先月21日 18時39分
かねてから療養生活をしていたお嫁さんが亡くなりました。
36歳 あまりにも短い生涯でした。
暮れに黄疸が出始めて「これはダメかもしれない」と思ったのが正直なところ
正月明けに引っ張るようにして連れて行った病院でした。
即入院
それでも彼女はまだ生きる希望を捨ててはいませんでした。
たまる腹水に手焼きながらもステントを入れたり 水を抜いてたんぱくを体に戻すなどのきつい手当てに泣き言言わずに頑張ったと思います。
いつ病院へ行ってもだれか彼か尋ねてくれていて病室は人で溢れていました。
有難いことです。
10日ほどで退院できるはずで 「カワセミのおそばが食べたい」「くら寿司の熟成マグロがおいしいそうな」などと言っていて「退院したら食べに行こうね」と言っていた店はどんどん増えてきたのに 残残念ながら良くはりませんでした。
私の手を取って「お母さんごめんなさい ごめんなさい」と言っていた時にはもう死を覚悟していたのでしょうか?
息子に「いつ頃彼女は生きることを諦めたのかねぇ」と聞いたら「っそりゃ個室に移った頃でしょう」と言いました。
小さな子を残して逝く身をどんな風に感じていたのかと思うと胸がつぶれる思いです。
最後の日 心臓も弱ってきて 痛み止めもだんだん強くしないと効かなくなって強くすると気持ち悪くなっての悪循環の中 突然苦しそうに喘いで 息が荒くなっての最期でした。
ちびも含めて家族に看取られただけまだ良かったのでしょうか?
少し笑って安心したような顔で眠っていました。
「たくさんの中から私を選んでくれてありがとう。」
「子供たちをあなたに託すできないと思っていたけれど 今なら二人の子供をあなたに託して逝ける。ありがとう。」
息子と交わした最後の言葉だそうです。
あれから2週間ほどたちました。月日はどうしなくても流れていきます。
毎日 お茶とご飯を供えながら今が嘘のように感じることも多いのですが 子供たちの行事に追われて忙しくしていることも確かです。
今亭主を家において ずっと息子の家に居候です。
どう工夫の場所を離れることはできないし あとに残された私の余生ると不安になってしまいますが ともかく頑張るしかないです。
私の命 私のためにというわけではなく 少しでも長持ちしますように
かねてから療養生活をしていたお嫁さんが亡くなりました。
36歳 あまりにも短い生涯でした。
暮れに黄疸が出始めて「これはダメかもしれない」と思ったのが正直なところ
正月明けに引っ張るようにして連れて行った病院でした。
即入院
それでも彼女はまだ生きる希望を捨ててはいませんでした。
たまる腹水に手焼きながらもステントを入れたり 水を抜いてたんぱくを体に戻すなどのきつい手当てに泣き言言わずに頑張ったと思います。
いつ病院へ行ってもだれか彼か尋ねてくれていて病室は人で溢れていました。
有難いことです。
10日ほどで退院できるはずで 「カワセミのおそばが食べたい」「くら寿司の熟成マグロがおいしいそうな」などと言っていて「退院したら食べに行こうね」と言っていた店はどんどん増えてきたのに 残残念ながら良くはりませんでした。
私の手を取って「お母さんごめんなさい ごめんなさい」と言っていた時にはもう死を覚悟していたのでしょうか?
息子に「いつ頃彼女は生きることを諦めたのかねぇ」と聞いたら「っそりゃ個室に移った頃でしょう」と言いました。
小さな子を残して逝く身をどんな風に感じていたのかと思うと胸がつぶれる思いです。
最後の日 心臓も弱ってきて 痛み止めもだんだん強くしないと効かなくなって強くすると気持ち悪くなっての悪循環の中 突然苦しそうに喘いで 息が荒くなっての最期でした。
ちびも含めて家族に看取られただけまだ良かったのでしょうか?
