雲のむこうはいつも青空

まったりもったり~自閉症息子のいる暮らし@ちびくまママ

初めての期末テスト(その1)

2007年06月30日 | 楽しい学校生活
ちびくまの通うF中では、6月27日、28日、29日の3日間が
期末テスト期間です。その前に障担K先生から、
「おかあさん、期末テストの期間中、どうしましょうか?」と
相談がありました。

5月中旬の中間テストのときは、まだちびくまはいわば
「リハビリ期間中」だったため、普段と変わらず、K先生と
マンツーマンでひたすら遊び、心を通わせることに専念していました。
けれど、そうした期間や5月末の転地学習を通して、K先生との間に
しっかりした信頼関係ができあがり、障級や交流級での学習にも
主体的に、意欲的に取り組むことができるようになった今、
もう少し別の過ごし方を考えられるのではないか、というのが
K先生の提案で、私もそのとおりだと思いました。

K先生から提示されたのは、
(1)普段どおりの授業をテスト期間中も行う。
(2)保体、技術家庭など実技系のテストだけ、障級で受ける。
の2つの案のうちどちらにするか、でしたが、私はこれに
(3)普段とは少し違う「お楽しみ」系。
を付け加え、その3つを全て取り入れることができないでしょうか、と
お願いしてみました。

兵庫県では、知的障碍児学級に在籍していても、定期考査を受け、
成績評価と内申書を書いてもらうことができれば、普通高校を
受験することができるので、普通高校進学を視野に入れている
お子さんだと定期考査を受けておく必要があるようですが、
ちびくまの場合は、特別支援学校高等部への進学を希望しているので
成績評価のために定期考査自体を受ける必要性はありません。

でも、せっかくだから、普通学校に在籍している今のうちに、
「みんなが大騒ぎして、一生懸命準備に取り組んでいる『定期テスト』
 とはどういうものなのか、みんなどんなことをしているのか」
を「体験」しておくことも良いのではないかと思えましたし、
これまでペーパーテストを受けたことのない息子が、通常級と
同じ問題をいったいどの程度理解でき、答えることができるのか、
テスト本来の目的とは少しずれますが「認知面のテスト」として
使ってみたいな、と思ったのです。

でも、本人にとっては「初めて」の「いつもと違うこと」で
しかも「できない」可能性が高い、いわば強いストレスをかけることに
なりますから、その代償として、「お楽しみ」もあれば丁度
バランスが取れていいのではないか、というのが私の考えでした。


ちびくまのお手伝い(その2)

2007年06月19日 | adorably autistic
そんなちびくまが、退院してきた私が自分で夕飯の買い物に出るようになると
必ず付いてきて、手伝ってくれるようになりました。

まず、スーパーに付くと、カートを取ってきて、かごをセットしてくれます。
その日によって、そのままカートを押しながら一緒に店内を回ってくれる
こともあれば、「ちょっとお菓子を見てくるよ」と言って、その場から
離れることもありますが、私がレジの列に並ぶ頃には
またどこからともなく戻ってきて、一緒にレジに並んでくれます。

順番が来ると、かごをレジ台の上に載せ、会計が済むと
今度はレジ台から荷物を詰める台まではこんでくれ、
私がエコバッグに荷物を詰めると、そのバッグを肩からかけて、
かごとカートを返しに行き、そのまま家まで運んでくれます。

夫や実母に買い物を頼むと、必要でもないものを勝手に買われたり、
頼んだものを買い忘れたり、こちらが思っていたのと違うものを買ってきたり、
それでちょっとでも文句を言おうものなら
「せっかく手伝ってやっているのに」とへそを曲げられますし、
一緒に行ってもらったら行ってもらったで、いちいち
「え、そんなもの買うの」とか「これも買っておけば」と
口を出されたり、自分が気になるものがあると勝手にどこかに
行ってしまって、会計をしたいのに探しに行かねばならなかったりで
本当にやっかいなのですが

