私はボランティアという言葉が嫌いだ。
よく「発展途上国でボランティアをしたい」と考える若いコたちから相談を受けるが、結局のところ彼らは「ボランティアをして」帰ってくるのではなく「ボランティアをした気になって」帰ってくるだけのような気がする。
そもそも、途上国への援助、というのは、こちらが援助して、向こうは援助をうけて、それでおしまい、というだけでは本当の意味での「援助」になっていないのではないかと思う。たとえば井戸を掘る、農業をする、といった技術援助の場合、それを現地の人間が求めていて、技術をきちんと習得し、現地で広めることができるようになってはじめて「援助」となるのではないだろうか。もちろん国民性の違いや気候の差などで、一概にうまくいく場合ばかりではないだろう。けれども「してあげる」だけの一方的な援助では、結局のところなにも意味がないように思うのだ。
ボランティアも然り・・・テレビなどでよく取り上げられている日本人が作った学校や施設・・・スタッフは無償で彼らの生活の援助をしているわけだが、「無償」でやっているというボランティアスタッフの生活はいったいどうなっているのか。貯金や仕送りでまかなっているのだろうか。彼らがそれで満足ならそれでいいのかもしれないが、それだけだと所詮はお遊び。本当の意味で支援をしていきたいと考えているのなら、経営・運営は最終的に現地の人間に任せるべきではないのか。途上国の自立を支援するということは、与えるだけでは意味がないのだ。本当の意味で「ボランティア」をしたいと考えるのなら、自分もちゃんと自立し、誰の手も借りなくても一人で生きていけるだけの生活力を身につけたうえではじめて「他人のこと」に手を出す資格を得られるのではないか。
私はタイに住んでいたことがあるが、タイで働き給料をもらって生活していた。給料は決して高いものではなかったし、タイ人しか住んでいない安アパートに住んでいた。だからタイの「物価が安い」なんて思ったことはない。日本人の感覚で考えると確かに物価は3分の1程度ではあるが、もらえる額に対して出て行く額の比率は、円でもバーツでも同じなのだ。そのへんの事情を渡タイしてからすぐに理解できたので、いわゆる「ボッタクリ」には会うこともなかった。東南アジアへ旅行する人からよく「ぼったくられた」「だまされた」という話を聞くが、貨幣の価値を正しく理解していないからそんな目にあうのだ。だまされるほうも悪いと思う。
日本人は世界中どこへいっても自分の価値観だけで物事を判断してしまいがちだとよく聞くが、本当にそうだと思う。世の中にはいろいろな価値観があり、貧しくても家族がそろって生活できることがよしと思っている人だっているし、孤独でもお金さえあれば平気だと考える人だっている。困っている人を助けるのは当然のことだが、自分達の文化を守り、貧しくても日々一生懸命生きている人たちに「ボランティア」の名目で偽善をおしつけるのは果たして正しいことなのか。自分にできること、というのは、なにも現地にいってなにかする、というだけではないはずだ。