テムテムな日常

頑張れみんな!頑張れ自分!

仕方のないことではない

2007-05-31 | 介護職
仕事を決めるときに、「家族の健康と生活を考えて、仕事は週半分程度、当面は午前中のみ」ということで採用してもらったのですが・・・今日もまた、子供の病気で休ませてもらうことになってしまい・・・残念な気持ちでいっぱいです。

結局自分は、なにをやっても中途半端だったんだと思うと、悔しいし、職場はもとより利用者の皆さんにも多大な迷惑をかけてしまったことが残念でたまりません。

やっぱり結局、子持ちの主婦は仕事するな、ということなのでしょう。せっかく仕事にも慣れてきて、毎日楽しくあれこれ考えながら仕事をしていたのに・・・この調子では、職場の上司も私には仕事を振ってくれなくなるでしょうし、いつ「子供の病気」で欠勤するか分からないような人間を、このさき誰が雇うでしょうか。

今日は給料の振込みもあって、久しぶりに自分で稼いだお金、というものを手にすることができましたが、そのうれしさよりも、自分のふがいなさ、職場にかけてしまった迷惑のことを考えると、いっそ返上したいくらいです。

このさきしばらくは、こうして不測の事態で仕事が出来なくなることもあるかと思います。でも、職場にはいつか、せめて「かけた迷惑分」くらいはきちんと返せるように仕事をしていきたい、といつも思っているのですが、忙しい介護現場では先の見えない「いつか」なんかよりも「今日・いま」のほうが大切なのです。

他人に迷惑をかけながら自分のわがままで仕事をするくらいなら、いっそ働かないほうがいいのかもしれません。

そんなことを考えながらも、今いちばん苦しんでいるのは、小さな体で一生懸命病気と闘っている娘・・・どうして週に3回しかない仕事の日に限って熱をだすねんな!!と怒りたくなるけれど、それは仕方のないこと。いずれにせよ、私のような中途半端人間が、自分の出来る範囲でうまく立ち回ろうとしても無理な話だった、ということでしょうか。職場と利用者さんにかけた迷惑を考えると、本当に心が苦しいし、そんな気持ちのなかでつい「もし娘が熱さえ出さへんかったら・・・」と考えてしまうちっぽけな自分にも情けない気持ちでいっぱいです。あ~もう、どうすりゃいいねんな!!夫婦二人だけで子供を育てながら仕事もしている人は、いったいこういったときにどうしているのでしょうか?私の世渡りがへたっぴなのでしょうか。

外国人介護士はじゃぱゆきさんなのか

2007-05-30 | 介護職
フィリピン人介護士の受け入れに関する報道を、ようやく最近あちこちで目にするようになりました。かなり前からこの件について着目していたのに、あまりにも情報がなくて、また社会的にも認知度が低く残念に思っていたのですが、ようやく一般の人々の目にも留まる時間帯にニュース番組等で特集されるようになり、うれしく思っています。

どんな職業でも、まずは知名度がある程度は必要だと思うのです。フィリピン人女性=水商売・不法滞在、といったダークなイメージを払拭するためにも、どんどん報道され、介護業界の実態を世間の人が知ってくれたら・・・と思っています。

しかしながら当然というかなんというか・・・日本に職を求めてやってきた女性達を食い物にするビジネスもすでにあるとは・・・。不法滞在介護職員も都市部ではすでに摘発されているようです。しかし、不法就労をさせてまでも人員が欲しいのは確かなはず。介護業界というものは、そこまで人が足りてないのですよ。

人が人と向き合う介護という職業は、決してマニュアルどおりには進まない。忙しいときも、ちょっとゆとりのあるときもある。じっくり向き合って対処したいときもあるし、できれば距離をおきたい場面だってあるのです。しかし、今ではどこの職場でも深刻な人手不足・・・残業なんて当たり前だし、ひとりひとりと人道的に向き合う時間をもつのはすごく難しい。そんな中、安い賃金で質の高いマンパワーが外国から手に入る、となれば、そりゃひとりでも人が欲しい業界ですから、後ろ暗いことにも手を染めて当然でしょう。

