上平寺城跡から降りていくとやがて屋根がちらほら見えてきます。
伊富貴神社のお社です。
長い下り道を降りてきた安心感からかどうにも画像が少なくて 一部前に行ったときの画像を貼り付けます。
季節感が合わないのはそのためです。あしからず。
古い絵図にはこの伊富貴神社は載っていないので 上平寺城があった頃にはこの神社は無かったかもしれません。
なが~~い階段の真ん中あたりから左に 京極家の墓があります。
とは言え 今ではここに女の人の墓だけを残して高清の墓は 清滝山の麓徳源院に移されています。
なんだか寂しいですね?
この長い階段を降りたところに 京極氏の館がありました。
上平寺城を背後に 前面に家臣屋敷や城下町を作りました。
館まで行く道に 家臣の屋敷を並べるのはこの頃の作り方だったのでしょうか? 安土城もそうでした。
前に内堀と呼ばれる溝を作り 弾正屋敷からくの字に曲って蔵屋敷や隠岐屋敷等広大な屋敷跡が続きます。
奥行き54メートル巾35メートル 奥には庭園跡があります。
落ち葉や土が滞積しているもののここが立派な庭園であったとわかります。
二つの池には中之島が配され虎石と言われる巨石も残っていて・・・
この時代武士がこのような立派な庭を造ることは許されていなかったとのことでした。
このすぐ手前に建物が有り 沢山の素焼きのかわらけが発見されています。
お酒を飲んで「いざ出陣じゃ」ってぱりんと割るあの杯です。
使い捨てだったんですね? それが贅沢の証?
戦前までは池に架かる橋等もまだ残っていたそうで 京極氏が庭を見ながら客人をもてなしていた宴を想像して静かな森の中で感慨にふけっていました。
屋敷跡の一角にコンサートホールのように沢山のベンチが並んでいます。
これは何年か前まで 屋敷跡に灯りを点々とともし演奏会などをしながら京極氏を偲んでいたと言う事でした。 見たかったなぁ・・・・・
上平寺のの戸数は今や14軒だそうで 運営がままならないと言う事でいまはお休みしているのだそうです。 お手伝いしますよ!
広域農道の向こうにこんもりした森のような小山が見えます。
地元では高殿と呼ばれる場所ですが あれが家臣屋敷跡です。
浅見 黒田 若宮 加洲 西野 多賀・・・・等
古地図とぴったり合います。後で行ってみましたが ただの草ぼうぼうの場所でしかありませんでしたが 土塁で囲まれた方形は 屋敷跡には違いありません。
上平寺館は その後クーデターに寄って焼失したようで やがて京極家は一度京極家は姿を消したのです。
黒田官兵衛と竹中半兵衛の話です。
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