ちびくまには、して欲しいことを端的に頼めば、ほとんど過不足なく、
しかも恩着せがましくなく手伝ってくれるうえ、一度頼んだことは
次の機会にもこちらが指示を変えない限り同様にしてくれますし

時々は自閉っ子らしい読み違いはあるものの、基本的に相手の出方を見て
「相手はこうすることを望んでいるだろう」という推測をして、
それに合わせて行動しようとする性質が強いせいか、
下手な大人(またの名をオットとも言う)よりずっと気が利いた「お手伝い」を
してくれるのは、新たな発見でした。

私も、課題として「教えている」のではなく、本当に助かるので
心から「お手伝いありがとう」と息子に言うことができます。
また、ちびくま自身にとっても「お母さんが大変だから
手伝ってあげよう」という気持ちから半ば自然発生的に出てきた
この「お手伝い」の習慣は、やがて「家族構成員としての
役割分担」としてのお手伝いに広げていくためのいい土台に
なったことと思います。

「転んでもただではおきない」は私と仲間たちのモットーですが
またこんなところで私の病気も役に立ってしまいました。


ちびくまのお手伝い(その1)

2007年06月18日 | adorably autistic
退院してから丸3ヶ月が経ちましたが、私の状態は良くも悪くも
ほとんど変化がありません。幸い、腕の力はほぼ元に戻りましたし、
しゃがみ立ちはできるのですが、しゃがんだ姿勢で居続けることは
できませんし、少し続けて歩くと、すぐに脚の痛みが出てしまい、
無理が過ぎると、次の日寝込む羽目になってしまいます。
立ち続けるのは20~30分、歩くのはどんなに頑張っても
1Kmが限度、という感じでしょうか。

ステロイド治療中の生活上の注意として、
●重いものは持たない
●疲れをためない
●ストレスをためない
●感染症にかかりやすく、かかると重篤になりやすいので
 なるべく人ごみを避け、うがい・手洗いを励行する
などがあります。

今、ほとんど家にひきこもり状態で、唯一接触のある息子の担任の先生とは
良好な関係を保てているため、疲れやストレスはあまり気になりませんし、
家事のほうも、掃除の頻度を減らしたり(これ以上減らしようがあるのか?)
料理は圧力鍋や電子レンジを活用する、洗濯や洗い物・アイロンかけは
椅子に座ってやる、などの工夫で何とかなっているのですが

一番困るのが毎日の食事のための買い物です。
ところが、思いがけないことに、この場面で、ちびくまが
自分から「お手伝い」をしてくれるようになりました。

日課として、あるいは家族の一員としての役割を持たせるために
自閉っ子に決まったお手伝いを課すお母さんは結構いるようですが
私は今まで、あまりちびくまに「お手伝い」を求めていませんでした。

というのは、ちびくまに「お母さんの手伝いをしたい」という
動機づけがなければ、これも結局彼にとっては「押し付け」に
なってしまうのではないか、「これをしなさい」「あれをして
ちょうだい」とこちらが勝手に決めることは、せっかく息子に備わった
「他人の指示や課題の提示がなくても、自由時間を自分の選んだ
活動で楽しく過ごすことができる」という能力に、かえって
制限を設けることにならないか、という危惧があったからです。

お手伝いをすることはとても良いことで、将来の生活のためにも
大切なことだけれども、ちびくまに「嫌なのにやらされた」とか
「やらないとお母さんに認めてもらえない」という思いを
抱かせないように、と内容とタイミングを見はからっているうちに
今になってしまったのです。


障碍名を消化する(その2)

2007年06月15日 | 「発達障碍」を見つめる眼
その後現在に至るまで、私が息子を説明するのに使う障碍名は
一貫して「知的障碍を伴う自閉症」でしたし、多分今後も
変わることはないのではないかと思います。

「それだけ色々なことができる子を知的障碍と決め付けて
 諦めてしまうのか」
という非難のメールを頂いたこともありますが、

たぶんその方にとっては「我が子に知的障碍があると認める」ことは
「我が子の将来や可能性を諦める」こととイコールだったのだろうけれど

私にとっては「息子がいわゆる『知的障碍』の範疇に入っていること」は
例えば「息子の血液型はB型である」とか
「息子は穏やかで従順な性格である」とか
「息子はどうやら聴覚記憶や視覚記憶はかなりよいらしい」とか
いうこととほとんど同じ次元の事実(または「評価」)なので

