「獅子身中(しししんちゅう)の虫」というお言葉があります。
辞典では下記のように説明しています。
「仏弟子でありながら、却って仏法を謗り、仏法を滅する悪比丘のこと、また内から生ずる禍いのたとえ、獅子が死ぬと他獣はこれを食わないが、ただ獅子の身中に自ら虫を生じてその死骸を食うということから、仏の正法は他から破戒させることは出来ないが、本来仏法を信奉するはずの比丘が自らこれを破壊させることにたとえる」と。
ですから仏教のお坊さんは、外から見れば落ち着きはらって如何にも生死、煩悩、或いは俗世間で言う所の欲を超越したかのごとくに見えても、心中はなかなか穏やかではなく、煩悩がちらちら動いているものです。
「分かったという事と、体得したという事」は全く無関係です。
道理が分かっているので一応散乱した心を抑える事が出来ますが、それは非常に無理があるということです。
「無理をしている」ということです。
そういう状態では「本当の悟り」は甚だ縁遠いということです。
しかしそういう「禅の病を持った人」が甚だ多いと思います。
そういう人は「法に住している事で、自分が空の状態に成っている事を自分自身で良しとしてしまいがち」なのです。
そういうことは全部「法という物に立っている(認めている)自分が在る(残る)」ということに気が付いて頂かなければなりません。
また同時に「法を知(識)って、法を使うという事」を知(識)って来るので「二重三重の誤り」になってくるのです。