雲のむこうはいつも青空

まったりもったり~自閉症息子のいる暮らし@ちびくまママ

12月が来るたびに

2022年01月31日 | 過去に書いた文
今年も、カレンダーは最後の1枚になり、ちびくまは7歳の誕生日を迎えた。街にクリスマス・ソングが流れ、慌しくも心騒ぐ華やぎを加える頃、私の心は鈍い痛みを思い出す。

4歳の誕生日を迎えたばかりの我が子が「自閉症」だと告げられた、あの日。
今、振り返ると、電話でカジュアルに伝えるなんて、なんてさばさばしているんだろう、と思う。日本なら、ちょっと考えられないんじゃないか、と思うのだが、あれは、アメリカだから、だったのだろうか、それとも、既に発達に遅れがあると判定を受けているのだから、ショックなんか受けないと思われていたのだろうか。

だが、今思えば不思議なくらい、あの当時の私には、心の準備がなかった。なんらかの障害があることは認めざるを得なかったが、素人目にも明らかに息子は「典型的な(カナー型)自閉症」ではなかった。典型的な自閉症でなければ、いつか「普通」になる、と無意識のうちに信じようとしていたのかもしれない。「障害」は「克服」するもの、できるもの、と思っていたのかもしれない。だが、医者は事も無げに"lifelong disability"(生涯にわたる障碍)であり、"incurable"(治癒することはない)と告げた。その後の会話はなぜか思い出せない。真正面にあった、中庭に通じる掃き出し窓の外が、重く沈んだグレーの空で、みぞれ混じりの雪が降っていたことはおぼえているのに。静まり返ったアパートの中で、息子がその時何をしていたのか、自分が泣いていたのかどうかさえ、思い出すことができない。

あの日、私の中で何かが死んだ、と思う。そして、その「死んだもの」の弔いが済むまで、私は起き上がることができなかった。なぜ、生きているのか。どうして、生きていなくてはいけないのか。しばらくの間、私にとって、死んだのは息子そのものだった。死んだ息子をここに抱えていてはいけない、どこかに葬ってやらなくてはいけない。何かに憑かれたように、そればかりを考えていた。あの頃、息子にちゃんと食事をさせていたのだろうか。自分は食事をしたり、眠ったりしていたのだろうか。それすら、思い出すことができない。夫は全く変わりなく、毎日食事をし、風呂に入り、テレビを見、眠っていた。それを、私と息子に対する裏切りのように感じて、とてつもなく憎く思っていたことだけが、記憶に残っている。息子と共に、私の心も死んだのだった。・・・そう、思っていた。

あれから3年。私は生きている。
あの時、あれほど意味がわからなくて、何ヶ月もかかって数々の英語の文献を読み漁って、やっと自分なりに消化した「自閉症スペクトル」という概念も、今では日本でも広く知られるようになった。自閉症に関する日本語のインターネットサイトや優れた書籍も、爆発的に増えた。やっと日本でも自閉症に光があたり始めた、そんな気がする。

私の葛藤を知ってか知らずか、息子は、ますます愛らしく、逞しく、伸びやかに育った。
弾けるような笑顔と、茶目っ気のある横目と、数々のこだわりと、空気の海を漂うような不思議な歩き方と、マイペースで自信に満ちた態度とで、多くの人を惹きつけ可愛がられる、1年生になった。障害児学級きっての、朗らかな目立ちたがりやである。

あの時、死んだのは息子ではなかった。「自閉症」は彼を損なうものではなく、彼の内にあり、彼を形作るものであり、彼の魅力そのものであることを、息子は自分の力で私に教えてくれた。その声ならぬ声に、私が耳を傾けるきっかけになったのは、自らの痛みをさらして、自閉者の内なる世界の存在と、その深さを私たちにもわかる言葉で語ってくれた、成人自閉者との出会いだった。そこから、新たな世界が開けた。

頬の上で空気が融けるような、張り詰めた冬の朝、マンションのエントランスまで、学校に行く息子を送る。ランドセルを背負った彼と、手を繋いで廊下を歩くとき、その小さな手のぬくもりを、たまらなく愛しく思う。誰にともなく、ありがとう、と言いたくなる。彼は生きている。彼は生きていく。彼のままで、自閉者のままで。私も、私のままで、彼と生きていこう。

