Fuu

ある日には山 ある日には畑 自然体で気分良く暮らしています。

日本の三名城 熊本城2

2014-02-20 22:42:21 | 旅行記

Isigaki頬当て御門を入ると 天守閣が石垣の向こうに飛び込んできます。

石垣 美しいですね?

穴太積みでしょうか? 清正公は穴太衆を使って石垣を積んだそうだからきっとそうですね? 打ち込みハギと呼ばれる技法で石をたたき割り積みやすくしたり隙間に詰めてより丈夫にしたり  びっしりと見事に石が組み上げられています。

昔穴太衆の町近江の坂本でとても綺麗な石垣を見たことを思い出しました。

野面積 算木積 穴太積み・・・・などいろいろな積み方があって一つの城でもいろんな積み方が組み合わされているところを見ると時代の境目を見ることができるので面白いです。

Tensyukakuこの天守閣の石垣 

写真が小さいのでわかりにくいかもしれませんが 大天守の石垣は穴太積みのようです。 見事に隙間を埋め尽くされていて 何かを引っかけるような手がかりを寄せ付けず侵入者が登りにくくしてあります。

小天守の石垣は後からで来たものらしいです。石の模様や積み方で時代が解るのです。 
ちょっとしたブロックのように同じような大きさの石がびっしりと並べられています。算木積です。この方がより急で攻めにくい石垣が出来るようですよ。
どっちにしろ美しい石垣です。

天守閣に入る前に右手にこんな石が置いてありました。

Kubikakeisi 首掛け石って書いてあります。
ここの首を引っかけておいたのかと・・・でたっ! お約束のおどろおどろしいエピソード と思ったのですがちがいました。

怪力の若者横手の五郞が熊本城を作る時花岡山から運んできた石だそうで1800キロあるとか・・・・
運ぶときに首にかけてきたのでこの名前があります。

とここまでは良かったのですが 実は横手の五郞さん 実は加藤清正と一騎打ちをして討たれた木山弾正の遺児で 仇討ちの機会を狙って作業に従事していたと

やがて見つかって井戸に落とされたそうですが その上から大石を投げて見たものの五郞さん石を受け止めてはそれを台にして登り また・・・・と言うわけでなかなか手強い。で砂を流し込んで生き埋めにしたと・・・・・
やっぱりおどろおどろしい話になりました。

たたりが続いたそうですよ~~~~

Icyou 大銀杏です。

熊本城が銀杏城と呼ばれるのはこの銀杏が由縁になっています 。
清正公が築城の時にお手植えになったものだそうですがどんどん大きくなりましたが天守閣と同じぐらいの高さになった時西南戦争で焼けてしまったようですよ。

現在の銀杏はその銀杏のひこばえ?
それでも随分大きくなりました。

Tensyukaku2

真っ黒なお城
格好良いですねぇ

長野の松本城にそっくりです。 黒いからでしょうか? 

Omotenasibusyoutai

天守閣のすぐ下でおもてなし武将隊が演舞をやっていました。

何年前だったでしょうか? 若者の雇用対策の一環として名古屋おもてなし武将隊が発足して全国へ広がっていったと思いましたが

名古屋ではもう二代目です。 みんな美しすぎて大人気のようです。

Ido

天守閣の中に井戸がありました。

まさか横手の五郞さんの処刑場所はここでは・・・・・考えてみると 井戸は美しい水があってこそ
その中で処刑はあり得ません。

Ninomaruhoumen

天守閣に登って二の丸方面を見ます。
確かに広大な土地ですね

宇土櫓がとても小さく見えます。
矢狭間か鉄砲狭間か解りませんが ずらっと並んだ塀が見えます。

その向こうが二の丸ですから

Akazunomonnhoumen

 

最後に本丸御殿に入ります。
ここは行政 および生活の場であったわけですが もともとの建物は西南の役で焼失しました。 これから見るのは平成15年から絵図 文献 発掘調査等を基に再現されたものです。

Ro炉がいくつか切ってありました。

私のイメージにある真四角のものでは無く 長い 長い炉です。

ここで一斉に焼き物をしたり煮物をしたり・・・・・一体何人分くらいの食事の支度をしていたのでしょうね?

