活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

「坐禅は坐禅なり」とは7

2021年07月06日 | 坐禅

「坐禅」という事は言葉を変えていえば「懺悔(さんげ)し尽くされた状態」です。

 

さらに別の言葉で言えば「私の無くなった状態」なのです。

 

「私が何々をしたので懺悔をしなければならない」というものではありません。

 

ですから、「坐禅は坐禅なり」なのです。

 

「私」が坐禅するのではありません。

 

「坐禅は坐禅なり」です。

 

何故ならば「坐禅は懺悔し尽くされた状態」だからです。

 

「私」というものの全く無い状態を「坐禅は坐禅なり」というのです。

 

迷いだけではありません。

 

「不安、恐れ、煩悩」にしろ「人(ひと)の介在が無ければ必ず「その物(不安、恐れ、煩悩)」に成れます。

 

だから「ものの本性」が分かるのです。

 

それを分かろうと押していく力を「菩提心」と言っています。

 

「坐禅」というのは「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)という自分の日常生活」の事です。

 

「行住坐臥の坐禅」が出来るように成るという事は「静中(じょうちゅう)の禅」をしっかり行って、私たち衆生が諸々の作務をする時、頭を使って考える時、体を使って働く時も「坐禅は坐禅なりという様子と同じように成る」という事です。

 

つまり「全部が坐禅」なのです。


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