雲のむこうはいつも青空

まったりもったり~自閉症息子のいる暮らし@ちびくまママ

元気です

2011年08月01日 | 母もいろいろ忙しい
あまりに長くご無沙汰したため、体調をご心配いただいている
むきもあるかもしれませんが、私も息子も元気にしております。

この春、私は退院後丸4年間お世話になった杖に
ついにお別れを言うことができ、ようやく補助具なしで
歩けるようになりました。
異常に疲れやすい、とか、気温や気圧の急変がちょっと
考えられないくらい体にこたえる、とか、体のあちこちが
(足の小指とか、二の腕の外側とか)なんの脈絡もなく
ピクピク動く(れん縮、というらしいです)とか
様々な症状は残っているものの、最低限の投薬で
安定を保てています。

息子は、中学卒業後、たったの1センチも身長が伸びないまま、
高等部の2年生になりました。
「キミの思春期とか、反抗期とかはどこへ行ったの?」と
問いたいほど、あいかわらず甘えん坊で、繊細で、従順で、
いつも笑顔で、動きがたまらなくアヤシイ自閉青年に育っております。

この1年と少しで彼が大きく変わったのは、とてもいろんなことに
自信を持って取り組むようになった、ということでしょうか。

そもそものきっかけは、昨年12月の誕生会に、初めて大勢の
人の前で、英語の歌を披露したことのようなのですが、
それ以来、何かにつけて、
「僕は高等部のお兄さんだから」
「僕は自力登校生なんだから」
「僕は字を書くのが得意だから」
「僕は英語が得意だから」
と、「自分には~できる」という意識を口に出すようになりました。

幼児期から、何事にも自信が持てず、くじけやすい彼のために、
ただただ安心感と達成感、自己有能感を育てるべく
心を砕いてきた母が拍子抜けするほど、今の彼は
生き生きと積極的に学校生活を送っています。

授業中の先生の質問や話し合いの席で「はい!はい!」と大きな声で
手を挙げてアピールするなんて、中学時代までの彼を知る
先生方には、びっくりするような光景かも。

理解があり、熱心で、彼の気持ちに寄り添ってくれる担任や、
彼のありのままを暖かく受け入れ、かばったり助けてくれたりした
やさしいクラスメートたちに囲まれていてさえ、

彼の能力が、標準的なそれとは言えない学校に行かせることで
「自分は常に100%頑張らなければついていけない」
「自分はどんなに頑張ってもみんなのようにはできない」と
つらい思いや悲しい思いを知らぬうちにさせていたのかも
しれないなあ、と

少し胸の痛む思いもしています。

恵まれた人間関係を引き寄せる力の強い息子、
今のクラスメートたちも、「よくもまあ、こんな子ばかり」と
感心するほど、みんなが揃って穏やかで、他人の良いところを
素直に認め、弱いところを助け合う、笑顔の絶えない、
気持ちの優しい、いい子ばかりです。

中学時代とはうって変わって、担任の先生と毎日
交換日記のように連絡帳を書きまくり合う、とか、
毎日のように電話で情報交換するとか、がなくなって
やや見えにくくなった感のある学校生活ですが
また折に触れて、皆様にご報告できればと思っています。

「星の国から孫ふたり」

2010年12月12日 | 母もいろいろ忙しい
縁あって、映画「星の国から孫ふたり」上映会と同映画の
槙坪夛津子監督の講演会の実行委員会に加わることになりました。

この話が決まってから、慌てて門野晴子さんの原作を
読んだのですが、これが面白い!
カリフォルニア州バークレーでアメリカ人の夫と共に
学生相手の下宿屋を営む娘さんのところに生まれた孫が
2人とも自閉症。

門野さんの著作を知らず、「孫ふたり」のタイトルを見ただけで
「かわいそうな障碍児の孫を一生懸命理解しようとする
 やさしい努力家のおばあさんのお涙ものがたり」だと
思い込んで、今まで手にしなかったことを後悔するほど、

ぴりっと辛口で、愉快痛快。
孫たちの「怪獣ぶり」を余すところなく描ききり、それを
「面白いやつらだなあ~」とある種第三者的に
距離をもって、観察するなんて、「自閉症」を身近に感じる
機会も少なく、旧時代の偏見をどっぷり染み込まされて
生きてこられたはずの、この世代の人にもできるんだ~、
なんて、