だいたい、外国人介護士が日本で働こうとするための資格が厳しすぎるのです。介護福祉士国家試験を4年で取得だぁ??異国の言葉で試験を受ける、しかも国家試験だなんてハードルが高すぎると思いませんか?日本人だって、勉強不足の人は2回、3回と不合格になっているのですよ。そんな試験を、たった4年でクリアしろなんて厳しすぎ!政府はひとが欲しいのかいらんのか、どっちやねん!と思います。

とはいえこれも、「じゃぱゆきさん」として日本で不法就労する外国人が増えすぎ、犯罪の温床になってしまったという過去があるからなのでしょう。実際すでに不法就労で摘発された「フィリピン人介護士」もいるそうです。

私は、いつかタイに生活の基盤をおきたいと思い、この先絶対になくなることなないと踏んだ介護の世界に入りました。もしタイに住むことが叶わなくても、日本で働きたいタイ人、介護の仕事をするために日本に来たタイ人の役に立つ日がいつかくればいいと思って、日々の仕事に精をだし、日本語を教えることが出来るよう勉強しています。

でもこんな調子では、間違いなく介護業界へ「外国人」を投入することは不可能になってしまいそう・・・企業は結局、自分で自分の首を絞めているのです。目先のこと目がくらんでいる、といのでしょうか。人が足りないなら外国人を雇えばいい、悪さをしないように在留資格をきびしくすればいい、といった一元的な問題ではないのです。

もちろん、きちんとしたルートを作り、業務についての正しい知識と教育はなされるべきですが・・・忙しそうな職員に気を遣いながら日々過ごさねばならないのは利用者です。利用者がもっと快適に、安楽に余生を送れるような介護をするためにやらなければならないことは、外国人就労者に資格を取らせることではないでしょう。いずれにせよ、雇う側も、雇われる側もモラルが問われているわけです。

ひさびさの子供服

2007-05-29 | ものづくり
毎日ちょこちょことなにかしら作ってはいるのですが、なかなかアップする機会がなくて・・・今は季節の変わり目なので、娘の夏服作りに精をだしています。

お兄ちゃんは夏生まれ、娘は秋生まれなので、夏服のサイズが微妙に合わないんですよねぇ・・・。子供ってほんとにすぐ大きくなるものなんですね。

ほかにもいろいろ作りたいものはあるのですが、なかなかまとまって集中作業が出来ないもので、ストレスがたまる一方です。そろそろ「息子の卒園式に着ていくタイシルクのスーツ」の練習用に、喪服でも縫いはじめたいところなのですけど。Tシャツの詳細はいつものようにコチラで。

自然治癒

2007-05-25 | 雑談
1週間前くらいから、喉、というか首がちょっと痛くて、でも私の扁桃腺はしょっちゅう痛むので「また扁桃腺か~」と大して気にも留めていませんでした。

ところが、扁桃腺ならそのうち熱がでたり、あるいはそのまま治ったりと、症状が長引くことはないのに、なかなか喉の痛みはおさまることなく・・・そしてとうとう、見た目にもはっきり分かるくらいに喉が脹れてしまいました。左側だけ首の「くびれ」がない状態・・・。外側から触ってみるとゴリゴリします。

これはもしかしたら扁桃腺ではないのかも・・・。鏡で口のなかから喉を見てみると、喉は赤くなっていないし、いつも膿がたまって白っぽく見える部分も普通の状態。よくよく考えてみると、喉が痛くて首が脹れたのと同時期に、舌の下部分も脹れあがってきているような。飲み込むときに口の中が痛いのは「喉」だと思っていましたが、冷静に考えてみると一番痛むのは「舌の下」でした。