Fukinuke

屋根は煙を逃がすために 大きな吹き抜けになっています。

Byoubue

Oohiroma大広間です。

一番の突き当たりが藩主の座る若松の間
手前は実は三つに仕切ることが出来て桐の間 桜の間 梅の間

会議の時は畳一つに一人が真ん中の畳を空けて中向いて座るらしい。想像するとおもしろい図です。

右手のふすまの奥にも部屋があります。 帳台の間 家老の間 雪の間

一番どんつきの部屋は昭君の間
特別に豪華です。

Kakejiku

Syoukunnoma凄いでしょ?

安土城にも引けを取らないんじゃ無いかしら?と思ったくらい

復元されたばかりと言う事もあってとても綺麗です。

Tenjyoue天井絵も豪華です。

マラカイトとかアズライト等 天然の鉱石から取る色のようです。

発色が綺麗~~~

Ajisai

マラカイトグリーンとアズライトブルー?

Turu2

Kiji何の花か分らないけれど この色良いな。

Tikarouka本丸御殿の下に闇苅通路と呼ばれる地下通路があります。

二つの石垣をまたいで本丸が作られたことによって出来たらしいですが このような地下通路を持つ御殿建築はよそには無いそうです。

本当はもっとゆっくり見たかったのですが 今日は南阿蘇まで行かないといけません。 何も考えず阿蘇に宿を取ったことを悔いましたが 今更どうにもなりません。

Yakiimoya城彩苑に向う私達の前に けたたましく月光仮面のメロディーが・・・・

あ あれは何だ!

月光仮面だ! いや 焼き芋屋さんだ!

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日本の三名城 熊本城1

2014-02-18 22:49:12 | 旅行記

日本の三名城って何処だ?  熊本の人に申し訳ないけれど熊本城が入っているとは思っていなかった。 いろんな説がある中で2008年に名城百選に選ばれたのは 大阪城 熊本城 江戸城・・・・ちょっと思いがけない結果

城郭の規模を元にすると江戸城 名古屋城 大阪城

設計者による三名城は名古屋城 大阪城 熊本城 
城づくりの名手加藤清正 藤堂高虎の手になる城のうち 特に機能美に優れたと言う点で選ばれているので 池田輝政の姫路城は入らないんだと・・・・・(以上 ウィキ先生に聞きました)

三名城ねぇ・・・・・
加藤清正は 愛知県の津島の人だった。 前に津島の町を歩いたとき 清正神社があった。この小さな町から城作りの名手が現れたんだと感慨にふけったのだった。

Hori熊本は都会だった。
変な言い方だけれど 毎年正月に旅行しているのでお店が休みだったり 閑古鳥が鳴いていたり・・・・と静かな町歩きだったんだけれど

今回は どうしたことか町に車があふれていた。 熊本城に続く道は駐車場に入る車が数珠つなぎで・・・・・ 

どうする?

足の調子もまあまあだったので遠くの駐車場に駐めて歩くことにした。

坪井川がお城のお堀になっている。桜橋を渡る。全体が上り坂になっている。
茶臼山と言われる場所らしく この一体が熊本城のある前から肥後の要になっていたらしい。
加藤清正が 何も無いところに城を建てたわけでは無く それ以前は1400年代に菊池一族の千葉城 その後鹿子木親員の隈本城
やがて戦乱の時代を迎え 大友氏の配下城親冬が入場