12月が来るたびに、冬の嵐のような、あの日々を思い出す。
だが、今、それは、うっすらと傷跡の残る子供時代の怪我の記憶のようになった。痛かったことだけははっきりと覚えているのだが、どこがどう痛かったのか、わからなくなっている。
私の中で「死んだもの」は、いったいなんだったのだろう。
それも、私にはわからなくなった。だが、それは私のなかで弔いが済み、手厚く葬られて、天上の住人となったことだけがはっきりしている。そして今、私と息子が前に進むための、道を照らす明かりとなってくれている。

12月が来るたびに、私は息子を抱きしめられる喜びを思うだろう。バースデーケーキの上に一本ずつ増えていくロウソクを、彼と共に喜ぶだろう。息子のありのままを楽しむ術を教えてくれた人々に、これからも幸あれ、と祈るだろう。今、嵐の只中にいる人の悲しみを思い、もう一度陽だまりの暖かさを感じる日が一日も早くくるように、と願うだろう。

生きていてくれて、ありがとう。あなたにその言葉を捧げよう。
12月が来るたびに。

NO TEACHER

2022年01月30日 | 過去に書いた文
たった一つの言葉が、その後の生き方を大きく変えることがある。

ちびくまがアメリカの養護幼稚園に入園して半年が過ぎた頃だった。息子が自閉症の診断を受けたそのショックからようやく立ち直り始めた私は、今度は「息子を良くする方法」を探し始めた。ロバース法、メガビタミン療法、CFGFダイエット、聴覚統合療法、完全受容法、etc.・・・。息子の自閉症は治らないと医者は言ったけれど、何か方法があるかもしれない。今、やっておかなければ間に合わないかもしれない。そんな気持ちに追われるように、私はインターネットサイトを巡り、大型書店を巡って、情報を求めつづけた。

息子はすっかり養護幼稚園に慣れ、校門で私と別れるときも、ニコニコ顔で先生と手をつないで教室へ行くようになっていた。以前は近くにいられる事すら不快という感じだったクラスメートとも、何人かとは手を繋いだり、じゃれあうような仕草が見られることも出てきた。編入した時点では全くわからなかった英語にも、結構すんなりと馴染んだようで、先生の指示に従えることも増えてきた。「すわって」と声をかけると"Sit down"と答える、という、「翻訳おうむがえし」が出るようになった。ほとんど喋ることがない子なのに、英語と日本語の対応関係はわかっているらしかった。たった半年で、見違えるようになった息子に、専門的な療育を受ける事の手ごたえを感じていた。「もっと療育を頑張れば、もっともっと伸びて、学校へ行く頃には普通になるのではないか」私の心の中に火がついた。

インターネットには、しゃべらない子どもに親が1日何時間も熱心に訓練して、言葉を引き出した、という体験談が幾つも紹介されていた。訓練を頑張って、我が子を自閉症とはわからないほどにまで成長させた、という本もあった。私にもできるのではないか。せっかく頭の良い子なのだから、今、私がもっともっと頑張ってやれば、将来は普通の子として生きていけるのではないか。そう、思った。

まず、言葉を教えよう。私はそこへ行き着いた。息子は字が読めるのだ。毎日、フラッシュカードで単語を教えよう。養護幼稚園の先生だって、絵カードを使っているではないか。日本を離れる時に、言葉の遅い息子のために、幼児用教材のカードを何箱か買い求めていた。すぐに使う事は考えていなかったが、外国でも日本語をしっかり教えたいと思っていたから。リビングの隅でミニカーを並べている息子に、10枚のカードを次々に見せながら、私は単語を読み上げた。息子が背を向けると反対側に回りこみ、他の場所に逃げると追いかけていってカードを見せようとした。だが彼は、せいぜいちらっとカードに目を向ける事がある程度だ。何日かこれを続けてみたが、息子は反応を見せない。一度テレビで見ただけの電話番号が覚えられるのだ。こんなカードが覚えられないわけがない。ここが頑張り時なのかもしれない。まだ始めて1週間も経っていない。最初は泣くのを押さえつけてでもやらせたほうが、本人のためなのかもしれない。

私は彼をダイニングに座らせた。嫌がって逃げようとするが、構わず押さえつけて「さあ、ちゃんと見て」とカードを読み上げた。息子はカードを見ようともせず、椅子から逃げ出そうとする。それを捕まえて、もう一度カードを読み上げる。息子は泣き出した。構わず、カードを読み上げる。おうむがえしは、あなたの得意技ではないか。カードも繰り返せばいい。そして、言葉を覚えて欲しい。

