プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

映画「それでもボクはやっていない」  日本の刑事裁判の問題点を見事に浮き彫りに

2007-03-08 20:31:13 | 映画・演劇
映画は、痴漢に間違えられた一人の青年の裁判を通して、日本の刑事裁判制度の実態・問題点をリアルに描いていて、観終わった後、どっと疲れを覚えた。加藤弁護士によれば、「Shall we ダンス?」から11年ぶりの周防監督は、加藤さんが担当した実際の痴漢冤罪事件について綿密な取材を相当積み上げられたようである。日本では被疑者が逮捕されると、警察留置場に長期間勾留され、警察によって自分たちが思い描いた通りの自白を強要され、外からの監視もチェックもない密室のなかで、しばしば冤罪がつくり出される。警察は被疑者を罵倒したり、人格攻撃する実態が外にでることを嫌がって、取調べの録音も一切拒否している。この映画でも、就職活動で満員電車に乗り、女子高校生に「痴漢です」と間違って手をつかまれた金子徹平は、急ぎ警察に引き渡すことしか考えない駅員によって警察署送りとなる。
痴漢はほとんど証拠がないので、被害者の証言を覆すのは、大変難しい。徹平が取り調べ室でいくら「ボクはやってない」を一貫して繰り返していても録音テープもなく、裁判では、人を有罪にすることに長けた捜査官がつくった供述調書が中心となる。裁判官に「ボクはやってない」と訴えても自分がサインした調書で揚げ足をとられてしまうだけである。長期の拘留で心身ともに疲れた被疑者はしばしば調書の文言を冷静にチェックする余裕などないままに、留置場を出たい一心で調書にサインしてしまのだ。物証を重視しないで自白偏重の密室捜査―――これが日本の「人質司法」の実態なのだ

裁判所が扱う刑事事件で無罪判決は、1000件に1件、99・9%が有罪なのだ。裁判官は「有罪推定」に立つのが普通で無罪判決をする裁判官は異端(出世しない)である。映画でも公判途中で裁判官が変わり、裁判の行方に少なからず影響する。また検察官は弁護士に手持ちの証拠を明らかにしない。弁護人は手探りで検察官を論駁していくほかないのである。否認事件に限っても、無罪は100件に3件、裁判でいくら否認しても無罪になるのは3%だけである。最初に金子徹平に接見した当番弁護士は、これらの現実を知り尽くしているがゆえに示談を勧める。しかし、自分が無実であることを知っている金子徹平は、純粋に裁判官は分かってくれると信じて、「それでもボクはやっていない」と繰り返す。 訴えはまことに切ない。母親や友人たちの支援活動もむなしい。

裁判の傍聴者のひとりが、「99・9%の有罪率ってのは、弁護士さんにも便利なんですよ。」という場面がある。しかし、弁護士が「99・9%の有罪率」を逃げ口上にしていいはずがない。いうまでもなく「刑事事件の最大の使命は、無実の人を罰してはならない」ということである。問題は、格別悪役でもない警察官、検察官、裁判官が日常の仕事をこなす中で、容易に冤罪が生まれる日本の現実である。いつ自分が、家族が、友人が徹平の立場にならないという保障はないのだ。

国連の世界人権規約では「有罪が確定していない被拘禁者は、無罪と推定され、かつ、それにふさわしく処遇されなければならない」と謳っている。ところが日本の権力は「無罪推定の原則のルールはガイドラインにすぎない」とうそぶいている。民衆がたたかいの中で人権を獲得していかない限り、日本の権力が自ら人権に目覚めることはありえない。

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