秀吉の九州平定後佐々成政が入るのですが検地をあまりに厳しくして一揆が起きてしまいその責任を取って切腹
そんな後に入ったのが加藤清正でした。

おりしも東京都知事選に殿が立候補
急に思い出しました。 細川さんて熊本のお殿様だったよねぇ・・・・・
清正は善政を敷き 領民にせいしょこ(清正公)さんと慕われていたようですが 孫の乱行で改易にあったようです。
その後に細川さんが入ってきたんですね?
細川氏は忠興のころ つまり関ヶ原の戦いの頃は宮津城の殿様だったはずだから この時代の殿様は実に転勤?が多い。息子の忠利の時代に熊本城の当主になったと言う訳らしい。

熊本城が提案している見学コースは三つあります。
一つは大手門コース 熊本城正面玄関から登城するコースです。
石垣コース  熊本城ならではの石垣(武者返し)を堪能するコースです。
櫓・石垣コース  戦火を逃れ現存する重要文化財櫓群や石垣を満喫するコースだそうです。

大きな城なのでどのコースも1-2時間かかります。

Ninomaru私達は・・・と言うとまず桜馬場 城彩苑からバスに乗りました。

二の丸まで連れて行ってくれます。

それにしても桜馬場ってどの城にもあるのですね? 

二の丸駐車場まで運ばれた私達は 大幅なショートカットで熊本城を回ることになります。

しかし 広いです。それでも規模では三大名城に入っていない。 不思議なことです。

名古屋城 そんなに大きかったっけ?

Nakaboriato_2内堀後のように思います。
水はありませんが 大きな堀です。 長ーい塀が築かれ未申櫓 元太鼓櫓 戊申櫓 と連なっています。

堀の手前に時習館という藩校があったようです。 私の住む愛知県豊橋市にも同じ名前の高校があります。
こちらも 藩校が前身のようです。 とても優秀な学生さんのいる学校です。

Nisiooteraguramon西向きに立っている熊本城には北大手櫓門 南大手櫓門 西大手櫓門と三つの櫓門があるのですがこの櫓門が一番郭式が高いのだそうです。

真ん中にあるからでしょうか?

細川忠利が入城するとき この門の前で籠を降りて敷居を押し頂くようにして「謹んで肥後54万石を拝領つかまつりまする」と頭を垂れたと言われているからに違いありません。

Utiyagura宇土櫓が見えてきました。
なかなか美しいです。
櫓の多いこと

何でも櫓49 櫓門18 城門29だそうです。 凄い乱立ですねぇ

ちなみに宇土櫓は 熊本を2分して治めていた小西行長の城宇土と何かしら関係があるようです。

Hohoategomonn どうしてかゆがんでいて酔いそうですが 頬当て御門と言います。

西出丸から本丸へ入る門です。
甲冑を身につけるときに頬に当てる防具を頬当てと言う事から城の顔に当たるとしてこの名で呼ばれている冠木門だそうです。

いよいよ本丸へ入りますよ。

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地上のパライゾ上天草 

2014-02-07 22:03:57 | 旅行記

今日の予定は天草。
とても遠い気がして気が急く。

昔息子が世界遺産登録を目指している長崎周辺の教会群を全部見て回ろうと回ったけれど 天草の奥まではどうしても行けなかった・・・・

天草ってどんなところ?
隠れクリスチャンの島  天草四郎のふるさと 隔離された場所 風光明媚な島々・・・・・
間違っているに違いない いろんなイメージが私の中で膨らむけれど 秋に訪れた黒島と比べると明るい感じしかしないのはどうしてかな?