門野さんが聞いたら怒られるような、変な感心の仕方を
してしまいました。
それに、アメリカンとジャパニーズのミックスである
エリックくんの発語が出てくると、その独特な英日語の
ちゃんぽんぶりが、わが息子の昔の状態とうり二つ。

日々の生活の大変さと、将来が見えない不安とで、
詳細に記録を残していなかったことを後悔している今となっては
私の記憶に残っているだけの、その愉快なちゃんぽんぶりが
息子の状態像とぴったり重なって、かな~り面白く読めました。

さて、この原作が、どんな映画になるのかしら、と
楽しみにしていたのですが、舞台は日本になっているし、
おばあさんは原作よりもすこーし舌鋒が鈍って(やわらかく)
いるもののの、

自閉症を克服しようとか、障碍に負けないで努力する、という
形でなく、お涙ちょうだいもなく、
「自閉症とともに生きる」人たちの姿を、からっとした
空気感で描いた、秀作にできあがっていました。

自閉症啓発という目的もあってか、説明的な台詞も多く、
エンターテインメントとはさすがに言えませんが、
学校や公的機関などで、自閉症を含む発達障碍への理解を
深めてもらうには、とっても良い作品だと思います。

自らが関節リュウマチほか、数多くの難病に冒され、
電動車いすの上からメガホンを取られた、という槙坪監督とは

難病つながり、アメリカでの自閉症療育つながりで
会場準備中や休憩中もすっかりお話がはずんでしまい、
個人的にもとっても楽しい経験をさせていただきました。

今回、実行委員会を立ち上げたのは、高等特別支援学校の
コーディネーター、M先生(なんか、私の周りにはM先生が
多いなあ)だったのですが、実行委員会に加わらないかと
声をかけていただいたことに感謝しています。
準備活動を通して、いろいろな立場で動いている心ある人たちと
お知り合いになれたのも、今後の財産になりそうです。

この映画、学校での上映会などにも貸し出しが可能だそうです。
お近くで上映会のある人は是非。⇒公式ブログ

映画『星の国から孫ふたり~「自閉症」児の贈りもの~』予告篇


当日の様子はこちら


ヘルパー2級

2006年12月14日 | 母もいろいろ忙しい
実は、今年7月末から、一念発起してホームヘルパー2級の
取得のため、講座に通い始めました。
これまで私は障碍のある子の親として、人から支援を受けるばかり
だったけれど、自分の経験を生かして、今度は他の人を支援する
側に回れないだろうか、と思い、まず手始めにヘルパー2級を
取ろう、と思いついたのです。

ちびくまをタイムケアに預かってもらっての参加なので
毎日というわけにはいかず、原則週1回、11月末で実習までを終え、
12月に行われる修了試験に合格すると資格がもらえる、という
講座です。

ところが。学科講習がもうすぐ終わる、という9月末に発病、入院。
退院後、入院中休んだ分の補講を受けて、実技講座に参加。
あとは2日間の同行訪問実習と3日間の施設実習を残すのみ、と
いうときになって、再発入院。
2回目の退院をしたその足で改めて実習の日程を組んでもらいに行き、
退院の翌週には2日間ヘルパーさんに付いてよそのお家で実習させて
いただき、1日あけてデイサービス、また1日あけて特別養護老人ホームで
2日間実習というハードスケジュールでした。

特養に行ったときには立ち上がりもあやしく、やかんも持てない、
お膳も運べない、もちろん更衣補助やおむつ交換なんか全然できない、で
担当者の方に「これで特養に実習に来た意味があるのか」と言われつつ
自分のできることを精一杯させてもらう、という姿勢でなんとか
認めていただきました。(このときはまだ、スケジュールがハードなので
疲れているんだとばかり思っていました)

実習終了後1日、休養のために一日寝て過ごしましたが、両手両足の
筋力低下はどんどん進行し、翌7日夕方には膝折れのため歩行困難、と
いうところまで行ってしまいました。8日にまた入院、即点滴開始。
このときにはもう手の指先まで麻痺が進行して、携帯のダイヤルが
できず、お箸が使えない状態でした。