喉にある器官、というと、扁桃腺、甲状腺、唾液腺といったところでしょうか。甲状腺ならもっと症状は深刻だろうし、よく分からないけど食事の際に一番口腔内が痛むのできっと唾液腺に何らかの炎症が起きているのかも・・・と自己判断。食前食後にうがいをしたり、念入りに歯磨きをしたり。喉に冷えピタを貼ってみたりもしました。

一番痛いときには食事も取れないほど辛かったのですが、痛みにもなんだか慣れてきて、まぁ一生コレでもなかろう、と気楽に考えていました。とはいえ首のくびれもなくなってしまい、コレがこのままやとイヤやなぁ、1週間たっても治らへんかったら通院しようか、と思っていたのですが・・・。

それがつい先ほど!!突然口のなかでなにかが弾けたような感覚とともに、自分の意思とは無関係に大量の膿が!!場所はやっぱり舌の下にある唾液腺からでした。膿が出るのと同時に舌下の脹れはみるみる引いていき、首の痛みもなくなっていきました。膿は・・・大匙3杯は出たでしょうか。あぁ、ココが詰まってたのね。

出し切ってしまうと、先ほどまでの痛みや違和感はすっかりなくなり、脹れもスッキリ!病名は分かりませんがなんとか自力で治癒できてよかったです。これで日曜日に予定しているBBQも楽しめそう・・・ヨカッタヨカッタ。

見た目と着心地は比例しない?

2007-05-23 | ものづくり
子供の服を作るようになって、そろそろだいぶ思ったとおりの出来になるような気がしてきています。慣れてきた、というかコツがつかめてきた、というか・・・。以前作ったものがとっても拙く見える気がして恥ずかしくなるのと同時に、自分の腕が(ちょっとだけ)上達したのかなぁと思ってうれしい気持ちになります。

道を歩いていても、買い物をしていても、子供の服に自然と目がいくようになり、自分が作るときの参考にしたり、また世の中の流行を知ったり・・・手作りだからそのぶん愛情も上乗せ、だなんて思いませんけど、背が高くてガリガリの息子と、もうすぐハイハイしそうな娘、筋肉質なのにメタボリックな父ちゃん、そしてワイド画面体型の私にとって、いかに着心地がよくてかっこよく、かわいく見える服を作るか、というのはなかなか難しい。袖のカーブが1センチ違うだけでもシルエットはぐーんと変わってしまうし、同じ形でも色柄によってまた全く雰囲気の違うものになる・・・。もちろん生地も自分で選んでいるわけだから、同じようなものばっかりにならないように気をつけないといけません。う~ん、歴史上初めて「服飾デザイナー」という職業についた人はスゴイなぁ。私にはとてもまねのできるものではありません。

体型のイレギュラーな部分を理解したうえで、型紙の補正を行い体にあった服を作ると、本当に驚くほどスリムにみえたりすっきり動けたりするものです。しかし、街でみかける既製品のなかには、見た目を追求するあまり「着心地」というものがおろそかになっているようなものが多いような・・・。たとえば子供のジーンズ。大人のものをそのまま小さくしたような、ビンテージ風のジーパンは確かにカッコイイんですけど、トイレのときの脱ぎ着が大変だし、小さい子だと腰のひっかかりがないのですぐにずり落ちてしまったりしますよね。裾をひもで絞るようなデザインも、子供達が遊んでいるとき、万が一引っかかって首が絞まってしまったりするコトだってあるでしょう。汗をかきやすい子供には、吸湿性のよい服を着せてあげたいけど、背中にゴム系のプリントがしてあったりしたら汗が逃げないので熱いし・・・。あげていけばきりがありませんが、そんななかで「どちらを優先するか」という選択をしつつ服を選んでいるわけです。

もっとも、父ちゃんのように「耐久性重視」でサープラスを愛用するのもひとつの考え方ですが(ちなみに父ちゃんの軍パンはほとんどが10年選手・・・長持ちしすぎですよ)。

