坐禅をする時、「不生不滅」、「空」、或いは「無」という城壁を創ってしまって「不生不滅、空、或いは無に成らなければならない」というものに陥らないようにしないといけません。
坐禅をすれば確かに楽にもなりますし、すっきりもしますでしょうし、静かにもなるはずです。
しかし、それは自分の創ったものです。
元はそういう物は在りません。
「禅を知(識)らない時、法を知(識)らない時」というのは、そういう物は在るはずがなく、一所懸命にその事、その事を知(識)らずに行っていたはずです。
そうでないと「残り物が在る」事になります。
自分流にものを考え、自我というものを中心にしていろんな考えを起こすので、それで迷い苦しんでいるだけなのです。
一体何を問題にするのでしょうか。
「前後際断」してみれば、いちいちその時その時の活動体以外に前後は何も「残り物は無い」のです。
「応無所住而生其心」と在るように、応(まさ)に住する所無くして而(しか)も其の心を生ずるのです。