雲のむこうはいつも青空

まったりもったり~自閉症息子のいる暮らし@ちびくまママ

バスの楽しみ

2010年05月15日 | ちいさな幸せ
息子は、学校生活に慣れてくると、通学バスにバリエーションを
つけるようになりました。

普通、通学や通勤にバスや電車を使う場合、毎日乗る路線は
決まっていて、乗る時間も大体一定になってくるものだと
思うのですが

息子の場合、逆に、乗る路線や時間を変えて楽しむように
なってきたのです。
最初は、帰り、乗り換えする駅前ターミナルでしばらく
バスを眺めてから帰ってくるようになり、
次には、朝も少し早めに出て、駅前で朝のラッシュで
出入りするバスをひとしきり眺めてから
学校へ向かう路線に乗るようになりました。

それから、今度は、自宅前のバス停を通らない
路線に乗って、一番自宅に近そうなバス停で降りて、
そこから歩いて帰ってきたり、
逆に朝、もよりのバス停ではない少し遠くの
バス停まで歩いていって、そこからいつもとは
違うコースで駅まで行くことを楽しんだり
しています。
(障碍者手帳を持っていても3割引きにしか
ならない通学定期ではなく、半額になるICカードを
使っているからこそできることかも
しれませんが)

おかげで、息子の出発時間と下校時間は毎日
バラバラ。毎朝、TV画面の時計を見て
「あっ、もう出かけなくっちゃ」と出発時間を自己管理し、
「今日はねえ、○時○分発の○系統で帰ってきたんだよ。
明日は何系統に乗ろうかなあ」とニコニコ考えている
様子を見ていると、中学時代に何度も遅刻をさせても
「出発時刻を自分で考える訓練」をさせたり、
「ネットでバスの時刻を調べて移動の計画を立てる」
授業をしてもらったりしたのが生きてきているなあ、と
思います。

「『いつも同じ』が好きで、変化や
変更は嫌い」と思われがちな自閉っ子ですが、
「強いられた変更」や「思わぬ変更」には弱くても
こんな風に、自分の興味や好奇心を満たすことなら
どんどんバリエーションを増やすことが
できるんだなあ、と改めて感心しています。

小さいときはどうしても「好きなこと」や「こだわりの
あること」よりも「できること」を増やしたくなりますが
「好きで、こだわれること」の間口をできるだけ
広げ、その子と繋がれるチャンネルを増やしておくことが

結局は「できる」「やりたい」に繋がるのかもしれません。

とりあえずお知らせ。

2010年05月14日 | 時には泣きたいこともある。
長らく更新が途絶え、ご心配をかけているかもしれません。

実は4月初めにパソコンが故障し、急遽買い換えることになりました。

また、時を同じくして実家の父が体調を崩して入院し、
1ヶ月の入院生活を経て、5月2日に亡くなりました。
入院当初から、もう助ける手立てがないということは
宣告されていましたので、覚悟をする時間は十分にありましたが
やはり身内をなくすというのは、なんとも寂しいものです。

4月いっぱいは仕事と、入学直後の様々な行事との間を縫って
病院で家族と交代で父に付き添う日々を送っておりました。
父を見送った後も、その後の手続き関係に追われ、更新をする
時間がとれずにおりましたが、またおいおいこの間の出来事も
遡って書き綴っていきたいと思っております。

とりあえず、息子は無事特別支援学校高等部に進学し、
毎日楽しそうに学校に通っていることを皆様にご報告させていただきます。
私も特に体調は崩しておりませんので、ご心配いただきませんよう。

楽しいお葬式?

2010年05月05日 | adorably autistic
今日は父の葬儀でした。無宗教の家族葬ということで
祭壇も遺影を山のようなお花で飾ってもらい、
読経もなく、クラシックをBGMに、
親族と40年住み続けた家のご近所の
方々にご焼香いただくだけの
シンプルでこじんまりした送りの儀式でした。

式後は親族だけでマイクロバスにのり、斎場へ。
バスの好きな息子は、嬉しそうです。
会場から斎場へ向かう道は、昔息子と共に
実家に居候して、そこから通園施設に通わせていたときの
スクールバスのルートでした。

そのことにすぐ気づいた息子、
「ねえねえ、おかあさん、この道、10年ぶりだねえ」と
しみじみと言います。
当時はまだニコニコとバスの座席におとなしく座っているだけで
言葉のほうも怪しかった息子でしたが、
あれから十年になることもわかっているんだなあ、と
なんだか私のほうもしみじみしてしまいました。

斎場で、棺が炉に入れられ、ガチャンと重い音がして
扉が閉められるのを見ると、息子は、
「おかあさん、あれ、エレベーター?」と
聞きました。
「うん、死んだ人の乗るエレベーターだよ。
 死んだ人をあの中で燃やすと、体がなくなって軽くなって
 煙になって空に登って神様になるんだよ」
そう説明すると、息子は「ふうん」とうなずきました。

その後は一度会場に戻ってみんなで食事をとり、
その後で母と弟と私の3人だけでお骨を拾いにいく
段取りになっていました。

会食に参加したのは母の姉(伯母)と兄(伯父)夫婦、弟(叔父)夫婦、
母と弟、私と夫と息子。
私たち一家と弟以外は全て60代と70代、という
平均年齢のものすごく高い会食です。