自分が家族のために作る服、というのは、着回しがきくベーシックな色柄で、洗濯に強く、流行に左右されない形。袖丈や身丈は各自に合わせて補正を行います。どうせ作るなら、どこにも売っていないものを作りたいし、気に入ったものを着ていたいですからね。そして手作りすることによって「ものを大切にする心」というものを子供達が理解してくれればうれしいのですが・・・やっぱりまだまだ腕を上げないといけませんね。

隣人を愛せるか

2007-05-22 | 雑談
今朝の新聞を読んで、もう10年も経つのか・・・と思うと、月日の流れとはとても早いものです。とはいえ私たちをとりまく環境は少しも良くなっていないし、相変わらず「彼」と似たような人間なんてごまんといる。それでも失ったものは二度と戻ってこないし、同じような思いをしている人間の心の傷が癒えることはありません。

事件のあと、週刊誌やメディアで報じられた「彼」の素の姿は、確かにちょっと不気味で、心に抱えているであろう闇を用意に想像させるものでした。その闇をすこしでも明るく照らそうと大勢の人が努力し、また「矯正教育」の名目でそれなりに彼も努力したのでしょう。贖罪の言葉を口にし始めたという「彼」の心は、事件当時のそれとは少し違ったものになっているのかもしれません。

本当の意味で「罪を償う」ということは、きっと「彼」の残りの人生を全てかけても不可能・・・加害者も被害者も、どんなに努力したって事件の前の日々を取り戻すことはできない。人の心のうちが分からないのと同じで、いくら「彼」が普通の人間らしい心を「矯正教育」によって得られた(ように見えた)としても、それは穿った見方をすれば「自分の身を守るため」身に着けた処世術のひとつのなってしまっているのかもしれません。でもそれは誰にも分からない。「彼」自身も、一生をかけたって理解しがたいことなのかもしれません。

同じような事件を、二度と「彼」が起こさないと、どうして断言できるのか。

矯正教育を終え、今は身分を隠し普通のいち市民として生活をしている「彼」が、どこでどんな生活をしているのかはたとえ「彼」の隣人ですら知ることができません。私たちには「彼」の心が矯正されて、深い贖罪の意識のもと償いの日々を過ごしている、と信じて生活するほかないのです。いじわるな言い方をすれば、もし「彼」がまた同じような事件を起こしたとして、再びメディアで取りざたされる際、はじめて「あぁ、あの事件の・・・」となるわけです。

私たちの近くに「彼」はいるかもしれない。

加害者ばかりが守り庇われる日本では、凶悪犯罪や性犯罪を犯した人間に寛容すぎるのではないかと思うのです。本当の意味での贖罪とは、たとえそんな人間が過去におかした「罪」によって、まわりから迫害されることがあったとしても、生きるということ、生きていくということでしか償えないのではないかと思うのです。もちろん、過去に犯した罪のことで、司法の場以外で罰を受けることは人間社会のルールにおいてあってはならないことで、周りの人間が心して「彼」との接し方を考えなければならないと思います。それでも、取り返しのつかない罪を犯したというのに、一般市民に紛れて普通の暮らしをする、というのは、やはりどこかいびつな気がします。

「彼」の名前は「酒鬼薔薇聖斗」。私の隣人かもしれません。

根本が間違ってるのでは??