少し笑って安心したような顔で眠っていました。
「たくさんの中から私を選んでくれてありがとう。」
「子供たちをあなたに託すできないと思っていたけれど 今なら二人の子供をあなたに託して逝ける。ありがとう。」
息子と交わした最後の言葉だそうです。
あれから2週間ほどたちました。月日はどうしなくても流れていきます。
毎日 お茶とご飯を供えながら今が嘘のように感じることも多いのですが 子供たちの行事に追われて忙しくしていることも確かです。
今亭主を家において ずっと息子の家に居候です。
どう工夫の場所を離れることはできないし あとに残された私の余生ると不安になってしまいますが ともかく頑張るしかないです。
私の命 私のためにというわけではなく 少しでも長持ちしますように
かける言葉もありません。
遺されたお子さんを思うとつらいですね。
ご本人が一番心残りだったと思います。
これからのことは、ゆっくりと考えるとして、
心も体も、少し休めてくださいね。
ご冥福をお祈りいたします。
ボクの母が胃がんで苦しんでなくなる少し前に、
ボクを読んで「よく見て置きなさい。死ぬ苦しみがあるならば、今の私です」と言って、
その後モルヒネで眠るように逝ってしまいました54歳でした。
精神的に耐えるためには、他のことを一所懸命にやることですね。
お疲れ様です。
編集のところに皆さんのブログの更新の知らせがありますが
Fuuさんのが2日前と出てました。
来ました。涙が止まりません。
ほんとに出来たお嫁さんで、お優しく健気な感じで
可愛い方でしたね。
息子さんはどんなにか寂しく思われているでしょう。
お孫さんたちのことを思いますと何と言っていいか
分かりません。
ありきたりの言葉で申し訳ありませんが
心よりお悔やみ申し上げます。
どらさんお忙しいことと思いますが、ご無理
なさいませんよう。
元気でやっております。冷たいようですがなんだか泣いている暇もなくて毎日バタバタです。
葬式の日はいっつも泣いていたのですが不思議です。
このままいたら倒れてしまうのではないかと思うくらい疲れて それで帰ってめそめそしてている暇がないようです。
今更の子育ては思っていたより大変です。激務です。楽しいと思える日が来るのでしょうか?
彼女の写真に報告しながら ため息をつく毎日です。
54歳といえば まだ若いですがhide-sanにとってお母さまがあこがれのような存在の時うちの子供たちとはまた違う思いのお別れでしたね
家の子は あっけないほど後に引きずっていません。あんなにお母さんっこだったのに・・・と思うと不思議です。でもいつか母親のことを思い出そうにも思い出せないという切なさを味わうのだと思うとかわいそうで できるだけいっぱいあたかも母親がそこにいるかのような会話をするように心がけています。
少しでも供養になると思うのですがいかがでしょうか?
死の苦しみをよく見ておくようにと伝えたお母様の強さをすごいと思います。
ただ彼女の場合は少しずつ少しずつ弱っていってはじめは退院したらあれが阿部泰之が食べたいと言っていたのがだんだん口数が少なくなり やがて力尽きたというのが正しかった気がします。死を迎えるエネルギーのようなものは韓jませんでした。悔しくて仕方なかったのは私たち周りの者かもしれません
おなかの中に二人目がいることで大腸がんの気配は見逃されました。お産のせいだと思ったのです。
二度も入院をしたにもかかわらずです。
運が悪かったと思うしかないです。
それでも私たちは頑張りました。良いと思えることは何でもやりました。 一般になさぬ仲と伊wれる嫁姑ですがうまくいったのはひょっとしたら病気を一緒に乗り越えようという目標に向かったからに違いありません。
残念なことはどうにもならないですが かわいい二人の子供を残して逝ってくれたことを感謝してみんなで力を合わせていきたいと思っています。
私の友人も最愛の娘さんを乳がんで亡くされました。
15年程前のことです。
その時に、お孫さんが12歳、、
大阪在住で、親代わりに参観に行ったり。彼女は全力を尽くしてました。
今では結婚されて、やっと彼女はほっとしてます。
どらさんはこれからですが、、どうぞご自分の健康も考えて
無理されないように、お孫さんを見てあげてくださいね。
激務、、確かにです。
お体ご自愛くださいね
特にこの年からです。体はすでにがたが来て思っていたことの半分もできません。
おもい思いちびは最近抱っこをせがむようになり ふらふらになりながらこなしています。
やんちゃなちび達ですから しつけも大変です。
しょんぼりしているのも可哀そうだからこれで良しとしなきゃいけないんでしょうけれどね。
今保育園に週三回預けています。
空きができればもっと預けるつもりです。
安城にもめんどくさい人が約一名いますからね。
近くにいらしたときはぜひ声をかけてくださいね
前に一緒に上った五井山や 宮路山 田原の田原アルプスに囲まれて暮らしています。