「諦める」とか「受け入れる」とかいう概念自体が
そもそもそこにはあてはまらなかった、と言ったほうが良いかもしれません。
「知的障碍がある」イコール「頭が悪い、将来が限られる」ではない、と
私が考えているということもあると思います。

今の私にとって、ちびくまは「決して自閉度は低くないし、
IQや言語能力も高くない(もっとはっきり言うと「低い」)
けれども、とても頭も気立ても良い、自慢の息子」なんです。
(親ばかですみません)

だから、「大変でしょう」と言ってもらっても、それは例えば
ご家族の中に病人が居るとか、すごく精神的にぴりぴりしている
受験生が居るとか、ものすごく口うるさいお姑さんがいるとか、
そういうこととそう大差はないように思いますし、
(いや、むしろ私ならそういうことのほうがずっと大変に思うかも)

「私にはできないわ、強いわね~」と言われても、
「私だって、そんなにいつもお家をきれいにできないわ、えらいわね」
「私なら、ダンナにあんなに偉そうに言われたら耐えられないわ、我慢
 強いわね」と返事しそうになっちゃいます。
(私にとっては「家の掃除・片付け」のほうがずっとハードル高いかも)

ではなぜ、「自閉症スペクトラム」の診断のときだけは
あんなに辛かったのか。それはとりもなおさず、私の中に
「自閉症」=「幸せではない」「子どもも親も未来が閉ざされる」という
イメージ、思い込みがあったからなのではないかと思うのです。

でもその後、インターネットの掲示板を通じて、知的障碍のない
成人自閉者の方々との出会いがあり、その方々とのやりとりを通して、
「自閉症であることは、本人にとっては不便なことも多いけれど、
 それ自体は欠損でもなければ不幸の元凶でもない」
(むしろ周りの理解や必要な支援が得られないことが原因)
ことが少しずつ見えてきて
「むしろ知的には遅れのない自閉者のほうが、周りから障碍を
 理解され難い分、本人は辛く、大変な思いをしているのではないか」と
考え始めるようになってきてから、息子の「知的障碍」を認識するように
なったので、息子に知的障碍があることはほとんどマイナスのイメージなしに
すんなり私の中で消化できたのではないかと思います。

私自身はちびくまを授かるまで、障碍のある人と本当の意味で
身近に接したことがありませんでしたが、
もし、私が、今ほど「心優しく、一生懸命で生き生きと、
(たぶん)幸せに暮らしている自閉者」の人たちの存在を
知っていたら、我が子が自閉症だとわかっても、あれほど
のたうち回って苦しまなくてもすんだのかもしれません。

だから、私がこうしてちびくまとの生活を綴って皆様に読んでいただくのには
私が面白いと思ったこと、考えたことを文章にして残しておきたい
という気持ちや
自閉っ子のことやその家族の思いをいろいろな人に知ってもらいたいという
気持ちもありますが、

もう1つには、自閉っ子との暮らしにはこれほど笑えるネタも
楽しいことも、素敵な出会いもいっぱいあるんだということを
私(たち)の後に続く人たちが、ひょっとしたら見つけて読んで
何かの救いにしてくれるかもしれない、そうなったらいいなあ、
という希望も、こもっています。

障碍名を消化する(その1)

2007年06月14日 | 「発達障碍」を見つめる眼
ちょっとリクエストを頂いたので、息子の障碍名を私がどのように
自分の中で消化していったのか、というくだりを振り返ってみようかと
思います。

私にとって最初に出会った障碍名は「ハイパーレクシア(Hyperlexia)」でした。
注)当時はまだ「自閉症スペクトラム」という考え方があまり一般に
  浸透していない時期だったこともあり、「Hyperlexiaと(狭義の)自閉症は
  いずれもPDD(広汎性発達障碍)圏に属する別々の障碍」という考え方が
  最も有力という感じでした。