2007-05-21 | 雑談
先日の記事にもしましたが、例の参観日のことを父ちゃんに話したら、父ちゃんも「そりゃうちの子が正しい!!」と言ってくれて・・・そこから話は大発展しその日は父ちゃんと明け方近くまで「教育とはなんたるや」と語り明かすことに・・・。父ちゃんも私と考え方は結構似ているのですが、そこへ歴史好き、軍事オタクのうんちくも絡み話は大きく深く長くなってしまい、聞くのも(ちょっと)大変でした。しかし大人になってからもこうして「大人同士の議論」をする相手がいるということはとても貴重なことです。お互いとてもためになるいい時間をすごしました。

現在の子供たちをとりまく環境というのは、大人が思っている以上に過酷なのかもしれません。毎日のように子殺し、親殺しのニュースを耳にするのにも、心のどこかで「またかぁ」みたいに思っている気がします。そんな中、殺すことも殺されることもないように子供を育てていくこととはいったいどんなことか・・・考えれば考えるほど分からなくなります。

ひとむかし前、少年犯罪が一時期ぐーんと増えた時期がありました。そのときさかんに加害者少年の人権が尊重され、心に闇ができたきっかけはなんだったのか、ということがテレビや新聞で取りざたされましたが・・・いくら心の闇があろうと、不幸な幼少時代を過ごそうと、他人の命を奪う、ということは、人間に生まれ人間社会に生きていくうえでは絶対に犯してはならないルールです。まずはそこからはじめなければならないのではないかとずっと思っていました。

悪いことは悪い、という、ごく基本的なことを抜きにして、そこに「人権」だの「人格」だのは存在しません。

今の世の中・・・その基本的なことが抜けてしまっているがために、不可解な事件が多いのでは、と思います。たとえば、今話題の「赤ちゃんポスト」・・・。生まれてきた命を救うのだから正しい、子育て放棄を促すことになるからダメだ、などと議論はさまざまですが、本質に立ち返って考えてみてください。

子供を宿すことのできる年齢になって、産んだ子供を自分が育てることが出来るかできないか、ということがわからない、というのはありえません。もしも育てることができないと分かっているのなら、どうして「避妊する」ということをしないのでしょうか。そこを一番はじめにキッチリと教えていかなくてはならないのではありませんか?まずはそこから考えていかなくてはならないのではありませんか?

例えば、少年が人を殺してしまったとしても、精神鑑定だのなんだので少年の人権ばかりが尊重されますが、人を殺すことはどう考えても「悪い」ことでしょう。そんな子にいろいろ理由をつけて社会復帰させるのはどう考えてもおかしい。人一人殺められるほどの体力と知力をもってしまっているのなら、いまさらその性癖を矯正するなんてことは相当に難しいことです。

いずれにせようちの子供たちはまだ幼い・・・どのような色にだって染めることができます。そんな過程でいかに生きるすべを身に付けさせるか・・・親になってからまだ6年目の私たちには分からないことばかりです。

どこの職場にもいるもんや

2007-05-18 | 雑談
父ちゃんの職場では、父ちゃんの立場はいわば「えらいさん」なので、些細なことでも耳に入ってくるし、解決する方向へもっていかないといけません。本人としては、どうせ気を砕くなら利用者に対して奔走したいんでしょうけど、なかなか職員70人を束ねる身としてはそうもいってられないようで・・・。昨日も帰ってくるなり「参ったわ・・・」と。

どうやら職場内で不倫恋愛が行われているようで、まぁどこにでもある話なんでしょうけど、妻帯者の男性職員に、ちょっと若くてカワいくてお尻の軽い女の子がちょっかいをだしている・・・とかなんとか。希望休を照らし合わせてみると見事に一致してるし。でもその男性職員の妻も同じ職場の他部署にいるらしく、もしこのことが公になれば3人とも正社員だから3人に辞められるのは困るなぁ・・・と。ぼちぼちリーダー格は気付いているみたいだそうで、「どうなんや?!」と部下に探りを入れたところ、まさにそのとおりだったようです。

どこの職場にもあるであろう話・・・でもその尻軽ちゃんは、職場内のほかの男性職員にも何人かに手を出しているらしく、この業界って意外と閉鎖的ですから、免疫のない男性職員陣のなかにはうっかりころっといってしまった子も何人かいるらしくて。かくいう父ちゃんも「もうな~、狙ってるのミエミエやねん。わしゃそんなんにはひっかからへんけど」と言っていましたが(まぁ嫁の勘としては、ゴハンぐらいは行っているでしょうねぇ。バカな奴)、中には「出会うのが遅かった・・・」などと口走ってしまっている子もいたそうです。

