「眼」は私たち衆生一人一人の顔も見ますが、何もかも見ながら何も一つも、留まることはないのです。
その何かに留まったら大変です。
「自分の持ち合わせの道具(眼)」をよく見て下さい。
人間(にんげん)の考えで何もかも同じように見なさいと、命令した事は無いはずです。
私たち衆生の顔はそれぞれ違っていますが、それを同じような見方をしなさいというのと同じです。
それは無理な話なのです。
ところが「眼」はみんな同じ様に、違えば違ったなりに見て、それで別に問題は無いのです。
「眼」は平等といって決めつけもしなければ、差別(しゃべつ)といって決めつけもしないのです。
決められないのです。
本来「眼(人間)」というのは、そういうふうに上手に出来ているのです。
それですけれども、「自分で自分の眼を見た事は無い」のです。
そんな大切な道具(眼)を私たち衆生は等閑(なおざり)にしているのです。
それですから般若心経で「無眼耳鼻舌身意」と注意を与えるのは当たり前なのです。