プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

“領土”ナショナリズム  前提としての「国民国家」  統治される側の私たちは冷静になろう!

2012-08-15 21:24:43 | 政治経済

終戦の日を前に、韓国の李明博大統領が日本政府の強い中止要請を無視して、歴代大統領で初めて竹島への上陸を強行した。一方、尖閣諸島をめぐる中国と日本の対立も解けない。石原東京都知事が尖閣諸島の購入を表明し、ことを荒げることに一役買っている。“領土”ナショナリズムや“オリンピック”ナショナリズムは、人民を統治する権力側の人間には、きわめて都合がよい。簡単に人民の心を統合できるからである。しかし、冷静に考えれば、竹島が韓国のものか日本のものかは、統治される側の私たちにとってはたいした問題ではない(もっとも、竹島周辺で操業をする漁民とっては大きな問題かも知れないが)。徳川幕府の時代、鬱陵島が朝鮮領だということで決着すると日本側も朝鮮側も、竹島がどっちのものだというようなことには関心がなかった。国境線や領土が問題になるのは、「国民国家」が成立して各国が領土争いをするようになってからのことである。日本列島は、大陸から分離して、周囲が海に囲まれているので、「日本」や「日本人」はずっと昔から存在していると思いがちであるが、ヨーロッパ大陸をみればわかるように、現在のような国境線で区切られたフランス、イタリアやドイツが昔から存在していたわけではない。よく考えれば、国境線を越えたら言語がまったく違うなどというのはいかにも不自然で、人為的に誰かが強制したものだ。実際、それは近代国家が国民統合のために「標準語」を決めてその使用を全国的に「強制」したものだ。昔から近隣の人びとは国境線など気にしないで似たような言語で暮らしていたのだ 

 

こんにち、領土問題は、「国家」と「国家」の威信をかけて互いに激しく論争し合っている(どの「国家」も「国民」を総動員するが、実態は国民統合を狙って統治者が煽っているだけ)。この「国家」という日本語は、英語で言えば“state”の訳語(=和製漢語)である(現在、中国も韓国も日本の明治時代のこの訳語を逆輸入して同じように使っている)。
もともと日本語の「国(クニ)」は、海や天に対する土地・陸地を意味し、範囲の狭い一地方を指す言葉であった。いまでも、出身地を尋ねるとき、「おたくのクニはどちらですか」などと言う。また、「家(イへ)」は家族の住まいや家族集団を指す言葉であった。それが、やがて中世以降、政治的支配の単位として確立し、領地と民を含む政治的共同体を意味するようになった。

「国家」の法学的な意味として、よく「国家の三要素」が言われる。領土・人民・統治権の三要素である。しかし、「国家」の本質は、“State”(ラテン語のstatusが語源)であることからして、「状態」(マキアヴェリが『君主論』でフィレンツェの支配体制を「このような状態(lo stato)」と表現したことから、支配機構を指す言葉として転用された)、すなわち、領土・人民を含まない、もっぱら支配機構・統治機構のことである。

「愛国心」とは、patriotism、本来「郷土」(patria)への愛であって、決して「国家」(state)への愛ではない。支配機構を愛するということはないからである。Patriotismが、Nationalismと渾然一体となったのは、近代国民国家が成立してからのことである

 

ヨーロッパで近代国民国家が成立するのは、フランス革命、ナポレオンのヨーロッパ侵略以降である。ナポレオンのヨーロッパ侵略が、ヨーロッパの他の地域にnationの意識とnationalismを「輸出」した。日本では明治維新以降である。

「ネイション」は「共同体」というものの、それを構成する人びとは大多数お互いを知ることもなければ会うこともない。それは、「日本人」なら「日本人」というイメージだけによって結合している「共同体」、つまり「想像の共同体」である。「ネイション」の特性や独自性を象徴するものとして、言語、文化、伝統、歴史、宗教、神話などがあげられるが、これらは、昔からあるもの、自然なものではなく、「ネイション」の形成のために(「共同体」を「想像」させるために)、近代国家の為政者によって、再構成されたもの、人びとに植え付けられたものである

 

「国民国家」の成立は民衆の力で絶対君主の圧政を打倒し、「国民」が主権を有する「国家」として、自由と平等を勝ち取る近代市民革命に起源をもつ。また、「国民国家」は、アジアやアフリカなどにおいては、植民地支配からの「解放」の結果つくられた。こうして、近代国家をつくるということは近代以降の歴史の「進歩」としての側面があったことは確かである。しかし、歴史的に、近代市民革命によってできあがった「国家」によってはじめて、「国民」が戦争に動員される体制がつくられた。「想像の共同体」は、場合によってはそのために死ぬこともいとわない「同胞愛」を人びとに抱かせる。そして、このような人びとの一体感と「同胞愛」を、「国家」自身に集中させることができれば、権力は「国民」の忠誠心と愛国心という巨大な力を手に入れることができる。こうして、「国家」を脅かす「敵」に対する戦争に、「国民」が動員されるようになったのだ。近代市民革命以前には「国民」という概念はなく、まして「国家」の戦争のために「国民」が動員されるようなことはなかった

 

領土をめぐる争いも、支配機構としてのstateが支配の貫徹のために創り出したものとすれば、決して自然的・必然的なものではない。お互いに「歴史的に固有の領土」などと言いあうのはナンセンスである。近代国家成立以前には、固有の領土などなかったのだ。また、近代国家成立後の帝国主義時代の「国際法」を振りかざし領有を争っても、統治される側の私たちには何の利益にもならない。「国家」や「国民」の枠組みを絶対視するのではなく、冷静に統治される者同士で、両者が納得できるような問題の解決方法を個別に探るべきだ。


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