そして、12月12日が修了試験。これに備えて、ベッドにテキストと
ノートを持ち込んで点滴を受けながら勉強。
当日は点滴5日目だったので、無理を言って早朝から点滴を開始してもらい、
主治医に外出許可をもらい、ダンナに会社を休んでもらって病院から
会場まで送迎してもらい、歩けないので会場では車椅子を借り・・・・

という大騒ぎの結果、本日、無事修了試験の合格通知が届きました。
これで、1月にはヘルパー2級の認定証がもらえることになります。
受講を決めたときにはピンピン元気で、まさかこんなことになるとは
思ってもみなかったのだけれど、いろいろな人にご迷惑をかけ、
配慮をいただき、支えられての資格取得とあいなりました。

いつか、この資格を生かし、他の方にご恩返しをできる日が
来るでしょうか。少しでも早いといいなあ、と思っています。

あまえんぼ

2006年11月27日 | 母もいろいろ忙しい
私が退院してきてから、ちびくま、以前にも増して
私にべったりです。

「よかったねえ」
「おかあさんがかえってきてよかったねえ」
「ちびくまくんはおかあさんがすきやねえ」
と言いながら、膝に座りに来たり(体重がほぼ同じなんですけど)
背中や肩や腕や顔をべたべたべたべた触りに来たりしています。

留守中は祖母の言うことを何でも聞き、学校でも大きな乱れはなく、
とても頑張ってくれたようですから、その反動もあるのでしょう。
ここは実年齢のことを言わずにしっかり甘えさせてやらないと
あとでくすぶったものが残ってもいけないと、今まで寂しい
思いをさせた分、しっかり受け止めてやろうとは思うのですが。

14日間、1人のベッドで誰にも邪魔されずに眠る時間を味わってしまった
身には、べたべたべたべた顔を触られながら眠るのは
とってもうっとおしかったりします。

発症~それは突然やってきた

2006年10月12日 | 母もいろいろ忙しい
私が自分の体の異変に最初に気が付いたのは、9月28日(木)のことでした。
外出先で和式トイレに入ったところ、立ち上がれなくなってしまったのです。
幸いそのトイレには手すりがついていたため、それを頼りに立ち上がりましたが
ほんの3、4日前に和式トイレを使ったときにはなんともなかったのに、
おかしいなあ、と思いながらも、たまたま脚が疲れていたのだろうか、と
思ってそれほど気にはしていませんでした。このときには階段の昇降、
椅子からの立ち上がりにはまったく問題がありませんでした。

ところがその翌日。スーパーからの帰り、なんだか脚が重いように
感じるのです。そして、夜、お風呂に入ったときに、風呂椅子から
立ち上がれないのに気が付いて愕然としました。前日にはなんともなかったの
ですから。この頃から、腕の力が入りにくくなったことにも気が付きました。
これまで何とも思わず片手でひょいと持っていたお鍋が、やたら重く感じる。
買い物袋をテーブルの上に置くことができない(持ち上げることができない)。
明らかに1日のうちに腕の力も落ちていました。

土曜日になると、手足の脱力はなお深刻になっていました。
畳の上に座ったが最後、立ち上がることができません。
廊下やキッチンまで這って行って、何かにつかまってやっと立つ。
その度に渾身の力を振り絞るので、体は汗だく、息切れもします。
なべやフライパンの類はもう両手でなくては持てなくなりました。
それでも私は車を運転して息子を訓練に連れて行き、一人でスーパーに
夕食の買い物に出かけていました。

日曜日。冷蔵庫のドアも両手で渾身の力を込めないと開かなくなりました。
なべ・フライパンはもう両手でも重く感じるほど、牛乳パックでさえ、
両手で持っても腕がぶるぶる震えます。家の前の階段は手すりを持たないと
上れなくなりました。降りるときにも、膝がかっくんかっくんと崩れるので
とても怖い感じがします。もう家の向かいのスーパーまで、手すりを持って
休み休みでなければ歩けなくなりました。

さすがにここまでくると、病院嫌いの私も受診を考え始めました。
でも、何科に行けばいいのだろう?
痛みもしびれもない、両手両足の急速な筋力低下。
ネットで調べてみると、それはどうやら「神経内科」の管轄らしいと
わかりました。

また、ネット仲間のひいろさんが、2001年に全身の筋肉が急速に
麻痺する「ギラン・バレー症候群」という病気で神経内科に入院しています。
このことからも「手足の麻痺は神経内科」という結論に達しました。

