頬当て御門を入ると 天守閣が石垣の向こうに飛び込んできます。
石垣 美しいですね?
穴太積みでしょうか? 清正公は穴太衆を使って石垣を積んだそうだからきっとそうですね? 打ち込みハギと呼ばれる技法で石をたたき割り積みやすくしたり隙間に詰めてより丈夫にしたり びっしりと見事に石が組み上げられています。
昔穴太衆の町近江の坂本でとても綺麗な石垣を見たことを思い出しました。
野面積 算木積 穴太積み・・・・などいろいろな積み方があって一つの城でもいろんな積み方が組み合わされているところを見ると時代の境目を見ることができるので面白いです。
写真が小さいのでわかりにくいかもしれませんが 大天守の石垣は穴太積みのようです。 見事に隙間を埋め尽くされていて 何かを引っかけるような手がかりを寄せ付けず侵入者が登りにくくしてあります。
小天守の石垣は後からで来たものらしいです。石の模様や積み方で時代が解るのです。
ちょっとしたブロックのように同じような大きさの石がびっしりと並べられています。算木積です。この方がより急で攻めにくい石垣が出来るようですよ。
どっちにしろ美しい石垣です。
天守閣に入る前に右手にこんな石が置いてありました。
首掛け石って書いてあります。
ここの首を引っかけておいたのかと・・・でたっ! お約束のおどろおどろしいエピソード と思ったのですがちがいました。
怪力の若者横手の五郞が熊本城を作る時花岡山から運んできた石だそうで1800キロあるとか・・・・
運ぶときに首にかけてきたのでこの名前があります。
とここまでは良かったのですが 実は横手の五郞さん 実は加藤清正と一騎打ちをして討たれた木山弾正の遺児で 仇討ちの機会を狙って作業に従事していたと
やがて見つかって井戸に落とされたそうですが その上から大石を投げて見たものの五郞さん石を受け止めてはそれを台にして登り また・・・・と言うわけでなかなか手強い。で砂を流し込んで生き埋めにしたと・・・・・
やっぱりおどろおどろしい話になりました。
たたりが続いたそうですよ~~~~
熊本城が銀杏城と呼ばれるのはこの銀杏が由縁になっています
。
清正公が築城の時にお手植えになったものだそうですがどんどん大きくなりましたが天守閣と同じぐらいの高さになった時西南戦争で焼けてしまったようですよ。
現在の銀杏はその銀杏のひこばえ?
それでも随分大きくなりました。
真っ黒なお城
格好良いですねぇ
長野の松本城にそっくりです。 黒いからでしょうか?
天守閣のすぐ下でおもてなし武将隊が演舞をやっていました。
何年前だったでしょうか? 若者の雇用対策の一環として名古屋おもてなし武将隊が発足して全国へ広がっていったと思いましたが
名古屋ではもう二代目です。 みんな美しすぎて大人気のようです。
天守閣の中に井戸がありました。
まさか横手の五郞さんの処刑場所はここでは・・・・・考えてみると 井戸は美しい水があってこそ
その中で処刑はあり得ません。
天守閣に登って二の丸方面を見ます。
確かに広大な土地ですね
宇土櫓がとても小さく見えます。
矢狭間か鉄砲狭間か解りませんが ずらっと並んだ塀が見えます。
その向こうが二の丸ですから
最後に本丸御殿に入ります。
ここは行政 および生活の場であったわけですが もともとの建物は西南の役で焼失しました。 これから見るのは平成15年から絵図 文献 発掘調査等を基に再現されたものです。
私のイメージにある真四角のものでは無く 長い 長い炉です。
ここで一斉に焼き物をしたり煮物をしたり・・・・・一体何人分くらいの食事の支度をしていたのでしょうね?
屋根は煙を逃がすために 大きな吹き抜けになっています。
一番の突き当たりが藩主の座る若松の間
手前は実は三つに仕切ることが出来て桐の間 桜の間 梅の間
会議の時は畳一つに一人が真ん中の畳を空けて中向いて座るらしい。想像するとおもしろい図です。
右手のふすまの奥にも部屋があります。 帳台の間 家老の間 雪の間
一番どんつきの部屋は昭君の間
特別に豪華です。
安土城にも引けを取らないんじゃ無いかしら?と思ったくらい
復元されたばかりと言う事もあってとても綺麗です。
マラカイトとかアズライト等 天然の鉱石から取る色のようです。
発色が綺麗~~~
マラカイトグリーンとアズライトブルー?
二つの石垣をまたいで本丸が作られたことによって出来たらしいですが このような地下通路を持つ御殿建築はよそには無いそうです。
本当はもっとゆっくり見たかったのですが 今日は南阿蘇まで行かないといけません。 何も考えず阿蘇に宿を取ったことを悔いましたが 今更どうにもなりません。
城彩苑に向う私達の前に けたたましく月光仮面のメロディーが・・・・
あ あれは何だ!
月光仮面だ! いや 焼き芋屋さんだ!