Kamiamakusa
熊本市を出て南下
イメージは北上だったんだけど宇土まで南下なんだね
三角線に付かず離れず
やがて西へ西へ・・・・

走っているときはさっぱり分りませんでしたがね

やがて三角線を離れて有明海 島原湾を見ながら先に進みます。
普賢岳見えるはずなんだけれど・・・・

ぼんやり見えているようでしたが 写真では全く分からず

半島を大きく回って天草五橋の入り口に到達。
二番目の橋は大矢野島をでて永浦島 前島 上島をつなげています。

Matusima光あふれる美しい風景です。

この風景のせいか キリシタン迫害の歴史がなんだか違和感があるんだけれど やはり悲しい歴史があったようです。

Kinenkan上天草の中心地 「天草四郎メモリアルホール」によってみます。

天草四郎を中心とした自由と平等を求める戦いの様子が紹介されています。
3D映像で見たので迫力満点でした。

島原の乱として有名ですが この天草でも戦いが繰り広げられていた
重い年貢と大凶作  思い通りに年貢の集まらない腹いせとしか思えないようなキリシタンへの迫害

みんな秋に島原へ行ったときに知ったことではありましたが 天草はキリシタンが隠れ住む特別な場所のような気がしていました。

ところがそうでは無かったのです。
島原で火の手が上がり 天草大矢野へ戦火が移り 大島子 町山口川 富岡城 そして最期の地原城へ

まだ子どものような天草四郎に付き従い自由と平和を求めて闘うって言うのは今ひとつ信じられなくて 伝説の人のようにも思えるけれど実在の人物のようです。

Amakusasirou
美少年らしいです。
残っている銅像はどれを見ても??ですが 今と価値観が違うのでしょうか?
それとも信仰に生きる純粋さとか気高さが内面からくる美しさを引き出していたのかもしれません。

キリシタン禁止令とともに追放されたマルコス神父が去りゆくときに予言した天童だったのです。

上天草出身の小西家の家来増田喜兵衛と同士のマルタの間に生まれた増田四郎時貞・・・・天草四郎の本名です。

Enfun
メモリアルホールの上に小公園があるので上がってみました。

円墳です。

キリシタンのお墓だそうです。ここはキリシタン墓碑群として昭和42年に見つけられたと・・・
ぱっと見た目には解らないのですが 見えないところにクルスが彫りつけてあったりするのだそうです。

Bohi

天草島原の乱後は もう信徒はいなくなってしまったと言われてきましたが この墓碑群を見つけたことにより どんなに迫害を受けても 信仰の心は篤く巧みに隠れて信仰していた人々がいたことが解りました。

信仰の力 とりわけキリスト教徒の心は私達にはとてもかなわない強いもののようです。

黒島でもそんな事を感じました。

Sanparu
眼下にさんぱーる 上天草物産館があります。

現代になってやっと天草四郎達の願った地上のパライゾ(楽園)が現れたかのように 悲しい歴史とはかけ離れた明るい海辺になっていました。

松島地区へ移動します。

何処でも似たような景色に松島って名前を付けるんやな  松なんぞありそうに無いけれどと思いながら

亭主は 高舞登山に行きたいと思っていたようだけれど
日本の夕日百選だって  展望台まで車で行けるのも魅力だったようですが
ナビに入れても出てこない

ふらふら走っているうちに 千巖山登山口の文字を発見。 登山口って 私登れるわけ無いでしょ・・・・そう言いながら 何となく試してみたい気にもなって
桜の山だって
標高162メートル 天草の乱で総大将天草四郎時貞がこの山で出陣の祝宴を張り杓子で酒を酌み交わしたと言われる山  以前は手杓子山と呼ばれていたようだ。

行けるところまで車を突っ込んだから何とか登れそうだよ。 問題は下りだね。

有り難いことにゆるーい階段で 私にも登れた。 登り切ると天草の海が目の前に広がる。
Matusima2
さっきとそっくりの海だけれど 橋がいくつか見えて来た道を辿ることが出来る。

一番奥の薄いやまなみはたぶん普賢岳を含む島原半島

確かに地上の楽園のようです。

千巖山は巨石奇岩が折り重なるような山と言う事らしく あちこちに大きな岩があります。

Kigan_2
どうやって出来たのでしょうね? 大きな岩がいっぱいです。

Sankakuten
でっかい岩を這い上がるようにして登ると東屋が

三角点もありますよ~

Sannsakuro下りは 足を痛めてはいけないのでゆっくり巻道で行きます。

散策路があちこちに張り巡らされていますから歩きやすかった。
標高が減るわけじゃ無いのにね

Kyoseki
何とか無事に降りることが出来て(この山知っている人が見たら 何を大げさな・・・・って思ちゃいますよね)