1998年の9月に息子はアメリカで生まれて初めて正式で詳細な発達検査を受けて
確かにPDD圏であり、「Hyperlexiaだと考えられる」という判定をもらい
養護幼稚園への編入が決まったわけですが、その時の私の心境としては
障碍があることがわかってショックだったというよりも、当時も書いているように
「どうしてもできなかったパズルがやっとできたような」喜びに近い
気持ちを抱いたのを覚えています。

それまでずっと「育て方が悪い」「子どもの性格が悪い」と言われ続けて
きたなかで、やっと「自分たちが悪かったのではない」と認めてもらえた
喜び、やっと自分たちを認め、受け入れてくれる人・場所が見つかった
喜びと言ったらいいでしょうか。

次いで、その年の12月に、息子は大学病院で正式に「自閉症スペクトラム」の
診断を受けます。「おそらくは高機能かアスペルガータイプ」ということも
同時に言われました。
このサイトでも「はじめてのおかあさん」や「12月が来るたびに」などで
書いていますが、実は私にとっては、この診断のときが一番辛く、
それを受け入れるのに時間がかかりました。

それから1年2ヶ月が経ち、日本に帰国する直前に、息子はもう一度
大学病院でフォローアップの検査を受けました。このときに、「初回の
検査では高機能かもしれないと言ったが、少なくとも現段階では
知的障碍を伴うと言っていいレベルにある」という説明がありました。
また、帰国して2ヶ月後に受けた療育手帳の判定でも、A(重度)判定でした。
ですから、このあたりで、息子は「知的障碍を伴うタイプの自閉っ子」
である、という評価を受け始めたことになりますが、このときは私は
やはりほとんどショックを受けたという記憶がありません。

むしろ、療育手帳の判定結果を私に告げた児相のケースワーカーさんが、
さも申し訳なさそうに、
「お母さん、がっかりしないでね。言葉が通じない分、低く出ている
 可能性もあるのよ。ただ、今の判定基準では、どうしても中度という
 判定にすることには無理があるの」
と説明してくれるのが、なんだか可笑しくて、
「そんなに申し訳なさそうに言ってくれなくても・・・」と思ったのは
よく覚えています。
アメリカを発つ前に、周りから
「日本は自閉症についての理解が遅れているから、こんなタイプの子の
 障碍の重さ、難しさがちゃんと評価してもらえないかもしれない」と
さんざん聞かされていたのが良かったのかもしれません。
文句なく「重度」判定をもらえたことで、むしろ「わかってもらえて
良かった」という気持ちのほうが強かったのでしょう。

「指導をしない」という「指導」

2007年06月07日 | 楽しい学校生活
ちびくまは、今日も自分で選んで交流級の体育の授業に参加しました。
もともと体育は苦手な科目でもあるうえ、暑さでへろへろになった
ようですが、クラスの女子がファイルで陰を作ってくれたり、
先生が途中での休憩を許してくれたりで、なんとか乗り切ったようです。

障碍児学級の教室での数学の授業や作業学習、障担K先生以外の
教科担任の先生による国語や技術(パソコン)の個別指導も入り、
ようやく本格的にちびくまへの特別支援教育が始動した感じです。

今の様子だけを見ると、すごぶる順調な適応のしかたで、
とても4月に給食も食べられない、交流級へも行けない、
ひいては学校へも行けなくなりそうだった子どもには思えません。

でも、ちびくまがこんな風に自らの態勢を立て直す大きな助けに
なったのは、やはり障担K先生の力がとても大きいと感じています。
4月下旬から5月下旬の約1ヶ月半の間、先生は徹底して
ちびくまの心理的・肉体的負担を取り除いて、先生や障級の教室を
本人にとってくつろげる・安心できる人・場所にすることを
唯一の目標にしてくれました。