私はこれまで、「精神・神経科」と「心療内科」と「神経内科」の
区別がよくわかっていませんでした。
「精神・神経科」は主にいわゆる「心の病」を扱い、
「心療内科」は主に心の問題が原因で起こる体の問題を扱い、
そして、「神経内科」は「脳・脊髄・神経・筋肉」を扱うということ
のようです。

さて、早速近所に神経内科がないか調べてみると、自宅から車で
20分ほどのところに、かなり充実した検査設備をもつ神経内科の
ある病院があることがわかりました。月曜日の外来予定を見ると、
ALS(筋萎縮性脊索硬化症)、筋ジストロフィー、
ギラン・バレーなどの神経難病を専門とするドクターの診察が
あるようです。とりあえず、この先生にかかってみよう。
私は月曜の朝一でその病院を受診することを決めました。

入院

2006年10月10日 | 母もいろいろ忙しい
しばらくのご無沙汰でした。

実は、3日から緊急入院しておりまして
本日やっと退院してまいりました。

しばらくは自宅静養ということになると思います。
発症の模様や入院生活などについては
体調と相談しながらぼちぼち書いていこうと思っています。
お気が向きましたらまた覗いてください。

とりあえず皆様にごあいさつまで。

お葬式

2006年06月25日 | 母もいろいろ忙しい
今日は夫にちびくまを見ていてもらって、障担のお義父さんの
お葬式に参列してきました。

修学旅行の直前に意識不明になったお義父さんは、障担が
修学旅行から帰ってくるのを待っていたように、翌23日の朝に
容態が急変し、その晩息をひきとられたのだそうです。

危篤の家族を置いて息子のために修学旅行に行ってもらって、
もしも最期のときに間に合わなかったら申し訳ない、と思っていた
私の気持ちも一緒に救っていただいたような気がしています。

障担が帰ってくるまで待っていてくださって、
障担に最期を看取らせてあげてくださって、ありがとうございました、と
今日はお祈りしてきました。

どこが悪いの?

2006年06月19日 | 母もいろいろ忙しい
高校卒業から息子を授かるまで、私は標準体型より少しやせ気味でした。
ウエディングドレスなどは、9号だと少しウエストが余るので
ぴったりのほうがシルエットがきれいだから、と7号を着たものです。

その頃ずっと言われ続けた「華奢」という言葉は
出産後、過去の栄光になりました。
子どもの言葉の遅れに胸を痛めつつ、夫は単身赴任で連絡もしてこない中
独りでもんもんと暮らしていた頃を過ぎ、
渡米後は子どもがおかしいのは私の性格や育て方が悪いのだと言う
夫と対立し、暴言を吐かれ吐き返し・・・
帰国後は米国に打って変わって、なんのヘルプも受けられないまま
「アメリカ帰りのわがままで自己主張の強い母親」とあちこちで呼ばれ・・・
ストレスの極致の中で、私はどんどん太っていきました。
20代の10年間、ずっと保っていた体重を、かるく10キロ以上も
オーバーするまでになってしまったのです。

教育委員会主催の療育キャンプで海水浴に行ったときに
学校の先生が撮ってくれたスナップ写真を見て愕然としたのは
息子が3年生のときです。
だって、「わあ~、うちの学校にこんなに太った人いたかなあ」と
思ったのが、よく見ると自分の後ろ姿だったのですから。

一念発起、私はダイエットを始めました。
ゆっくりゆっくり体重を落とし、3年間で12キロ減量に成功しました。

びっくりしたのは周りの人たち。特に最後の3キロが減った頃から、
「どうしたの、やせたじゃない」と言われるようになりました。
帰国後に知り合った人は、私のむくむく太った姿しかしりませんから、
褒めるというより、むしろ心配してくれるのです。
「どこか悪いんじゃないの?」と。

先日も、就学相談に一緒に出るために来てくれた、隣の障担のH先生が
私をしげしげと見て「自分、ほんまに痩せたなあ~」

「うん、どこか悪いんじゃないかって、よく言われるんですけど、
悪いところと言ったら・・・


顔か頭か根性くらいかなあ。」



「・・・そんな、返答に困るようなこと言わんといてくれ」と先生。

・・・とりあえず、私は元気です。