雲のむこうはいつも青空

まったりもったり~自閉症息子のいる暮らし@ちびくまママ

ああ、ぬか喜び

2015年09月30日 | 時には泣きたいこともある。
息子が、今日、10月1日から年度末までの契約書を持って帰ってきました。
「あれ?本採用になったときに、年度末までの契約書、もらってたのにな~、なんでだろう?」と思って
息子に訊くのですが、さっぱり要領を得ません。

しかたがないので、2枚の契約書を並べて、どこがちがうのか、比べていたら、なんと、時給が15円も
上がっていることに気が付きました。

さっそく息子を呼び寄せ、
「ねえ、ちびくまくん、ちびくまくんがお仕事頑張っているから、10月から、もっとお給料がもらえるんだって
 すごいねえ毎日、欠席も遅刻もしないで、一生懸命お仕事しているからだねえほんとに良かったねえ。
 さすが、もうすぐ21歳になるだけのことはあるねえ
と、思いっきり、褒めちぎりました。

まあ、金銭にはまるっきり興味のない息子、「ふーん」と気のない返事だったものの、私の褒め言葉には、
若干気を良くした様子。
「ぼくは毎日、お仕事をがんばっています」なんていう独り言も聞こえてきました。

珍しく感動した私は、遅く帰宅した夫に、
「ねえねえ、ちびくま、時給15円も昇給したよ。評価してくれてんのかな~

すると、夫、にべもなく、「ああ、10月1日から、最低賃金上がるからな~」

なぬっ?
すぐにネットで調べると、その通りでした。最低賃金が16円、上がっていたのです。つまり、
時給(最低賃金+2円)だったのが、時給(最低賃金+1円)になっていただけ
がーーーーーーーーん

ええいっ。いいんだーいうちの家の中では、「息子が頑張ったから」昇給!それでいいんだ

とりあえずお知らせ。

2010年05月14日 | 時には泣きたいこともある。
長らく更新が途絶え、ご心配をかけているかもしれません。

実は4月初めにパソコンが故障し、急遽買い換えることになりました。

また、時を同じくして実家の父が体調を崩して入院し、
1ヶ月の入院生活を経て、5月2日に亡くなりました。
入院当初から、もう助ける手立てがないということは
宣告されていましたので、覚悟をする時間は十分にありましたが
やはり身内をなくすというのは、なんとも寂しいものです。

4月いっぱいは仕事と、入学直後の様々な行事との間を縫って
病院で家族と交代で父に付き添う日々を送っておりました。
父を見送った後も、その後の手続き関係に追われ、更新をする
時間がとれずにおりましたが、またおいおいこの間の出来事も
遡って書き綴っていきたいと思っております。

とりあえず、息子は無事特別支援学校高等部に進学し、
毎日楽しそうに学校に通っていることを皆様にご報告させていただきます。
私も特に体調は崩しておりませんので、ご心配いただきませんよう。

「みとり」の時間と最期の挨拶

2010年05月02日 | 時には泣きたいこともある。
入院から4週目に入った25日の日曜日、帰り際に
「じゃあ、お父さん、私もう帰るね。また水曜日に来るから」と
声をかけたのに対し、父が
「ああ、ご苦労さん、気をつけてな」
と答えたのを最期に、父との会話はできなくなりました。

水曜日に私が再び病室を訪ねたときには、もはや
流動食はおろか水分すらも口にできなくなり、
一日中うつらうつらして、意識がはっきりしないまま
うめいたり、うわごとを言うだけになっていました。

そんなに弱っていてさえ、腕に刺さった点滴や体についた
チューブを気にして、半ば無意識のうちに
むしり取ってしまうので、面会が可能な時間帯はずっと
家族がついていて欲しい、と病院側から申し入れがありました。

最初にお医者さんに言われたよりはだいぶ長くもったけれど、
もう父が半分あちらの世界に行ってしまっていることは
目をそらしようのない現実として私たちの前に突きつけられて
いるのでした。

それなのに、母はその日、さくらもちを持ってきていました。
月曜日に、父の意識が少しの間はっきりしたときに
「おかあさん、ちょっとでいいから、あんこ
 食べさせてください。お願いします」と
言ったのだそうです。

「好きなものなら、食べられるかもしれませんね」
父の大好きな小豆餡を、看護師さんが少しスプーンで
口に入れてくれると、父の表情が変わりました。
「おいしい?」と尋ねると、かすかにではありますが
うなずいて、口元をほころばせました。
「本当に好きなんだね、笑ってるよ」と
みんなで言って笑いました。