それは、子ども本人にとっては快適でも、傍目にはとても
「指導」をしているようには見えません。
一緒に公園へ行って、一緒にすべり台を滑って遊ぶ。
教室の床に一緒に寝そべって、ドミノを並べる。
バランスボールの上に乗った子どもをバウンドさせて遊ぶ。
体中をくすぐって、喜ぶツボを探す。
隣同士のPCで、それぞれゲームをしながら、そのゲームの
やり方を「ひとりごと」で言う。
時には、先生が1人でPCゲームをやっているのを、息子が
バランスボールの上で弾みながら見ているだけのこともありました。

私は、それが今一番ちびくまに必要な「指導」だと考えていたので
誰に教わることもなく、そういう取り組みを始めてくれた
K先生に驚き、感服していましたが、同時に、他の先生たちが
はたしてそういう「指導」の仕方があることを認めてくれるだろうかと
いう心配もしていました。

「先生、他の先生に説明が必要なときはいつでも言ってください。
 こういう指導の仕方を、保護者である私が一番重要だと考えていて
 一番望んでいるのだということを、お話ししに行きますから」
そういう私に、
「いや、校内(の教師)は大丈夫だと思うんですよ。
 問題は生徒ですよね。 この教室の前、結構生徒が通るでしょう?
 外から見たら、どうみても僕が授業もせんと、ちびくまくんと
 遊んでるか、ちびくまくんをほったらかして遊んでるようにしか
 見えませんからね~」
と、K先生は笑うのでした。

子ども当人の気持ちややる気より「教師としてのプライド・面子」
「『スキル指導』をした、という達成感を望む気持ち」
「自分自身の『教えたい』という気持ち」が優先している人、
目に見えるものしか見えず、言葉の表面的な意味しか
理解できない人にはこのような「『指導をしない』という指導」は
できません。

なぜなら、嫌がる子、泣く子、指導に乗らない子に、手を変え
品を変え、指導に乗せて行くことより、
嫌がらない子、素直に指導に乗ってくる子に、指導をしないで
じっと寄り添い、待つことのほうが、ずっと忍耐力と
子どもの「外からは見えない」内面を繊細に探る感受性が必要だからです。

環境が大きくがらっと変わった中学入学の時期に、こういう先生に
出会えたちびくまは、やはりとっても運がいい、
「自分にあった指導者を引き寄せる運」を持った子どもなのかも
しれないと思っています。

転地学習の効果?

2007年06月05日 | 楽しい学校生活
さて、「おうちでゆっくりしたい」との希望通り、土日は
特に外出もせず、家でテレビを見たり、ビデオを見たり、
パソコンをしたり、と好きなことをしてゆったり過ごしたちびくま。

昨日はすっきりと目を覚ましてトーストをほおばり、
「行って来ま~す」と明るく出て行きました。
朝一は全校集会、そしてその後は学年集会。これは転地のときとは
違って、やはりクラス集団の最後尾に並んで参加したようです。

さらに、それに続いて、交流級では転地学習の事後指導ということで
学級活動(学活)の時間があります。
さすがに3つ続いてはしんどいだろうということで、K先生が
「学活は行かなくてもいいよ」と声をかけたところ、
自分から「ううん、行くよ」と言ってさっさと教室を出て
交流級に向かったようです。
そして、1時間の最後まで参加して帰ってきました。

今朝も、これまでは参加してこなかった交流級の体育の授業に
「行ける。頑張れる」と言って自ら参加。
「ちょっと頑張りすぎなんじゃないか」と心配してくれたK先生から
「おかあさん、どうしましょうか?」と相談の電話をもらいましたが

新学期の頃の、「中学生になったのだから頑張らないといけない」
「交流級に行かないといけない」「みんなと同じようにしないといけない」
という強迫的な頑張りなのではなく

多分、転地学習の間、「皆と同じにはできない自分」がみんなに
受け入れられていること、それでも応援しようとしてくれる先生や
同級生は沢山いることを実感できたので、「じゃあ、あっちでも
頑張ってみようかな」という気になってきたのではないか、と
お返事しました。

