ここのところ、不安と焦りと無気力状態で、日がな一日
ぼーっとしていることが増えています。
TVを見ても面白いと思えないし、本を読む気も音楽を聞く気も
しないし、映画なんか見たくもないし、
でも息子の連絡帳を見るのだけは楽しみだし、
息子のために体操服を毎日洗濯するとか
ごはんを作る、とかのためにだけは動けるのです。
息子がいなかったらとっくに孤独死しているかも・・・。
理由のひとつは、ステロイドの量が順調に減ってきて
そろそろ「いつ再燃してもおかしくない、でも運が良ければ
このまま再燃しないかもしれない」という微妙な線に
なってきたことがあるようです。
このあたりが根治療法がない病気独特の難しさかもしれません。
症状が重くて、日常生活も大変なほど身体が満足に動かないときは
却って開き直って静かに養生していられたのに、
なまじ動けるようになってきて、それなのに手足の痺れや
筋肉のぴくつき、異常な疲れやすさなど、病気の火種は
確実に自分の身体の中でくすぶっている、という感覚があり、
明日あさって、来週の自分さえどうなっているという見通しが立たない、
やりたいこと、やらなければならないと思っていることはいろいろあるのに
身体がついていかない、できそうに思えない、
そんな状況が大きなストレスになっているようです。
いえ、実のところ世界中のどんな人にだって、明日の朝
元気でいるという100%の保証があるわけではないのですから
要は大まかなところで「自分は大丈夫」と思っていられるかどうか
「明日朝起きたら立てなくなっているかもしれない」ということを
意識しているかどうかの違いなのでしょう。
自閉っ子たちは五感や時間・空間の感覚が非自閉のそれとは
かなり違うので、いつも不安や驚きでいっぱいなのだ、だから
具体的に怖いもの、嫌なものは取り除いて、スケジュールなどで
見通しを立てて、わかりやすい安心できる生活をさせて
あげることが第一、と
先日行った教育相談の先生がおっしゃっていたのですが
彼らの置かれた混沌とした不安の世界というのは
こんな感じなのかなあ、と思ったりします。
だったらやはり「気の持ちよう」だとか「努力が足りない」と
叱られても、不安や自信のなさがつのるだけで
なんの解決にも事態の改善にもつながらないのは当然だよなあ、と
身をもって実感しているところです。
ぼーっとしていることが増えています。
TVを見ても面白いと思えないし、本を読む気も音楽を聞く気も
しないし、映画なんか見たくもないし、
でも息子の連絡帳を見るのだけは楽しみだし、
息子のために体操服を毎日洗濯するとか
ごはんを作る、とかのためにだけは動けるのです。
息子がいなかったらとっくに孤独死しているかも・・・。
理由のひとつは、ステロイドの量が順調に減ってきて
そろそろ「いつ再燃してもおかしくない、でも運が良ければ
このまま再燃しないかもしれない」という微妙な線に
なってきたことがあるようです。
このあたりが根治療法がない病気独特の難しさかもしれません。
症状が重くて、日常生活も大変なほど身体が満足に動かないときは
却って開き直って静かに養生していられたのに、
なまじ動けるようになってきて、それなのに手足の痺れや
筋肉のぴくつき、異常な疲れやすさなど、病気の火種は
確実に自分の身体の中でくすぶっている、という感覚があり、
明日あさって、来週の自分さえどうなっているという見通しが立たない、
やりたいこと、やらなければならないと思っていることはいろいろあるのに
身体がついていかない、できそうに思えない、
そんな状況が大きなストレスになっているようです。
いえ、実のところ世界中のどんな人にだって、明日の朝
元気でいるという100%の保証があるわけではないのですから
要は大まかなところで「自分は大丈夫」と思っていられるかどうか
「明日朝起きたら立てなくなっているかもしれない」ということを
意識しているかどうかの違いなのでしょう。
自閉っ子たちは五感や時間・空間の感覚が非自閉のそれとは
かなり違うので、いつも不安や驚きでいっぱいなのだ、だから
具体的に怖いもの、嫌なものは取り除いて、スケジュールなどで
見通しを立てて、わかりやすい安心できる生活をさせて
あげることが第一、と
先日行った教育相談の先生がおっしゃっていたのですが
彼らの置かれた混沌とした不安の世界というのは
こんな感じなのかなあ、と思ったりします。
だったらやはり「気の持ちよう」だとか「努力が足りない」と
叱られても、不安や自信のなさがつのるだけで
なんの解決にも事態の改善にもつながらないのは当然だよなあ、と
身をもって実感しているところです。
ただ、私と同じように、毎日blogにお邪魔して、ちびくま母子の様子を気にかけ、エ一ルを送っている人達が大勢いることを知っていて欲しいです。