そのとき、息子が、私の腕に思い切り噛み付いた。「痛いっ!」思わず手を離すと、彼はすかさず椅子から身を翻した。腕には、しっかりと小さな歯形が赤黒く残っていた。それまで、私は息子に意図的にひっかかれたり噛み付かれたりしたことはなかった。日本語幼稚園で先生に噛み付いたと苦情を言われたことはあったが、家では彼が噛み付くようなことは一度もなかったから、先生の対応がよほど悪かったのだろうと思っていた。穏やかで攻撃的なところがない子どもだと思っていた息子に、明らかに攻撃の意図を込めて噛み付かれたことに、私はショックを受けた。

「何するのよ!痛いじゃない!」足元に散らばったカードをかき集め、私は息子を部屋の隅に追い詰めた。「さあ、読んで!」息子は、涙でぐちゃぐちゃになった顔で私をきっと見据えると、大声で叫んだ。
"Mommy, No teacher!!"

・・・世界中の色が変わった気がした。
息子の言葉はまだ、殆どが一語文だった。それも、「じゅーす」「だっこして」など、要求を伝える単純なものばかりで、その他はほとんどクレーンや指差しで表現する程度だったのだ。それ以外に場面にあった発語があることは、滅多にない。だからこそ、私は焦っていたのだった。その彼から発せられた、「マミー、ノー・ティーチャー」という言葉。

「あなたは僕のおかあさんでしょう?先生にならないで。僕を訓練しようとしないで。僕を喋らせようとしないで。僕を変えることに一生懸命にならないで。おかあさんはおかあさんのままでいて」私には、そう聞こえた。

「ごめん。おかあさんが悪かった。もう、片付けるから」息子の目の前で、カードを片付けた。腰が抜けたように、ソファーに座り込んだ。息子はまだ警戒心をあらわにして私の様子を伺っている。なんだか可笑しくなって笑い出してしまった。「大丈夫。もうしないから。Mommy's no teacher. No more cards.」その言葉がわかったかのように、息子はそーっと私の膝の上に乗ってきた。そして、小さな両手で、私の頬をはさむようにペチペチ叩いて、にっこり笑うと、「マミー、おかさん、マミー」と呼んだ。今度は、それが" I love you."に聞こえた。

息子が私に求めているのは彼の「おかあさん」であることだ。彼が1番安心して頼れる相手であることに徹して、訓練は他の人に任せよう。不思議なほどにきっぱりとそのとき私の心は決まった。彼からの発信は決して強くはない。それをしっかり受け止めて、「伝えたい気持ち」を育てていこう。彼が何を好きなのか、彼が何をしたがっているのか、彼が泣いたのは何故なのか、彼が何に怒っているのか、どうすれば彼は安心できるのか。1番身近な観察者であり、理解者であろうと思った。彼を愛してくれ、彼の能力を伸ばしてくれる指導者を探し、その人が仕事をしやすくなるように情報を提供し、彼との間の通訳ができる、コーディネーターになりたいと思った。その思いは、今日まで続いている。

息子にはできないことが沢山ある。特に、身辺自立の遅れは深刻なものだ。ひょっとしたら、私がもう少し強硬に頑張ってみていたら、もう少しなんとかなっていたのかもしれない、と反省することもある。自閉症であることそのものは母親のしつけのせいではないとしても、母親がのんびりしすぎているから子どもが伸びないのだ、という非難を受けた事もある。
だが、息子はいつも私を安全基地にしている。たとえどれほどそしられても、私にとってこれほど心満たされることはない。痛い目にあったとき、悲しいとき、疲れたとき、彼は必ず私の元に帰ってくる。「おかあさん、なでなでして」「おかあさん、ちょっとだっこして」年齢にしてはあまりに幼い要求だが、私の腕のなかにしばらく納まっていたかと思うと、充電が済んだとばかりに、またすうっと離れていく。夜中にふと目を覚まして、寝ぼけ眼で腕を伸ばし、私の顔を探る。私の頬に触れて、安堵したように溜め息をついて、また眠りの中に落ちていく。その背中を、その寝顔を、私はどんなに愛しく思うことだろう。彼がこれから大人になって、私の手許を離れていっても、私はいつまでもこのぬくもりを心の中で抱きつづけるだろう。

"No teacher"---私と彼の関係を決定付けたその言葉を、私は今も胸に抱いている。そして、今、少年となった息子の笑顔に、あの日の幼い笑顔と掌の柔らかさとを重ね合わせて昔を懐かしむ時、私の耳には今もあの声がこだまするのだ。
「マミー、おかさん、マミー」と。