一見その力がありそうなのに、仲間と同じように出来ない子を見ると、
周りはどうしても「頑張って」と「励まし」てしまいがちです。
あるいは、「どうしたら頑張れるか」を考えて、視覚支援やSSTと
いったテクを駆使して、「頑張らざるを得ない環境づくり」まで
やってしまうことさえあります。

でも、周りがある程度見えてきて、「皆とは同じでない自分」
(だって生まれつき神経のつくりが違って、ものの感じ方が違う
わけですから)に気づき始めた子どもに

「頑張って」「皆と同じに」と励まし続けることは、逆に言えば
「今のあなたは容認できない」「きみは不完全だ、間違っている」という
メッセージを送り続けることにも等しくなるのではないか、と
思うのです。

K先生が早い時期にそのことに気づいて、とにかく「素のままの
君でOKなんだ」というメッセージを送り続けてくれたことで、
息子はK先生を心理的な基地にして転地学習に臨み、
そこで受け入れられた経験から、交流級へも自ら足を踏み入れてみる
決心がついたのでしょう。
外見的には参加している内容や時間は新学期の頃と大して変わりませんが
そこに臨む本人の気持ちは、きっと大きく違っているはずです。

自閉っ子の特性を生かした支援テクニックは、その子を
「頑張らせる」ために使うのではなく、
まずは本人の「支援してくれる人への信頼感」と「頑張りたい気持ち」を
育て、その上で「頑張りたい気持ち」を応援するための手段として使って
初めてその子にとって意味のあるものになるように思います。

さて、1時間目、思いっきり「頑張ってきた」(本人談)ちびくま、
すっかりエネルギーを消費してしまい、2時間目以降の障級での課題を
自己申告で減らして調整したようです。(笑)
それでも、6時間目の技術の時間は、また自分から交流級の授業に
行くと申し出て、得意のパソコンスキルを披露してご満悦。

「転地学習を交流級での活動に対する心理的な入り口にする」という
目標は、達成できたと思って良さそうです。

転地学習(その4)

2007年06月03日 | 楽しい学校生活
こうした準備を経て、2泊3日の日程に挑んだちびくま。

結論から言うと、班の仲間たちや先生たちのサポートを受けて、
ほとんどの活動を皆と同じようにこなすことができました。

その間、先生からは電話で2回、途中経過を連絡していただきました。
食事はなんとか班の仲間と一緒のテーブルについて食べられたこと。
(もし食べられない場合には別のテーブルに移動するとか、
 あとで別室で食べさせる打ち合わせになっていました)
入浴は時間をずらし、先生は服を着たまま見守りと口頭での指示で
自分1人でできたこと。
就寝は「保健室」として確保してあった部屋でK先生と2人だけになり、
一緒にごろごろしているうちに疲れもあって眠ってしまったこと。
(どうしても眠れない場合は、車で家に帰してもらうことに
 なっていました)
スタンツのナレーションは「完璧」(K先生談)にできたこと。

2日目の耐久登山では男子も女子も背中を押したり、引っ張ったりと
援助をしてくれようとしたけれども、明らかに女子に援助してもらうときの
ほうが嬉しそうだったとか、
3日目の魚つかみ(川の浅瀬で魚を素手で捕まえる)では
ちびくまの動きがのんびり過ぎて、どうしても魚が捕まらなかった、とか、
随所にお笑いの要素はあったようですが、

一生懸命頑張っている自分を認め、それを応援してくれようとする
周りの子どもたちや先生たちの存在を感じ、その応援に応えようと
思いっきり頑張った3日間だったようです。

K先生に預けてあったDVDはついに一度も出番がなく、
そのまま帰宅後のちびくまへの「頑張ったご褒美」になりました。
K先生が言ったとおり、ちびくまは「MAX頑張った状態」で
帰ってきたようで、家に帰ると
「あ~、お家に居たほうが良かった」(やっぱり家はいいなあ、の意?)と
何度も繰り返し、
「もう疲れちゃったよ~」とずっとごろごろしていました。