ゴールデンウイークに入ると、弟も帰省して毎日病院に
つめてくれるようになりました。連休には私も
実家に泊まって、弟や母と交代で父を見守りました。

5月2日、ずっとうなされていた父が、ふと我にかえったように、
「あんた、やさしいなあ」とつぶやきました。
「あんたって誰?」
「おかあさん」
母が「おかあさん、って私のこと?」と訊くと
「うん、おかあさんはやさしいなあ。ありがとう」と
はっきり口にしました。

「おお、すごい。おとうさん、大サービスやんか」
母と弟と私が大笑いすると、父は満足そうに、
「はい。行ってきます」と行ってかすかに手をふりました。
「はい、行ってらっしゃい、って、どこ行くねん」
その日ものり突っ込みで笑いが起きました。

夕方一度自宅にもどった私のところへ
急変の知らせがあったのは、その夜の11時すぎのことでした。
心臓の機能自体が最も重い状態なので、呼吸が止まっても
蘇生措置はしないことになっていましたから、
もう間に合わないことは私にもわかっていました。

深夜のがら空きの高速を飛ばして病院へ向かいながら
ハンドルを握っている間、不思議に涙は出ませんでした。
ドクターの予言に反してもった1か月のこの時間は
父自身ではなく、父を見送らねばならない私たちに
与えられた「みとり」の時間だったのだろうと思います。

母に最期に「ありがとう」の言葉を残した父の
「行ってきます」はきっと私たちへの
旅立ちの挨拶だったのでしょう。

理屈ではいつかは誰にも来る、とわかっているけれど、
自分と自分の家族にだけには来ないような気がどこかでしていた
私にとって初めての、身近な命の旅立ちでした。

父の入院

2010年04月15日 | 時には泣きたいこともある。
そんなに不安に思っていたなら、なぜ自分から学校に
リクエストしてでも事前の準備をしなかったのかというと、

実は私にはもう1つ抱えている問題があったからでした。
4月2日に、実家の父が入院したのです。家にいたときに急に
息苦しさを訴えて救急で受診したらそのまま入院になったとか。

入院した翌々日の日曜日に、息子を連れて慌てて見舞いに行ったら、
父は思ったより元気そうで、自分で歩いてトイレにも行っていました。
「なんだ、緊急入院とかいうからびっくりしたわ。
 思ったより元気そうじゃない。最近ちょっと調子が良いから、って
 無理しすぎたんじゃない?ちょっと自重しなさいっていうことよ」
と私は軽口をたたき、父もてへへと笑いながら、息子に
「もうすぐ高校やな。頑張ってや。おじいちゃんぐらい年寄りになると
 頑張ろうと思っても頑張られへん。今のうちにうーんと
 お勉強して、頑張っとくんやで」
と声をかけてくれたりして、ほっとして帰ってきたのでした。

ところが、その翌々日に、弟が主治医に呼ばれて告げられたのは、
心臓病の末期で、もう手の施しようがない、ということ。
「おそらく、ここ一週間以内の勝負になるでしょう。長ければ
 2,3週間伸びるかもしれませんが、それ以上とは
 ちょっと言えません」

まだベッドの上で起き上がって、母にわがままを言い、さあいつに
なったら家に帰れるかな、と思案している父が、
もう生きて病院を出ることはない、と主治医に断言されても、
まだ私たち家族にはその実感がわきませんでした。

でも、家では3食をペロッと平らげ、まだ足りなくてベッドの上で
スナック菓子を食べては母に叱られていた父の食が
だんだんと進まなくなり、弱気になってきて、
体につながれるモニターやチューブの数が増えていき、

3~4日おきに私が会いに行く度に、目に見えて弱ってくるのが
わかり、なんとも言えない気持ちになりました。

でも、ドクターの言った一週間はなんとか超え、
2週間目も終わろうとする今、
まだまだ子どもだったころの私の知っていた
元気な父に戻ってくれるのではないかという気がして

希望を抱きながら、せっせと病院に通って、
「あんたは昔から気が強いからなあ」などと
憎まれ口をたたかれながら、せめてもの親孝行を
重ねています。

エンジントラブル!