もともと知らない人と一緒に食事をするのが苦手な息子、
お膳も高齢者向きのものを選んであったのでどうするかと思いきや、
出された料理の中から自分で食べられそうなものを選んで
静かに落ち着いて食事をしていました。
やはり十年前、夫の父が亡くなったときには、
通夜や葬儀に出すのがはばかられる状態だったことを
思えば、やはり確実に成長しているのだな、と思いました。

会食も終わり、さてそろそろお開きにしましょうかというころ、
突然息子が言いました。
「お通夜もお葬式も、とっても楽しかったです。
 また来たいです」

すると弟が
「それは何より。だからといって、リクエストにお答えして
 頻繁に開けるもんでもないけどね」
とにんまり笑って答えたので、一同大笑い。

自分の親の葬儀で良かった~

息子にとっては、ほとんど初対面の年寄りばかりに囲まれ、
ただ静かに座っていなければならない席が、
楽しかったわけはありません。
でも、自分が招かれてここに来ていることと、
特別な意味がある会食であることはわかっていて、
精一杯の礼儀として「楽しかった」「また来たい」と
言ったのでしょう。

息子に障碍があることは親族はみなある程度
知っていることとは言え、息子のせめてもの挨拶に
うまく答えてくれた弟の機転をありがたいと思いました。

散会後、息子は「2日間、よく頑張ったご褒美」として
夫に、初めてのバス路線に乗せてもらって
大回りして自宅まで帰ったようです。
こちらは「本当に」楽しかったようでした。

ゴールデンウイーク中、バタバタで、息子に休日らしい
楽しみを与えてやることはできませんでしたが
せっかく慣れ始めた学校を一日も休むことなく、
連休明けからは何事もなかったようにまた登校できることも
ありがたいと思いました。父の、たった一人の孫に対する
せめてもの心配りだったのかな、という気もしています。

「みとり」の時間と最期の挨拶

2010年05月02日 | 時には泣きたいこともある。
入院から4週目に入った25日の日曜日、帰り際に
「じゃあ、お父さん、私もう帰るね。また水曜日に来るから」と
声をかけたのに対し、父が
「ああ、ご苦労さん、気をつけてな」
と答えたのを最期に、父との会話はできなくなりました。

水曜日に私が再び病室を訪ねたときには、もはや
流動食はおろか水分すらも口にできなくなり、
一日中うつらうつらして、意識がはっきりしないまま
うめいたり、うわごとを言うだけになっていました。

そんなに弱っていてさえ、腕に刺さった点滴や体についた
チューブを気にして、半ば無意識のうちに
むしり取ってしまうので、面会が可能な時間帯はずっと
家族がついていて欲しい、と病院側から申し入れがありました。

最初にお医者さんに言われたよりはだいぶ長くもったけれど、
もう父が半分あちらの世界に行ってしまっていることは
目をそらしようのない現実として私たちの前に突きつけられて
いるのでした。

それなのに、母はその日、さくらもちを持ってきていました。
月曜日に、父の意識が少しの間はっきりしたときに
「おかあさん、ちょっとでいいから、あんこ
 食べさせてください。お願いします」と
言ったのだそうです。

「好きなものなら、食べられるかもしれませんね」
父の大好きな小豆餡を、看護師さんが少しスプーンで
口に入れてくれると、父の表情が変わりました。
「おいしい?」と尋ねると、かすかにではありますが
うなずいて、口元をほころばせました。
「本当に好きなんだね、笑ってるよ」と
みんなで言って笑いました。

ゴールデンウイークに入ると、弟も帰省して毎日病院に
つめてくれるようになりました。連休には私も
実家に泊まって、弟や母と交代で父を見守りました。

5月2日、ずっとうなされていた父が、ふと我にかえったように、
「あんた、やさしいなあ」とつぶやきました。
「あんたって誰?」
「おかあさん」
母が「おかあさん、って私のこと?」と訊くと
「うん、おかあさんはやさしいなあ。ありがとう」と
はっきり口にしました。

「おお、すごい。おとうさん、大サービスやんか」
母と弟と私が大笑いすると、父は満足そうに、
「はい。行ってきます」と行ってかすかに手をふりました。
「はい、行ってらっしゃい、って、どこ行くねん」
その日ものり突っ込みで笑いが起きました。

夕方一度自宅にもどった私のところへ
急変の知らせがあったのは、その夜の11時すぎのことでした。
心臓の機能自体が最も重い状態なので、呼吸が止まっても
蘇生措置はしないことになっていましたから、
もう間に合わないことは私にもわかっていました。

深夜のがら空きの高速を飛ばして病院へ向かいながら
ハンドルを握っている間、不思議に涙は出ませんでした。
ドクターの予言に反してもった1か月のこの時間は
父自身ではなく、父を見送らねばならない私たちに
与えられた「みとり」の時間だったのだろうと思います。

母に最期に「ありがとう」の言葉を残した父の
「行ってきます」はきっと私たちへの
旅立ちの挨拶だったのでしょう。

理屈ではいつかは誰にも来る、とわかっているけれど、
自分と自分の家族にだけには来ないような気がどこかでしていた
私にとって初めての、身近な命の旅立ちでした。