プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

法的制限を受けない権力が支配する統治体制は要するに、独裁・専制体制である

2014-07-11 20:42:24 | 政治経済

安倍政権はやってはならないことをやろうとしている。
<世論がどう言おうと、権力者がどう言おうと「法律で決まっていることはまげられない。まげたければ法律を変えなさい」という頑なさが法治すなわち立憲主義の骨法である。「法律が何を定めているのかはそのつどの政府が適宜解釈する。いやなら次の選挙で落とせばいい」というのは法治の否定である>(内田樹の研究室「法治から人治へ」)。

統治権力は法的に制限されなければならない。そして、そのために存在する法が「憲法」である

<権力に対する法的制限が一切なかったなら、権力者はみずからの好みや思いどおりにその権力を振るうことができる。その支配下に置かれた人々は、権力者の好みや思い次第でその運命を左右されることになる。権力者の考え一つで、生かされもし殺されもする。権力者が代われば立場が180度変わることもあると、常々覚悟していなければならない>(浦部法穂の憲法時評「『違憲』を『合憲』に変える『解釈変更』は許されない」)。

 

こうした「立憲主義」の基本を共通理解として前提したうえで、内閣や国会による憲法解釈の変更ということを考えてみる。内閣や国会が行政権あるいは立法権を行使するに際して一定の憲法解釈を前提に置くことが必要となる場合もあるから、内閣や国会による憲法解釈自体を否定することはできない。しかし、だからといって、制限を受けている「張本人」に自由な解釈が許されるはずはない。

憲法による制限を、その制限を受ける「張本人」が勝手に緩めたりなくしたりしてはならない、ということは、統治権に対する法的制限の必要性を承認するかぎり、当然のことである。そして、みずからの解釈によるものであれ他者の解釈によるものであれ、いったん統治権に対する憲法上の制限として確立された以上は、それは憲法による制限以外のなにものでもなく、したがって、それを統治権の主体である内閣や国会が勝手に緩めたりなくしたりすることは、当然許されないのである。その制限を緩めたりなくしたりできるのは、憲法制定権者である国民だけであり、唯一可能な道は憲法改正の手続を踏むことだけである。そういう意味で、7月1日の閣議決定には、何の正当性もなく、何の法的意味もない(浦部法穂の憲法時評 同上)

 

立憲主義の政体においては、憲法は統治権力の正当性の唯一の法的根拠であり、いかなる公的行為も憲法に違背することは許されない。

集団的自衛権容認の閣議決定後、安倍首相は、誰の入れ知恵か知らないが、「行政権は内閣に属する」と規定する憲法65条を根拠にこの解釈変更が正当化される旨の主張をし出した。しかし、憲法65条から出てくるのは、行政権の行使にあたってその主体である内閣が憲法を解釈し一定の解釈を前提に置くことが必要となる場合もあるから、そのかぎりで内閣にも憲法解釈権がある、ということだけであって、憲法65条は、内閣の憲法解釈に確定的な意味を持たせたり、ましてや「違憲」を「合憲」に変えるような解釈変更を許容するものでは決してない(浦部法穂の憲法時評 同上)

 

最終的な憲法解釈権は最高裁にある。内閣に憲法解釈権があるとしても、それは憲法の意味を確定的に決定してしまうような効果を持つものではなく、いわば暫定的なものに過ぎない。だから、内閣が「こう解釈することに決めた」と言っても、国会や裁判所がそれに従う必要は一切ない、ということである。

政府が法律条文や判例とかかわりなく、そのつどの自己都合で憲法や法律の解釈を変え、その適否については「世論の支持」があるかどうかで最終的に判断されるというのは、「法治」でなく「人治」ということである。安倍政権がやろうとしていることは「法治」国家の破壊である。

集団的自衛権行使について、それを政府解釈に一任させようとする流れにおいて、安倍内閣はあらわに反立憲主義的であり(彼が大嫌いな)中国と北朝鮮の統治スタイルに日ごと酷似してきていることに安倍支持層の人々がまったく気づいていないように見えるのが私にはまことに不思議でならない(内田樹の研究室 同上)


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