プロメテウスの政治経済コラム

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「主権回復の日」  安倍首相は、「恥」を意識する日本人とは無縁なようだ

2013-03-16 19:36:49 | 政治経済

もともと歴史を知らない、知ろうとしない安倍首相。サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日を「主権回復の日」とし、今年から政府主催の式典を開くという。安倍自民党になるまで、自民党の長老たちは、さすがに4月28日を「主権回復の日」などと言わなかった。戦後7年間の占領期間に何があり、どのような情況下で、どのようにサンフランシスコ講和条約が締結されたかを知っていたからである。

1952年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約と、同日発効した日米安保条約によってもたらされたサンフランシスコ体制は、日本を実質的にアメリカへの従属国の地位に縛り付けるものであったというのが紛れもない歴史の事実である。だから、自民党の長老たちは、「恥」を意識する日本人として4月28日を「主権回復の日」などと言わなかったのだ。安倍首相は、「日本の伝統文化に誇りを持てる教科書」に強いこだわりをみせるが、彼自身「恥」を意識する伝統的日本人とは埒外の人間なのだ。

 

ポツダム宣言を受諾して降伏した日本は、連合軍(事実上は米軍)の占領下に置かれることになった。1952年4月28日、講和条約が発効して7年8か月に及ぶ占領期は終了したが、7年間の激動の世界情勢のもとで、日本の異常な対米従属が固定化されることになった。支配層は、「独立」を選べず、その後も選び直さず、「従属」下の条件のもとで、自らの権力基盤を確立し、アメリカいいなりからもたらされる利益を最大限享受することに努めた。こうして日本は、今も、異常なアメリカの対米従属的な「基地国家」であり続け、支配層は、さまざまな既得権益のなかで利益を貪っている。

 

7年8か月に及ぶ占領期になにがあり、なぜ日本は、対米従属の半主権国家になったのか。

戦後占領期は、東西冷戦がアジアで本格化する48年を画期に、大きく2つの時期に分けることができる。前半は、ポツダム宣言と憲法に基づいて民主化が行われるが、後半は、冷戦の激化のなかで民主化が中断し、日本をアメリカの目下の同盟国として「反共の防壁」にするというアメリカ帝国主義の占領政策が全面で実行されることになった。

対日占領期の前期においては、反ファッショ連合の枠組みの存在とポツダム宣言の影響の下、アメリカは、日本の非武装化と軍国主義の解体をめざして日本の政治・経済・社会生活などの構造的民主化改革を進めた。日本の占領がアメリカの占領だけでなく、連合国の占領としての側面をもっていたことを示すのは、極東委員会と対日理事会の存在であった。マッカーサーは、連合国最高司令官総司令部(GHQ・SCAP)とアメリカ太平洋陸軍総司令部(GHQ・AFPAC)の両司令部の司令官を兼ねていた。また、占領形態の特徴は、本土が日本政府や官僚機構を利用する「間接占領」であり、沖縄、小笠原諸島、奄美諸島などが日本政府のすべての行政権を停止する「直接占領」であったことである。ポツダム宣言と反ファッショ連合の枠組みの存在の下でも、アメリカ軍部は沖縄の軍事的価値を高く評価し、戦略拠点としてアメリカの排他的支配をめざした

占領期前期の日本の「非軍事化・民主化」の背景には、アメリカの中国政策も関係していた。アメリカは、中国に蒋介石を中心とする親米政権をつくることを重視しており、その親米政権を安定させるためにも、日本の軍国主義の解体が必要であった。

 

1947年から48年にかけて米ソ二大陣営の冷戦はまずヨーロッパで激化していった。東アジアの情勢も中国で急転回した。蒋介石の国民政府は民衆の支持を失い、毛沢東の共産党は土地改革をつうじて農民の支持を獲得していった。中国における革命の進展に対応して、アメリカは朝鮮においてその支配下にある南半分に反共国家の樹立を急いだ。48年5月南朝鮮だけで総選挙を強行、8月には大韓民国を成立させた。北半分でもそれに対抗し48年9月に朝鮮民主主義人民共和国が成立し、東西対立が決定的となった。

東アジアでの冷戦の本格化とともに反ファシズム連合の枠組みは崩壊し、アメリカの対日占領政策の根本的転換がはじまる。中国に蒋介石を中心とする親米政権をつくることに失敗したアメリカは、アジア支配戦略を補完する役割を日本に担わせることにした。これまでの「非軍事化・民主化政策」をやめて、「極東の工場、反共の防壁」として日本を復興させることにしたのである。日本の政治的安定化、共産化の防止をはかるため、警察力の増強(「警察予備隊の創設」やがて再軍備)、独占資本の復活・経済の安定をめざした

 

50年6月の朝鮮戦争の勃発は、講和条約の締結を急がせた。講和構想で、アメリカにとってやっかいな問題は、講和によって「独立」した日本に米軍が残るための根拠をどうするかということであった。日本政府は、経済復興・貿易再開のため早期講和を望む財界の期待を背景に、講和後の米軍の基地権について日本側の希望にもとづいて駐留を要請するという構想を提示した。この構想は、講和条約締結と同時に日米二国間協定として日米安保条約が締結されることで具体化した。軍事的主権がアメリカに掌握された状態は、国家主権の喪失であるということを当時の支配層がどこまで自覚していたかは定かでない

講和条約は、日本をアメリカの目下の同盟国として復活させるというアメリカの世界戦略にもとづき、西側諸国の署名だけで、日本の賠償問題を不問にするという極めて偏ったものであった。日本の支配層にとっては、非常に寛大な有難いものであったが、日本の戦争責任をめぐるその後のさまざまな紛争の種を残すこととなった。

 

講和条約第3条によって北緯29度以南の奄美、沖縄、小笠原が日本から分離され、日本の「独立」と引き換えに米国の直接占領下に置かれた。奄美の人々は郡民大会や断食祈願、復帰陳情などを繰り返し、条約が発効した4月28日には弔旗を掲げて抗議した。沖縄の人々はこの日を「屈辱の日」と呼んだ。この日を祝う「式典」をおこなうことは、今日に続く対米従属という国民的屈辱を「祝う」ことにほかならない。自民党の長老たちが、「恥」を意識する日本人として4月28日を「主権回復の日」などと言わなかったのは、当然である。安倍首相の「愛国心」は、日本人にとって犯罪的ですらある。

 


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