そんな尻軽ちゃんにひっかかるほうも悪いですが、諸悪の根源は節操なくちょっかいをだすその尻軽女でしょう。幸いにもまだ不倫真っ最中の男性職員の家庭にはバレていないようですが、このままでは時間の問題・・・父ちゃんも、「あの女はよその事業所にトバす」と言っていましたが、せっかく新年度のあわただしさも落ち着いてきた今日この頃、人事異動があれば絶対余計なことを勘ぐられてしまうでしょう。難しいようです。

そもそも職場というところは「仕事」をし、企業の利益を追求するところ。職員同士の「仲良し倶楽部」ではないのです。好きになるなら利用者に惚れりゃいいのに。そんな男女のイザコザまで父ちゃんの管轄内にあるとは・・・主任って大変だよなぁ・・・と、ちょっとかわいそうになってしまいました。どうか奥さんが傷つかないようにことがすめばいいなぁと、人事ながら心配しています。

ゆとり教育の意味

2007-05-17 | 雑談
今日は息子の参観日・・・年長組になってからの初参観日です。

実は、昨日個人懇談もあったのですが、息子の保育園での様子にちょっとヘコむようなことを言われてしまっていて・・・もっと親がちゃんとしなあかんのか??と思いつつ参観にのぞみました。今日は普段の園生活を見ることと、外部講師を招いて週1回行われる「知育あそび」の様子を見る、ということで、こういう「お勉強」っぽいことは苦手な息子、大丈夫やろか・・・と、かなり心配しながら行きました。

今日の息子の席は、一番前でしかも先生のひくピアノのすぐ脇、という、いかにも「問題児ポジション」でいきなりガックリ。まぁでも、以前に比べて気持ちが盛り上がりすぎることもなく、みんなと同じようにあさのご挨拶やら歌やらがきちんと出来ていて一安心。お友達ともうまくつきあっているようです。

そして問題の「知育あそび」の時間へ・・・。今日は、先生のお話をきいて、あらかじめ配られたプリントの絵を完成させる、というのをやったのですが・・・私がこういうの、結構苦手なのでどうかな?と思いつつも息子は楽しく取り組んでいました。

内容は・・・「くまくんとうさぎさんとらいおんくんといぬさんがいました。今日はらいおんくんのお誕生日パーティーです。うさぎさんはあたまにリボンをつけていました。くまくんはプレゼントの箱をもってきていました。いぬさんはなにももってきていなかったので大きな声で歌をうたいました。おやつはドーナツが2つずつでした。うさぎさんはジュースをまだ飲んでいません。いぬさんは半分くらいジュースを飲みました。らいおんくんはもうジュースを全部飲んでしまいました」
・・・こういった話を全部聞いてから、「うさぎさんはどんな格好でしたか?」「おやつは何でしたか?」と、配られたプリントに絵を書き足していくのです。息子、意外とすいすい書いていたのですが・・・。

「らいおんくんのお誕生日やのに、らいおんくんがジュース全部飲んでしまったからゆうてジュースは入れてあげたらあかんのん??」と言い出したのです。

そりゃ、そうですよねぇ。こういった場合、主役の飲み物が空、というのは、絵的にも変です。で、息子としては、絵の中にみんなの飲み物があるのにらいおんくんが(いくら全部飲んでしまったからといって)コップが空なのはイヤ、というか気に入らなかったようで・・・。まぁでも、ここでゴネられても困るので、「それはそうやけど・・・今は先生の言わはったようにしとこうか」と、なんとか納得させたわけですよ。

