私たち衆生は仏教の話を聞いて何時の間にか「人(にん)と名付けられた自分」と「法」という物の区別がどうしても付かなくなります。
歴代の覚者の書かれた書物という物は、その方々が血の滲むようなご修行の結果、将来の衆生の為に残していかれた物です。
今では、「頑張る」とか「精進する」というような言葉は「死語」に成ってしまっていますが、本当に身を粉にした「粉骨砕身(ふんこつさいしん)」のご修行の結果、「人と法」という物が「一つである」という事を記しておられるのです。
「修證不二(しゅしょうふに)」とか「本證妙修(ほんしょうみょうしゅう)」というお言葉もそうです。
ですから、何も修行しなくて只 坐っているだけで、「人と法が一つに成った」とか「本證妙修だ」と言うのはいくら物事が分かった、悟ったと言ってもそれは「人(ひと)」という物を認めた上での事で、「人(にん)と法」が「一つに成らない事」ですから、腰を下ろす場所はあり得ません。