2008年08月04日 | 時には泣きたいこともある。
さて、昨日、ほうほうの体で交流キャンプから
「早退」してきたその帰り道のこと。

自宅まであと150メートルぐらいのところまで帰ってきて
地元の小学校前で信号待ちしていたら、

アイドリングしているはずのエンジンが急に
「ブオーン、ブオーン、ブオーン」と吹き上がったかと思うと、
「ブッスン」とエンスト。


「ひえええ~、なにこれ~」と慌ててエンジンをかけなおしてもまた
「ブオーン、ブオーン、プッスン」
「ブルルル、ブオーン、プッスン」

ぎえええええ。エンジン故障?
幸い、後ろに車は並んでいなかったのでクラクションは
鳴らされずに済みましたが、幹線の右車線でエンコって・・・


もう一度エンジンをかけてみると、今度は不安定ながらも
なんとか車が動いたので、ハザードをつけたまま
わき道に入って車を路肩に寄せることができました。

すぐに保険屋さん(ロードサービスつき)に電話しますが
日曜の夕方なのとこの暑さのせいか、なかなか繋がりません。
しばらく待って、やっと繋がり、事情を話すと
レッカー車の手配ができたら折り返し電話しますということに
なりました。

なにしろエンジンがかけられないのでエアコンを入れるわけにも
いかず、車の中は蒸し風呂のようです。
息子は不安そうに
「車、こわれちゃった?」
「うん、故障だね。今、保険の会社の人が、レッカー社の
 会社にお電話してからお母さんにお電話してくれるから
 ちょっとここで待ってないといけないの」
ここから自宅までは徒歩でも10分かそこらで帰れます。
そこで息子に
「どうする?ここでお母さんと一緒に待つ?それとも
 先にお家に帰って待ってる?」と訊くと
「先に帰っとくよ」との返事。

キャンプの荷物の中から水筒と汗拭きタオル、
それに自宅の鍵を渡して、一足さきに1人で帰らせることにしました。
「冷蔵庫にアイスクリーム入ってるから。おやつに食べてもいいよ」
「はーい」

ほんの数年前なら、こんな風に息子を1人先に帰らせるなんて
とてもできなかったはずですが
やはり中学になってからの自力登下校や、トライやるウイークで
片道25分ほどの道を1人で行き来してきたことが
息子にとっても私にとっても自信になっていたようです。

さて、息子を見送り、しばらくエンジンを冷やしてから
もう一度試しにかけてみると、今度はさっきよりも
回転が安定しています。そこで、そろそろと運転して
5分ほどで無事マンションの駐車場まで帰り着きました。
そこへ保険屋さんからレッカーの会社と連絡が取れたとの連絡が入り、
30分後にマンションまで迎えに来てくれることになりました。

とりあえず荷物を持って一度自宅へ帰ると、
息子は汗だくになった服を脱ぎ捨てて、扇風機を回し、
アイスクリームを1個選んですっかりくつろいでいます。
自宅の鍵もちゃんと所定の場所にしまってありました。

時間を見てもう一度駐車場へ戻り、入り口でレッカーを待ちます。
荷台に車をそのまま載せるタイプのトラックが来て
我が家の車を積んでもらい、私も助手席に乗っていく様子を
バルコニーから一心に眺めている息子の姿が見えました。

ディーラーまで乗せてもらって、車を預け、代車を借りて
帰ってくるまで約30分。
息子は「レッカー車、すごかったねえ。お家の車と
おかあさんをのせていったねえ」とご機嫌です。

「車、どうしたの?」というので
「修理してもらうためにお店に預けてきたよ」と答えると
「代車(こういう言葉は使える)はなに?」と目がキラキラ。

「ワゴンRだよ」と言うと
「えー、ぼくも乗りたかったなあ」
「明日朝プールに行くときは、まだ修理ができてないから
 乗れるよ」
「わーい、じゃあ、明日はワゴンRでプールに行くんだね!」
大小、メーカーを問わず、いろいろな車に乗るのが大好きな息子、大喜び。


結局、この日最大のイベントはエンジントラブルだったのかも。
幸い、エンジン本体は無事で、制御部品の交換で済んだのですが
私にとっては踏んだり蹴ったりの1日なのでありました。


気分はロシアンルーレット?