その様子を見ていた外部講師の先生が、参観終了後にこのことをとりあげはって「ゆきくんがこんなことを言っていましたが、今の段階ではそれで当たり前です。でも来年の今頃になって、1年生であれではダメなんです」と・・・。ダメなんか、息子・・・。私としては、いくら架空の話で本質がそこにないとしても、誕生日の絵で主役のコップが空なのはかわいそう・・・という息子の思考回路はすこぶるまっとうで人間らしいとちょっと感心したのですが、世の中的にはダメだそうです・・・。「ゆとり教育」だの「管理教育はあかん」だの「自主性をはぐくむ」だの、耳障りのいいことを言ってはいますが、実際は息子の言ったような情緒的・道義的なことは、「学校教育」のなかには必要のないことだったのか・・・と、暗澹たる気持ちになりました。

ちょっと気弱でひとりっこ気質全開のわがまま息子だけど、いいとこあるな!と親として感心した場面を、「教育者」という立場の人から否定されてしまって、ちょっとガックリ。世の中的には、私が間違っているのでしょうね。

ニーズに応える

2007-05-16 | 介護職
訪問介護員として市内を縦横に走り回るようになって1ヶ月・・・まぁ、週3日、午前中のみの勤務だから、一日に廻るのは2件程度、ぼちぼちというところですが、だいぶ要領がつかめてきて、道にも迷わなくなりました(笑)。以前は「ヨソのお宅で調理なんてできるんやろか・・・」と思っていましたが、意外とそれなりになんとなくそれらしく作れるものですね。仕事の日は、訪問先で調理をしているので、家でごはんを作るのが必要以上に億劫に感じてしまうのですが・・・まぁ、それはそれ。楽しく働いています。

ヘルパーという職業には、利用者との「相性」というものがあるようで、私の訪問先はどういうわけだか「この人ちょっとむずかしいねんけど・・・」という方ばかり。きっと「施設勤務暦5年」ということが予想以上に高く評価されてしまっているのでしょう・・・。そしてなぜか、行く先々で、同行した先輩ヘルパーさんたちに「あの人があんなに穏やかにしててくれるなんて!!」と言われまくり、(私個人としては)いろんな利用者さんのお宅へ派遣されたい気持ちはあるものの、同じ人のところへばかり派遣されるようになってしまいました。これもきっと「相性」なんでしょう。

道を歩いていても、知らない人に道を聞かれることが非常に多いし、あまりよくない言い方かもしれませんが、コダワリの強いちょっと「へんな人」につきまとわれたりすることも非常におおい私・・・ヘルパーとはいえヨソの人間を家に入れなければならないお年寄りの利用者さんたちに警戒されないというのは、きっと仕事をする上ではいいことなのでしょう。でも・・・なんかちょっと複雑ですねぇ。

仕事として知り合っているわけだから、こちらとしては心を開いてくださるのはありがたいのですが、馴れ合いになってしまう関係にはならないようにしないと・・・。「お年寄りのハートはがっちり」のmizzieさんのように、施設勤務ならまだしも、私は訪問介護員です。公私の区別や感情の持って行き方には、必要以上に気を配らなくてはなりません。ある程度のクールさをもって利用者と接していかないと、あれもこれもとなってしまっては結局利用者のためにもならないし、ヘルパーという職業の質をも下げることになりかねません。

でも、これから先の「介護」の業界は、きっと在宅中心になる・・・うちの父ちゃんは老健勤務ですが、老健でもその動きは目に見えてハッキリしてきているようです。お年寄りには生きにくい時代になりつつある昨今・・・仕事とはいえ目的意識をきちんともって、利用者が本当にもとめているニーズを拾い上げていくような介護を目指していかないと、この先に未来はありませんよね。

とはいえ、仕事を終えたあと、記録を書きながら利用者と他愛もない話をするのが意外と楽しかったり。早く娘がもうちょっと強く大きくなってくれたら、もっと働けるのになぁ・・・。