雲のむこうはいつも青空

まったりもったり~自閉症息子のいる暮らし@ちびくまママ

問題行動(その3)

2007年10月13日 | 「発達障碍」を見つめる眼
そして、これまでまだ「いい子モード」を発揮してきた交流級での
授業でも、特に素のままのちびくまを見ようと努力してくれる
先生を選んで「自分勝手な行動」に出たことは、
「問題行動」なのではなく

交流級の生徒たちと一緒にいてもリラックスして素の自分を
出せる場面が出てきた証拠であり、
K先生やS先生以外の先生のことも信頼できるようになってきた
証拠だと考えてくれているからこそ、K先生の電話は親への
「嬉しい報告」になったのだと思うのです。

障碍があるとかないとか、診断名がどうだとかいう前に
1人1人の子どもを先入観のない目で見つめ、その子のものの感じ方、
性格、人への接し方、行動の特徴などを綿密に観察したうえで
その子に合わせた課題とその提示の仕方を考えてくれる姿勢を
もった先生だからこそ、このような発想や柔軟な対応が
可能になるわけで、

障碍児教育の専門でもなければ、講演会や学習会に行きまくる
わけでもないし、誰に考え方を説かれたわけでもないのに、
こうしたセンスを持っているところがK先生を「天才」と
呼ぶ所以です。}

気を許せない相手の前では変に構えてしまったり、どうしても
わかりあえないと感じる相手とは適度に距離をとって
あたりさわりのない「大人の付き合い」をしたりする一方で、

反対に気のおけない相手とは本音でぶつかりあって喧嘩したり、
絶対に自分を見捨てない相手だと思っているからこそ
わがままを言ってみる、などということは
私たちの生活では普通にあることのはずなのに、

ただ障碍を持っている、というというだけで、「障碍児」「自閉症児」と
ひとくくりにして、まるでこの子たちには心がないかのように
指導技術や課題の選択ばかりを工夫しようとする傾向が
最近保護者にも専門家の方たちにも特に目に付くような気がします。

その子がどんなものの感じ方をし、どんな表現をする子なのか、
指導云々の前に、自分はその子の気持ちをわかろうとし、
その子に信頼してもらえるように努力しているかどうかを
見つめることのないまま「支援グッズ」だの「指導テクニック」だのを
濫用することは

「視覚支援などなくても言って聞かせればわかる」「言って
わからないなら体できかせるしかない」と言い張る人と同じくらい
自閉っ子の人格を無視したやり方ではないのかと
私には思えてなりません。