古人が経典や祖録を残されたのは、我見という自我の迷執に反省を
促して、本分の本性(自分の法)を掴ませるためのものです。
自分の法を掴めば、経典を読んで道理を学んだ甲斐があったというものです。
自分の法を掴めば、経典の文字に用はありません。
経典の中に本性を探すのではなく、経典の説明を借りて、自分の本性、
即ち自己に参じる方向を掴むことです。
そして、自己の本性を見極めたならば、見極めたという自分も忘れることです。
これが、経典の役割です。
ですから、自分というものが基準になって道理を聞いて、法がわかったとしても
信じられたということろに、いつまでも居続けてはいけないということです。