まだ日が高いし 帰るのもったいない・・・・と思ったけれど 今日の宿は南阿蘇
熊本に戻って熊本城を見てから向います。
なんだか効率の悪い行ったり来たりになりました。

藍の天草村によって おみやげをゲットすることも忘れませんよ。

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今年の正月旅行は・・・・・・・くまモンじゃ~

2014-02-05 21:58:06 | 日記・エッセイ・コラム

息子が結婚してから定着した我が家の行事
大晦日にうちに集まって年を越し 爺婆の家に行き正月を迎え その後お嫁ちゃんの里帰りをかねて みんなでセントレアに出かける。

最近(だと思う) お正月は何処へ飛んでも一万円で行ける飛行機チケットがANAからでているんだよね。

「何処へ行く?」
「沖縄はどう?」
「いや 正月に沖縄はしっくりこん」
ああだこうだと話し合いの結果(あたしは話し合いに参加してません。足痛くてどっこも行きたくないんじゃ~~)熊本になった。

熊本かぁ・・・・  

Hikouki何処行く?

熊本城 水前寺公園行ったこと無いなぁ
天草も
ん? 天草って長崎かと思っていたよ。

私の頭の中は島原半島と天草がどんな位置にあるのか理解できないでいる。

よし そこ行こう

後は?
人吉市はどう?
どんな町? 亭主の返事がわかりにくかったので却下

黒川温泉行きたかったらしいけれど 雪が深いと車で入れないかも・・・・・
と言うわけで これも却下
私は行ったことあるから良いけどね~~

と言うわけでいつになくやる気の無い計画のため 宿も何処にとって良いか分らず 行き当たりばったりの 熊本と 南阿蘇

そのために行動が かなり制限されて 行ったり来たりの不思議な旅になりました。

Kumamonお約束のくまモン

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春たちぬ

2014-02-04 21:53:10 | 日記・エッセイ・コラム

立春のこと こんな風に言ってはおかしいでしょうか?

長いことパソコンに向うこと無かったので ブログの書き方忘れそう・・・・何度も何度も書き直して 面倒になって

Oni
二月に入って岐阜の母を訪ねました。 私はまだまだ母にべったり頼り切りです。
ちょっと情けない。

バスから見た鬼さん

懐かしいです。 子どもの頃からこの鬼が町に出るとなんだか気持ちが華やいだものです。
あまりの大きさにテンションが上がったのでしょうか?

春を呼ぶお祭りです。
そのくせ見たこと無いんです。
何時か見に行ってみましょう。

暮れから足を負傷して 
もともと 膝を痛めていて本当は無理をしてはいけなかったのですが なかなかお医者様の言う事は聞けません。

今回は懲りました。
何しろ全く歩けないどころか立つことも出来なかったのですから。
娘は心配してか 私が足手まといになるのかお出かけは車椅子です。
「いやゆっくり杖ついて移動するから良いよ」って言うんだけど・・・・

大嫌いなMRIも新型の機械だったので無事クリア
リハビリのお兄さんはとてもわかりやすく説明とマッサージを伝授してくれて 少しづつ快方に向っています。
岐阜から戻った時には駅から家まで歩いたんですよ  凄い!

腐っていたわけではありません
何しろ好奇心一杯の私  中途半端とは言えいろんな引き出しがあるからそれなりに忙しくしてました。
このまま 歩けなくなっても仕方ないな・・・・って思ったこともあったのですが

あの 鬼さんに出会ってまた気持ちが高ぶっていました。
山登りは禁止されていますが 少しずつ少しずつ ゆっくり ゆっくり自然にふれあう程度で良いから また歩きたいな
そんな気持ちになれた春の一日でした。

ブログものんびり始めようかな
宜しくです。

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