活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

修行のあり方5

2020年09月05日 | 法理

「眼」は私たち衆生一人一人の顔も見ますが、何もかも見ながら何も一つも、留まることはないのです。

 

その何かに留まったら大変です。

 

「自分の持ち合わせの道具(眼)」をよく見て下さい。

 

人間(にんげん)の考えで何もかも同じように見なさいと、命令した事は無いはずです。

 

私たち衆生の顔はそれぞれ違っていますが、それを同じような見方をしなさいというのと同じです。

 

それは無理な話なのです。

 

ところが「眼」はみんな同じ様に、違えば違ったなりに見て、それで別に問題は無いのです。

 

「眼」は平等といって決めつけもしなければ、差別(しゃべつ)といって決めつけもしないのです。

 

決められないのです。

 

本来「眼(人間)」というのは、そういうふうに上手に出来ているのです。

 

それですけれども、「自分で自分の眼を見た事は無い」のです。

 

そんな大切な道具(眼)を私たち衆生は等閑(なおざり)にしているのです。

 

それですから般若心経で「無眼耳鼻舌身意」と注意を与えるのは当たり前なのです。