プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

宮本顕治日本共産党元議長死去 世界第一級の共産党を日本に遺した功績は不滅 「朝日」の妄言

2007-07-19 17:12:06 | 政治経済
宮本顕治さんは、1908年(明治41年)山口県熊毛郡光井村(現在の光市)で生まれた。愛媛県の松山高校を経て東京大学経済学部に入学。1929年20歳のとき、雑誌『改造』の懸賞論文に応募した文芸評論「『敗北』の文学――芥川龍之介氏の文学について」が一等に入賞した。31年5月に入党。日本共産党は、1922年に創立されたが、主権在民の民主政治の実現、侵略戦争と植民地支配をやめさせることを主張したため、存在自体が弾圧の対象となり、最初から非合法の政党とされた。同じころ、世界各国で共産党は生まれたが、最初から非合法にされたのは、サミット諸国では日本だけだった。
特高警察による弾圧、迫害は本当にひどいもので、拷問で日本共産党員を殺害しても責任はうやむやにされた。スパイをもぐりこませて弾圧の手引きをさせることも常態化していた。こうしたなかで中央委員会に入った宮本さんらが二人のスパイに気づき、調査をおこなった。その過程でスパイの一人が心臓死するという事件がおきたことを捉え、宮本氏を逮捕した特高警察はこれを、「指導権争いによるリンチ殺人事件」だとして大々的にデマ宣伝。ほかにも、特高警察は日本共産党の名誉を失墜させるため、さまざまな事件を仕立て上げ、デマ宣伝を繰り広げた。宮本氏の非転向の獄中生活は、12年に及んだ。
宮本氏は、獄中という困難な条件下で、日本共産党の名誉を将来にわたり守り抜くために全力をあげ、法廷では事実を解き明かして、デマ宣伝を打ち破った。戦時下の暗黒裁判でもリンチ殺人は立件できず、宮本氏にたいし、治安維持法違反を主とした無期懲役の判決を下したが、戦後、この判決は取り消された(「しんぶん赤旗」同上)。

日本共産党を「暴力革命の党」と中傷するため1950年代のあれこれの事件をとりあげるのも、支配者階級と追従者の常套手段だった。この問題の本質は、ソ連・中国からの干渉にあった。1950年に日本共産党を分裂させた「徳田・野坂分派」を使って、ソ連・中国流の武装闘争方針を持ち込もうとしたのである。それとのたたかいを通じて、今日の党があり、綱領があるわけだが、宮本氏が、その先頭にたって尽力したことは、日本共産党の基礎を築いた不滅の功績である。
21回党大会の閉会あいさつ(1997・9・26)で不破哲三委員長(当時)は、宮本氏の足跡を次のようにたたえた。宮本前議長が党の中央委員会に参加したのは戦前の1933年、それいらい、64年間、ほぼ三分の二世紀という長期にわたって、党の指導の先頭にたって活動してきました」「民主主義と平和の日本をめざす戦前の不屈の闘争に始まり、日本共産党をきわめて困難な状況におとしいれたいわゆる『五〇年問題』の解決、党綱領と自主独立路線の確立、諸外国の覇権主義との断固とした闘争、核兵器廃絶をめざす国際的な活動、日本の民主的な改革をめざすたたかいなど、宮本前議長がわが党とその事業のなかで果たしてきた役割と貢献は、歴史の事実として党史に明確に記録されている」
(「しんぶん赤旗」同上)

支配階級にとって、日本共産党はもっとも手ごわい政治的勢力である。「日本共産党」の政治的名誉と道義的権威をなんとかして打ち砕き、一般大衆が日本共産党のもとに結集しないように仕向けることが、自己の権力維持の不可欠の手段である「共産党は名前を変えたら?」ということが、運動の前進を願っている人々からもしばしば出されることがある。しかし、共産党の名前を変えて一番喜ぶのが、支配階級であるということを忘れてはならない日本共産党」という名前には、戦前の天皇制の暗黒政治の時代から、主権在民・民主主義の政治の実現、侵略戦争反対の旗をかかげて、生涯をかけた人々の歴史、さらに、旧ソ連や北朝鮮などの無法とたたかい、自主独立の立場を貫いてきた歴史が刻まれているだけではない資本主義を根底から全面的に批判する科学的社会主義の理論と思想は、その確固とした基礎があって「資本主義の枠内での民主的改革」=市場原理主義的な資本主義をよりましな福祉国家型の資本主義に転換することも考えることができるものなのだ。 社民主義党への脱皮や党名変更をすすめる「朝日社説」(7月19日)は、階級闘争の現実、改良主義の何たるかをまったく理解できない素人論議か、素人でないとすれば、支配階級のお先棒をかつぐ悪意ある妄言である。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。