外して別の神社に移しても靖国神社からその方々の御霊がなくなるわけではないのでまったく無意味といいます)、新施設を建設するのか国民の合意は難しいでしょう。

日本を「戦争をする国」にするためには、「戦争をするのは当たり前のことだ」「戦争というのは国家の当然の選択肢なのだ」「戦争のために命を投げ出すことを厭わない」と考える若者が多数を占めるようになることが必要です。このような価値観・戦争観を育てるためには、過去の戦争犯罪などの史実をあえて無視し、そういったことは「なかった」とか「小さなものだった」という歴史修正主義がつねに付き纏います。侵略戦争や植民地支配は「自存自衛」のため、「アジア解放」のためということになります。

日本が侵略も植民地支配も行ったことがあり、戦争責任を一度も国民的レベルで検討したことがなく、そのような過程で、A級戦犯を靖国神社へ合祀し、参拝という形で評価していることも、歴史的事実であり、いかなるレトリックを使おうとも変えることはできません。

アジアと世界の人々ときちっと付き合うためには、先の戦争の歴史の検証と評価は避け通れない課題です。
東京裁判やA級戦犯の問題もそしてなによりも憲法が持つ意味も明らかになってくるでしょう。
中国や韓国のA級戦犯合祀批判だけに問題を矮小化してはなりません。




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