「坐禅」という事は言葉を変えていえば「懺悔(さんげ)し尽くされた状態」です。
さらに別の言葉で言えば「私の無くなった状態」なのです。
「私が何々をしたので懺悔をしなければならない」というものではありません。
ですから、「坐禅は坐禅なり」なのです。
「私」が坐禅するのではありません。
「坐禅は坐禅なり」です。
何故ならば「坐禅は懺悔し尽くされた状態」だからです。
「私」というものの全く無い状態を「坐禅は坐禅なり」というのです。
迷いだけではありません。
「不安、恐れ、煩悩」にしろ「人(ひと)の介在が無ければ必ず「その物(不安、恐れ、煩悩)」に成れます。
だから「ものの本性」が分かるのです。
それを分かろうと押していく力を「菩提心」と言っています。
「坐禅」というのは「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)という自分の日常生活」の事です。
「行住坐臥の坐禅」が出来るように成るという事は「静中(じょうちゅう)の禅」をしっかり行って、私たち衆生が諸々の作務をする時、頭を使って考える時、体を使って働く時も「坐禅は坐禅なりという様子と同じように成る」という事です。
つまり「全部が坐禅」なのです。