2007年12月29日 | 時には泣きたいこともある。
CIDPになってからというもの、朝目が覚めてまずすることは
自分の身体感覚を探って、手に力が入るかどうか、
脚に力が入るかどうかを試してみることでした。
しゃがんでみて、きちんと立ち上がれるかどうか、
毎朝どきどきしながら試してみていました。

でも、ここのところ、目が覚めてまずすることは
自分の気持ちを探ってみることです。

実は、もともと抑鬱状態と言っていい状態だったところへ、
クリスマス直前に、精神的に大打撃を受けるような出来事が
起こってしまいました。
私が入院中に思いつき、元気になったらきっと実現させようと
ここ1年ほど暖めてきたある計画が、実現にあと一歩というところまで
来た段階で、全てパーになってしまったのです。

少し落ち着いてきたかな、という私の状態がまたどん底へ
転がり落ちるのは簡単でした。
自分では何とかポジティブに考えよう、何とか前向きになろうと
いう気持ちもあって、ずっともがいているのに、
朝起きてまず頭に浮かぶのが「ああ、今日も生きて目が覚めちゃった」
「寝ている間に死ねたら楽だったのに」という気持ちの日が
かなり多いので、毎朝、今日はどうだろう、とドキドキします。
自分自身の気持ちのはずなのに、自分では「辛い気持ちになりたくない」と
願っているのに、CIDPで神経がやられるのと同様、
自分ではどうしようもない。
「気の持ちよう」だけではないのだと気がつかされるところです。
この間は「山の中で睡眠薬を飲んで凍死」という記事を読んで
「ああ、うらやましいなあ」と思ってしまった自分に
正直びっくりしました。

夜はいくぶん楽な気持ちで布団に入ったはずなのに、朝はいきなり
どん底になっていることもあるし、
崖っぷちのような気持ちで眠ったのに、朝は案外すっきりと
軽い気持ちで目覚めたりして、かと思うとあれよあれよという間に
絶望的になったり
一貫性がないというか、自分でも予測がつかないというあたりが
まるでロシアンルーレット。

どう頑張っても浮上できない暗い気持ちのときは
なぜか喉に何かが引っかかっているような違和感や
背中や肩ががちがちに凝って痛みがあるのに
気持ちが楽になるときは、同時にすうっとそうした
体の苦痛も引いていくので

やはり体と心はつながっているのだなあ、としみじみ感じます。

"I am OK."と思えない不安、自分の体や心が自分でコントロールできない不安、
自分では一生懸命頑張っているのに、失敗ばかりが続く挫折感、
わかっていたつもりでも、自分が実際に体験するまで
本当の意味ではわかっていなかったのだなあ、と
思うことも沢山あります。

息子が自閉だとわかったときに「これで未来も希望もなくなった」と
思ったけれど、後には「あの時早まらなくてよかった」と笑えたように
今の辛い気持ちも、いつか笑い話になる日がくる、と
そのことだけを自分に言い聞かせながら、ぎりぎりのところで
踏ん張っています。

息子は私が辛そうにしていると、すいっと寄ってきて
「おかあさん、すきだよ」と言ってくれたり、
背中をさすってくれることが増えました。
自閉っ子には人の気持ちがわからないなんて、
いったい誰が言ったのだろうと思います。

生きてます。

2007年12月26日 | 時には泣きたいこともある。
皆さん、暖かいコメント、ご心配、メール、ありがとうございます。
まだまだ不安定ですが、生きております。
今朝は久しぶりに、「寝ている間に死にたかった」と思わずに
目が覚めました。
数日振りに洗濯物を干しながら、朝日ってこんなに
すがすがしいものなんだな、と思いました。

弱った心には、たった一行のメールでも、どんなに
染み入るかということを、
自分のことを心配してくれている人がいることに
どれほど支えられるかということを
改めて感じています。

息子に思わず叫んでしまって初めて、
「私はいっぱいいっぱい」だったんだ、と気付きました。
ちょっとここらで一休み。
もう年賀状も、大掃除も気にしないことに決めました。
店だって、今は元日から開いていますものね。

個人懇談やら、通知票やら、楽しいこともあったのですが
それはまたそのうちさかのぼって書くことにします。

息子はとっても元気です。

爆発

2007年12月19日 | 時には泣きたいこともある。
最初のパニック発作(?)への恐怖感(「またあのような状態に
陥るのではないか」という強い不安感・「予期不安」と呼ぶのだそうです)が
ようやく少し落ち着いてきたと思ったら、
今日はまたささいなきっかけで感情が爆発してしまいました。

息子は毎日学校で体力づくりや、体の操作の訓練のため、
ランニングやサーキットトレーニングをしているので、
体操服を毎日洗濯する必要があるのですが、
この季節、なかなか乾かないので、日没後は
リビングに室内干ししてあります。