息子にとってハードルの高い行事や出来事に挑戦させるときに、
はなから息子に頑張らせることを目標にするのではなく、
こちらが最悪のケースまで考えて準備万端整えて、
「きみは好きにしていいよ、全部こっちがきみに合わせるよ」という
気持ちでいると、その余裕が伝わるのか、ちびくまも落ち着いていて
その分しっかり力を発揮してくれる、
そしてそのことがまたちびくまの成長と自信に繋がる、という
これまでの経験からの私の確信は、この転地学習を経て
いよいよ強くなりました。

そして、入学してわずか2ヶ月のうちに、しっかり私たち親子の
気持ちを受け止めて、同じ姿勢で臨んでくれたK先生はじめ
中学校の先生方の対応にはとても感謝しています。

あっという間に1学期も半分終了。
この転地学習での体験が、今後ちびくまの学校生活に
どのように反映されていくのか、見守っていこうと思います。

転地学習(その3)

2007年06月01日 | 楽しい学校生活
さて、話は少し戻って、他に準備したことを書いてみようと思います。

まず、荷物。2泊3日分の荷物を、できるだけ自分で判断して
使ったり片付けたりできるように、持ち物はその日ごと、
場面ごとに分けてファスナー付きビニール袋に小分けしました。

例えば、2日目の朝に着る、長袖長ズボンのジャージ、中に着るTシャツ、
靴下、汗拭き用タオルで1袋。これに「2日目」と書いたラベルを貼り、
内容物の一覧を書き添えます。

バスタオルと体を洗うためのタオル、石鹸とシャンプーはそれぞれを
内容物を書いたファスナー付きビニール袋や透明ポーチにつめた上で
大きなビニール地の手提げカバンに入れて「お風呂セット」と書きます。

入浴後に着替える下着は1日分ずつ袋詰めして、それを「下着」の
ネーム入りポーチに。

こうしておけば、もし息子がわからなくても、他のお子さんや先生に
見てもらえば事前に説明していなくてもわかるので、一石二鳥なんですね。

自閉っ子のお母さんなら多かれ少なかれ取り入れておられるであろう
「見てわかるようにする」工夫の1つで、別に珍しくもなんともなかろうと
思うのですが、こんな風にパッキングされた荷物を見たのはK先生は
初めてだったようで、
「ああ、こんな風にしてあれば、彼もちゃんと自分で荷物が管理
 できるんや~、と感心しました。思わず他の先生も呼んで
 見てもらいました」
との感想をいただきました。百聞は一見にしかず、ですね(笑)。

そのK先生がやってくれたのは、学校で用意される「転地学習のしおり」を
もとに、ちびくま専用の「しおり」をちびくま自身に作らせること。
ちびくまは耳からの情報に強く、パソコンが使えるので、
先生がしおりから必要最低限必要な情報を取り出して、それに適宜
補足を加えて口述してくれることを、内容を一緒に確認しながら
自分で入力して3日分のスケジュール表を作りました。

これだと、先生とのやりとりを通してコミュニケーション訓練にもなるし、
本人の表情や言葉からどれだけ理解しているかをある程度は推測できるので
お仕着せのものより過不足の少ないスケジュールにすることができます。

さて、交流担S先生が用意してくれたのは、2日目夜のハイライト、
クラス対抗のスタンツでの役どころ。
ちびくまの交流級ではコントをすることになったのですが、
当然と言うか、ちびくまが誰かとコントをすることは困難です。
ところが、「台本どおりに喋ることはとてもうまい」ということを
K先生から聞いたS先生、クラスのスタンツの最初に内容を紹介する
ナレーションと、最後の挨拶をする役をちびくまに用意してくれたのです。

ちびくまが喋る台詞は、クラスのみんなが話し合って決めてくれました。
小学校時代、いつも障級のクリスマス会ではアナウンサー役や
ナレーション役を務めていたちびくまですが、実は交流級の子どもたちの前で
その力を披露する機会はほとんどありませんでした。
でも、今回はいわば「クラスの代表」としての挨拶。
ちびくまは緊張しながらも、やる気満々です。うまく行けば、とても
大きな自信に繋がるだろうと思われました。