プロメテウスの政治経済コラム

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大阪維新の会の「教育基本条例案」と「職員基本条例案」 “浪速のヒトラー”の浅はかさの極致!

2011-08-29 20:53:38 | 政治経済

大阪府の橋下徹知事が代表を務める地域政党「大阪維新の会」が8月22日、「教育基本条例案」と「職員基本条例案」の概要を発表した。大阪維新の会は4月の統一地方選で府議会では単独過半数の議席を獲得。6月に府議会で、他会派を押し切る形で、いわゆる「君が代起立条例」や府議定数削減の条例改正を成立させた。橋下氏は君が代起立条例に関連して、起立斉唱の職務命令に従わない教職員は段階を踏んで免職にすることを可能にすると当時から表明。今回の2つの条例案は、同一の職務命令に3回違反した場合は直ちに免職とする分限処分の基準も示しており、“浪速のヒトラー”のエセ「民意」に従わないものは、教育であろうが公務労働であろうが、すべて切り捨てようとするものである。大阪府民は、すれっからしのチンピラ知事の浅知恵にいつまで付き合うつもりか!

 

橋下知事の「民意」とは、「政治家は選挙で選ばれ、民意を代表しているので、公的な制度の最上位に置かれるべきであり、選挙で選ばれた政治家の選択する政策に反対するものは民意にそむくものである」という、民主主義についての一面的な理解に基づいている。知事や知事の私兵「維新の会」も多数によって選ばれた政治家のやることだから、これに府民が反対するなどもっての外、それは民主主義に反する、というわけである。

橋下理論に従えば、合法的に政権を獲得し、合法的に「全権委任法」を成立させて独裁権力を樹立したヒトラーの政権も、国民主権にもとづく民主主義的なものである、ということになる。橋下知事は、629日夜の自らの政治資金パーティーで、「今の日本の政治で一番重要なのは独裁。独裁と言われるぐらいの力だ」 と気炎を上げた。大阪で、民主主義が行政執行権力によって、民主主義の名の下に破壊されるような状況が進行している。

 

条例案は、▽地方自治体幹部、校長・副校長の公募▽校長に人事権、教科書決定権を与える▽定員割れが続く府立高校の統廃合▽5回の職務命令違反、および同一命令違反3回で職員、教職員の免職▽5段階人事評価による最低評価職員の免職▽条例実行のための人事監察委員会の設置―などを盛り込んでいる。

すれっからしのチンピラ知事には、なぜ教育や公務員の身分保障を知事や首長の行政領域から独立させているかについての意味がまったく分かっていない(実際は、いやしくも彼は弁護士だから本当はわかっているが、すべて彼の「御意」のままに動かしたいという衝動だけがそうさせているのだが)。

政治家に対する「民意」の多数は、そのときの状況で移ろいやすいものである。20098月の総選挙において「民意」は民主党に308議席を与えた。議席占有率は64%となった。けれども、そのあと失政が続き、政党支持率は2011年8月現在で10%台にまで落ちた。つまり現政権は「民意を代表している」とはすでに言いがたい。けれども、擬制的には「民意を代表している」とみなされている。民主党代表選で新代表に選出された野田佳彦氏が、明日、62人目の首相に就任する予定なのは、そのためである。「民意」は状況によって、極端から極端に急変するが、擬制的には「システム」は惰性を保ってしばらく持続する。

教育というシステムは、そのときどきの「民意」から独立して、長期安定的であらねばならない最たるものである。神戸女学院大の内田樹教授は、宇沢弘文先生の「社会的共通資本」論を引用して次のように説明する。

宇沢弘文先生の「社会的共通資本」論によれば、「共同体の存立に必要不可欠のもの」は社会的共通資本と呼ばれ、専門家による専門的な管理運営にゆだねるべきものであって、そこに政治と市場は関与してはならない。
社会的共通資本の第一は自然環境である。第二は社会的インフラストラクチャーである。交通、通信、電力、ガス、上下水道なども社会生活を営む上での基本であり、政権交代のたびに新幹線の停車駅が変わったり、株価が高下するたびにライフラインが動いたり止まったりされては困る。第三は制度資本である。司法、医療、教育などがこれに相当する。「裁き」と「癒やし」と「学び」のためのシステム、それなしでは人間集団が機能できない基本的なシステムである。>
<学校教育について、これが現在の政治イデオロギーになじみが悪いとか、市場の要請にジャストフィットしていないとかいう理由でクレームをつけるのは、裁判官に向かって「愛国心に富み、伝統文化への造詣の深い被告に対しては量刑を軽くしろ」と命じたり、「刑務所の管理コストがかさむから、執行猶予をふやせ」と要求するのと同じようなナンセンスなのである。>

<維新の会の提言している一連の教育改革は「効率的な上意下達組織の形成」にある。素案には、「我が国及び郷土の伝統と文化を深く理解し、愛国心及び郷土を愛する心に溢れるとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する人材を育てること」という基本理念が掲げてあるが、これを書いた人は別に愛国心や郷土愛を高めたいと切実に思っているわけではないだろう。私が経験的に知っているのは、「愛国心」とか「郷土愛」ということをうるさく言う人間に、同胞や同郷者に対する寛大さや愛情の深さできわだつ人間を見たことがない、ということである。彼らはむしろ「愛国心のない人間」や「郷土愛を欠いた人間」をあぶり出して、彼らを攻撃し、排除することの方に興味がある。>
<非国民」とか「売国奴」というようなフレーズを軽々しく口にする人間は、同胞の数を減らすこと、つまり彼らの愛国心発露の機会を減らすことに熱心なので、私はそういう人間を「愛国者」には算入しないのである。だから、こんな文言を条例に書き入れたら子供たちの愛国心や郷土愛が高揚するとほんとうに起草した人間が思っているなら、彼の知性にはかなり問題があり、このような条項を書き入れておくことで、学校において「非国民」や「売国奴」のあぶり出しがやりやすくなると思ってそうしているなら、彼は愛国心に大きな問題を抱えている。


すれっからしのチンピラ知事の「民意」とは、この程度のものである。国民は代表者を選出している、それゆえ国民主権は実現されている、というような皮相な考え方からは、国民が「主権者」であるのは、代表者を選出するときだけであり、あとは単なる統治行為の客体にすぎない、ということになる。大阪府民は、“浪速のヒトラー”の統治行為の客体にすぎないのか!? じっくり考えてほしいところだ。


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