プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

第26次「銘心会南京」友好訪中団に参加して(その2・完)―ダブルスタンダードは通用しない―

2011-08-25 21:28:30 | 政治経済

前回に触れたように、戦争責任問題を巡るダブルスタンダード―対外的にはサンフランシスコ講和条約の11条で東京裁判の判決を受諾するという形で最低限の戦争責任は認めるが、国内的には、戦争責任にかかわる議論を封印し、侵略・加害の歴史事実を記述した教科書、歴史書さらに教師や研究者まで「自虐史観」として排除、忌避するというもの―は、アメリカの対日支配戦略と深くかかわって成立した。つまり、日本の戦後社会は、日本国憲法という立派な憲法を持ったが、真に民主化されることなく、戦時中の日本社会の構造がそのまま持ち込まれたということである。

しかし、今回、発展する中国を目の当たりにして、戦争責任問題を巡るダブルスタンダードがもはや通用しないことを改めて確信した。日本が戦争被害者のアジア諸国民との「和解」を達成できずに、「信頼」を獲得できないことは、いつまでも日本の国際社会における立場を拘束する足枷となるだろう。何よりも、日本企業の自由な経済活動を陰に陽に拘束することになるだろう(今度、冉庄地道戦跡を訪ねたとき、現地のカネボウが中国従業員を三台の観光バスで連れて来ているのに出会した。歴史事実を共有するほかないのであろう)。中国や韓国との民間レベルにおける交流が活発になり、日本国内の情報が逐次伝わる現代にあって、侵略戦争、植民地支配を肯定・美化するような「つくる会」系教科書を採択しているようでは、いくらアジア発展のダイナミズムを取り込もうと叫んでみても虚しく響くだけである。

 

戦争責任の対内的側面では、まず昭和天皇の責任問題があいまいにされた。退位も謝罪詔書の話も結局は、実現しなかった。軍部は、一部が自衛隊のなかに合流したほかは基本的に解体されたが、戦前の官僚は丸ごと温存され、支配層の中心に横滑りすることになった。さらに、政治家については、公職追放があったが、講和条約発効の前後から、大物政治家が政界に次々復帰し、戦犯容疑者が堂々と復権するなかで、戦時中の日本社会の構造がそのまま持ち込まれることとなった

戦前の日本軍=天皇の軍隊=皇軍は、軍紀厳粛で「聖戦」を遂行しているのが建前であったから、「現実」の兵士がそれと違う、違法、残虐行為を恣にしても、「現実」の違法、残虐行為を口外することは厳しく制限された。戦場の兵士は、兵営内や部隊内では強姦、殺害、放火、略奪などの行為を自慢し合うことがあっても、それを部隊の外へ漏らしたり、とくに銃後の国民に漏らすことは、厳しく処罰された(元加害兵士の証言を聞き取ることが極めて困難な作業であるのはそのためである)。

 

不名誉な事実を隠し、「内」と「外」を使い分けても誰もそれを咎めないというのは、軍隊にかぎらず、日本的ムラ社会の悪しき伝統である。政府・軍部の指導者間では周知の南京大虐殺の歴史事実も国民には隠蔽して知らせない。「官」と「民」とを差別するこの構造は、今度の福島原発事故の情報隠しにも共通するものだ。日本社会においては、「身内」「仲間」「内部」と称する内なる組織・集団・利益共同体においては、構成員の非行・不法行為・罪過は馴れ合い的に黙認、放任される一方、これを内部で批判、摘発したり、外部社会に漏らしたり、公表することは裏切り者として集団的制裁を受ける。そして、外部からの異論を頑なに拒否・排除する。

こうして、「お国のため」「家族のため」に戦争に出征し、犠牲になった元兵士たちを、侵略者、蛮行の加害者として歴史事実のなかに位置付けることは、「尊い戦没者」を「犬死に」扱いにし、「戦死者を鞭打つ行為」「英霊への冒涜」だとする非論理的、心情的論理がごく当たり前のように通用することになる。しかし、このような言説は、日本的ムラ社会内部で通用しても、国際社会ではとても通用するものでないことは明らかであろう。

 

日本人がアジアのなかで生きていくためには、日本の戦争の歴史をめぐる相互理解と「和解」を避けて通ることができない。今回、中国南京、石家庄、保定、満城県などを訪問してその思いをいっそう強くした。そして、そのことは特に難しいことではない。中国の人びとが望んでいるのは、「何があったか」「どういう事件が発生したか」という歴史事実を認めてほしい、共有してほしい、ということである。対外的に「村山談話」をご都合主義的に使いながら、対内的には、あったことをないというダブルスタンダードに胡坐をかいて平気でウソの教科書をつくることに対して、不信と反発、ときに嫌悪・憎悪の感情を抱いているだけである。平頂山事件、毒ガス戦、南京事件、三光作戦、中国人強制連行、どれも現地を訪ねたら、すぐに歴史事実であったことがわかる。日本国民がこれらを歴史事実として認識すれば、中国国民の側はほぼこれららの歴史事実を知っているので、日中の国民の間で、「歴史事実の認識」を共有することができる。その歴史事実がなぜ発生し、どのような意義をもつのかといった歴史観まで無理にあわせよ、と言っているわけではない。たとえ中国側の意見に賛成できなくても、相手がそう考えるのはもっともだという共感をもつことである。

 

何よりも大事なのは、日本の侵略戦争で犠牲となった中国、朝鮮、アジアの人びと、家族、民衆、兵士たちの苦しみや悲しみに想像力を働かせ感情を共有すること、犠牲になった人たち一人ひとりの悲しみと不幸を心に思い起こすことである


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