ところが、息子がその下をくぐろうとして引っ掛けて、
体操服をハンガーごとファンヒーターの上に
落としてしまったのです。
幸い、ファンヒーターでしたし、すぐに拾いあげたので
何事もなかったのですが、
「ちびくまくん、洗濯物の下を走らないようにしましょうね。
 ストーブの上にお洋服が落ちたら、火事になっちゃうよ」
と注意しました。

ところが、こんなちょっとした注意でもたちまち「世界の終わり」に
なるのがうちの息子。
さっと顔色が変わったかと思うと、すぐに布団にもぐって
さめざめと泣き出しました。大声を出したり、くどくど責めたなら
ともかく、この程度のことでも彼には
「なぜ叱られたのか」より「お母さんに叱られた」ことそのもののほうが
大問題になってしまうのです。

やれやれ・・・と思いながら、息子が布団から顔を出すのを待って
こちらへ呼び寄せ、膝枕をして寝かせました。
ところが、完全にパニックモードになっているちびくま、
「もう火事になっちゃう!」
「もうストーブは捨てたほうがいい!」
「もう絶対体操服は着ないほうがいい!」
と思いつく限りの「否定的なこと」を言い始め、
自分でその言葉にさらに興奮して、大泣きしながら、
「ねえ、お母さん、もうストーブは捨てちゃう!」
「もう僕は学校は絶対行かない!体操服なんか捨てちゃう!」
と言い募り始めたのです。

こちらが落ち着いているときでもこれをやられるとさすがに
イラッとくるのですが、このところずっと不安定だった
私の精神状態のほうが、つられて切れてしまいました。

「火事になったら危ないのは、ちびくまくんにだって
 わかるでしょう?そんなに言うなら、もう体操服は
 着なくてよろしい!学校も行かないんだったら
 行かなくていい!」
私の剣幕に驚いて、息子は私にしがみついて泣こうとします。
その手を振りほどいて、
「もういいかげんにしてよ!お母さんだっていっぱいいっぱいなんだから!」
と叫ぶと、さっきまで息子がもぐっていた布団をかぶって
その中に逃げ込みました。
堰を切ったように、涙と激情があふれ出て、そのまま
大声で泣きわめいてしまいました。

しばらく泣いて、ふと我に返ると、
息子がおいおい泣きながら、なんとか私の上の
布団を剥ぎ取ろうとしているところでした。
「おかあさん、ごめんなさい~、ごめんなさい~」

息子に対して声を荒げることなど年に1、2度あるかないかの私が
大声を上げ、泣き叫ぶ姿に、すっかり怯え、パニックになった
息子を見て、こちらの興奮がすっと引きました。
「ごめん」と言って抱きしめると、息子はまた
「ごめんなさい~」と言っておいおい泣きました。

今度は親子でレスキューレメディを落としたお茶を飲み、
しばらくすると2人とも落ち着いてきました。

でも、私はまだ誰かに受け止めてもらいたくて、ネット友だちに
事の次第を伝えました。
「眠れなかったら、電話してきて。起きているから」
すぐに送られてきたその短いメールに、私はどれだけ癒されたことでしょう。

こんな自分を受け止めてくれる人がいる。
頼ってきていいよ、と言ってくれる人がいる。
「人と繋がっている」という実感がどれほど力を与えて
くれるものかを、改めて感じました。

友人のその言葉をお守りに、その日もいつもと同じように
息子と枕を並べました。
明かりを消した部屋の中で、息子はいつもの入眠儀式で私の顔を
触りながら、しみじみとこうつぶやいたのでした。
「おかあさん、今日はこわかったねえ」

盆疲れ(その2)

2007年08月24日 | 時には泣きたいこともある。
あまりの「お客さん」気取りに腹を立てて手伝うように言うと
(本人には悪気はなく、「盆休みなのでゆっくりしたい」と思った
とおりに行動しているだけで、「一方的に世話になるだけでは気まずい」とか
「自分のために病人を働かせては悪い」とかいう発想が
 全くできないだけ、らしい)割と素直に動いてはくれるのですが、
食器を洗うと水をじゃーじゃーと大量に使う割には
汚れが落ちていないのであとで洗いなおしが必要、
台所の床と流し台の周りは水浸し、
洗濯をさせると洗濯機のマニュアルがないと洗濯機を
使うこともできないし、洗剤と水を無駄遣いするばかりで
汚れは落ちていないし、干し方もしわくちゃのまま、
形崩れなどものともせず、なので
あとで全部干しなおす羽目に・・・(T_T)ああ、使えない。


