「私が坐禅をしている、私が仕事をしている」という「坐禅」と「私」というものが二つに成らないように満身の坐禅、満身の仕事に成り切らなければならないのです。
坐禅というものは自分で行うより他に無いのです。
そこを達磨大師は「諸仏の法印は人から得るものではない、自分でやりなさい」とおっしゃっています。
ですから「法(道)」を求める事です。
「法(道)」というのは自分自身の事です。
「自分自身」というのは「法身(ほっしん)その物」です。
「法身」というのは無限であり、無辺のものです。
それが自分の姿です。
しかし、私たち衆生は「人、私、法、道、というものを認める」が為に、こんな大きなものであるという事に気が付かないのです。