彼は息子の障碍がはっきりし始めたころから数年間にわたって
「母親の性格が悪いからこうなるんだ、育て方が悪いんだ」と
私を責め続けた当の本人ですが

じゃあ、どんな性格の母親がどんな育て方をしたら
これほど周囲への配慮ができないうえに使えない人間ができるのか
ぜひともお伺いしたいものだ、と常々思います。

やっと盆休みが終わって、彼が汚したまま去っていったシーツや
枕カバーなどを全部洗濯して、トイレとお風呂場の大掃除をして
大量に発生したごみ(なぜか普段の2倍)を出してしまったら

どっと疲れが出て、約1週間、とけかけのナメクジのように(爆)
動けなくなってしまいました。
こんなに調子が悪いと、再入院になるのではないかと、
真剣に怖かったのですが、どうやらたまりにたまったストレスの
せいだったようで、ようやくお盆前の状態にまでは回復しました。
いやはや、盆休みならぬ、とんだ「盆疲れ」です。

世の中の「お嫁さん」には、盆暮れごとにこういう試練に耐えて
いらっしゃる方がいっぱいいらっしゃるのでしょうが、
元気なときならいざ知らず、病状が思わしくないときに、
こちらの心身の負担を増やすだけのこういう帰省は、
ホントに勘弁していただきたいものです。

本来なら、こういう輩には「今後我が家への出入り禁止」をきっぱりと
言い渡したいところですが、一番の問題は、彼が

私の配偶者で、息子の父親であるということです。


盆疲れ(その1)

2007年08月23日 | 時には泣きたいこともある。
私の持病であるCIDPとは、ごく簡単に言うと
脊髄から出て手足などの筋肉につながる運動神経の鞘(髄鞘)の部分が
自己免疫によってダメージを受け(脱髄)、
筋肉を動かすための電気信号がうまく伝わらなくなって
両手足などが動かなくなってしまったり
手足などから脊髄へ向かう感覚神経の鞘が脱髄して
痛みや痺れ、感覚麻痺がおこったりする病気なのですが

こうした脱髄性疾患には気温や湿度が高いところに長時間
いることが大敵で、そうした環境では非常に調子が悪くなる
のだそうです。

しかし、気温も湿度も低い避暑地で過ごしたり、常時エアコンをつけて
環境を整えていられたりするほどの経済力のない私にとって、
この国の夏、気温と湿度の高くないところなんて望むべくもなし、
というわけで、入院が必要なほど悪化することはないものの、
梅雨のころからずっとぐずぐずと体調がすぐれない状態が続いています。

残念ながら現在の医学ではこの病気を完治させることはできないし
再燃を予防する確実な方法もなく、風邪などの感染症に
かからないように手洗いうがいを励行するとか、
身体的にも肉体的にも疲れをためないように努力することぐらいしか
自分で気をつけられることはないそうで

しかもあまり安静にしすぎると今度は本来は障害されていない
筋肉や骨が弱ってきてしまうので
週に2,3回、生活に必要な買い物など短時間の外出をする以外の時間は
家でにいて、最低限の家事をこなすほかは2~3時間おきに横になって
休むようにしています。

ステロイドの副作用で顔も体も丸々として血色もよく、
外見的にはとてもどこか悪いようには見えないのに
とにかく自分でも納得できないぐらい疲れやすいので
知らない人が見たら単にぐうたら(いや、元々すぼらでぐうたらでは
あったのですが)の限りを尽くしているように見えるでしょう。

ところが。
この盆休み、そんな我が家へ
「自分がのんびり過ごす」ために帰省してきた輩がいました。

おかげで買い物、食事の用意と後片付け、洗濯物、と
私の用事は増え、休息時間は減る一方。
人が辛い体を引きずって洗濯しているところへ
「これも洗っといて」と洗濯物を持ってきたり、
人が台所で汗をかきながら食事の用意をしていたり
炎天下で洗濯物を干していたりするときに
自分だけ涼しい場所へ移動してTVを見ていたり

私が息子と汗をかきかき杖をついて夕食の買い物に出た間、
掃除機ひとつかけるでもなく流しのお皿一枚洗うでもなく
「ゆっくり本を読んでた」とか言われると
ほとんど殺意に近いものが沸いてきました。