雲のむこうはいつも青空

まったりもったり~自閉症息子のいる暮らし@ちびくまママ

離任式

2006年04月04日 | 時には泣きたいこともある。
今日は、M小から転任・退職される先生方の離任式でした。

実は息子の嘔吐症のウイルスをしっかりもらった私、昨日の夕方から
吐きっぱなしで水分すらとれず、よれよれだったのですが
それでもどうしても今日だけは、と足を引きずるようにして学校へ向かいました。

それは、息子が3年間お世話になった障担K先生が転任されるから。

今だから言えるけれど、担任がM先生からK先生に代わった時、
私は「なんでこんな人が自閉症児の担任になったんだ?」と思いました。
障担経験者という話なのに、声のかけ方が違う。授業の勘所が違う。
子どもの見方が違う。
自閉っ子との付き合いの経験がないことは明らかでした。
私が意見するまでもなく、クラスの子どもたちはみるみるうちに
崩れていきました。送迎バス内での頻発するパニック。帰宅後の
パニック。息子は家に帰ってくるなり吐いたり、これまで数年間も
なかったような大パニックを起こしたり、ついには疲れから
発熱してしまいました。
そして、初めての参観日、先生の準備不足からパニックになった息子を見て
私は初めて、先生にはっきり先生の指導への不満を伝えました。
でも、先生も疲れきっていたのです。「私もできるだけのことは
やっているんです。これ以上、どうしろとおっしゃるんですか」

この学校に入れて、こんな目に会うなんて。入学してから2年間、
かゆいところに手が届くようなM先生の指導を受けていた私には
とても納得がいきませんでした。
ゴールデンウイークの間、私はネット仲間たちに相談しました。
その時、いつも私たちのアドバイザーであるMさんがこう言ってくれたのです。
「初めて自閉症に出会った若いパパだと思って、1から教えてあげて。
 観念論ではなくて、具体的に、どうすれば指導がうまくいくのか、
 目からうろこを落とす体験をさせてあげて」

ゴールデンウイーク明けの先生は、やっと一息つくことができたせいか
少し元気になっていました。
連休明けの家庭訪問で、私たちは3時間近く話をしました。
私が最後に先生に言ったのは
「先生は教育のプロですが、私は息子を8年育ててきました。いわば
息子のプロです。
 先生に一人の子についてそこまでになってください、というのは
 無理だと思います。先生にはクラスの生徒全員を教えるという仕事が
 ありますから。ですから、親の知識を利用してください。
 私は先生に指導法を指図するつもりはありません。でも、1から
 先生流をやろうと思っても、子どもたちはついていけません。
 まず、これまでうまくいっていた指導を引き継いで、それが軌道に乗ってから
 先生独自の良さを少しずつ入れていっていただけませんか」
先生を駐車場まで送る道すがら、先生が
「私はこれまでも知的障碍の子は見てきたけど、自閉の子はまた
 それとは随分違う視点から見なきゃいけないんだな、と思いました。
 今はお互いのベクトルがずれちゃっているけど、
 私もお母さんも、子どものために一生懸命やりたいと思っている。
 そのことが一致している限り、きっとうまくやっていけると
 思うんです」
と言ってくれたことで、一筋の明かりを見たような気がしました。

それから私はちょこちょこと学校へ足を運んで
息子の個人指導の際にアドバイスをしたり
連絡帳などに気が付いたことをちょこちょこ書き込んだり
していきました。
自分が「これは」と思う本もお貸ししました。
個別指導を受けている教育大へ半ば無理やり引っ張って行って
教授にお説教をしていただいたりもしました。

6月の自然学校を終えた頃から、先生はどんどん自信をつけて
こられたように思いました。
その頃から、「今度はこんな指導を」という先生のほうからの
提案が多くなってきました。そしてひとつの指導がうまくいくと、
またそれが他の指導に良い影響を及ぼす、という感じで、
先生と子どもの間がうまくまわり始めました。
その1年が終わる頃には、「先生の判断にお任せします」と言える
先生になっておられました。

私はうるさい、手の焼ける親なのです。他の親御さんなら遠慮して言わない
ようなことも必要だと思ったらずばすば言ってのけます。
変にプライドの高い先生なら、「素人のくせに指導にうるさく口を出す」と
疎ましがったり、嫌ったり、却って意地になったかもしれません。
でもK先生は私がやってくださいとお願いしたことはとりあえず1度は
試してみてくれる素直さと謙虚さを持っていました。
そのことが、先生自身の大きな力になったように思います。
ご自分でも「この1年は1つ大きな壁を越えたような感じ」と
おっしゃっていましたが、私は先生の底力を見たような気がしました。

それから翌年、また翌年、と息子は3年連続K先生に担任していただきました。
その間、私が勧める本を、市の先生方の勉強会で紹介してくださったり、
センター校移転の騒ぎのときも、先鋒に立って私たちの見方を
してくれたりしました。

3年間、毎日毎日連絡帳やメールでやりとりし、息子の可能性や
将来について語り合った相手。夫よりずっとこまごまと、発達障碍や
特別支援教育のことまで語りあってきた気がします。
私にとって、K先生は、息子を支える大切なパートナーでした。

その先生とのお別れの式だから、どうしても出たかったのです。
でも、個人的にお話する時間があるかどうかわからないから、
息子と一緒に手紙を書いて、息子にもって行ってもらいました。

さて、何とか学校に着いて、体育館へ行こうとすると、
ちょうどそこに保健の先生が通りかかりました。すると、私の顔を見て
「わ、おかあさん、ごめん。今日、K先生、来られへんかってん」

・・・な、なんどすて~・・・
なんと、K先生、転任先の会議と重なって、今日の離任式には
出席できなかったのです。


でも、まあ、気をとりなおして、体育館の一番後ろで、他の先生の
転任のご挨拶を聞きます。

K先生の他には、去年障担になられたばかりのN先生が転出、
それに介助の先生が4人退職されることになりました。

もううちの学校には8年もいるK先生が今年異動になることは
みんな覚悟していたけれど、N先生にも抜けられてしまうとは、
予想外でショックなことでした。

でもN先生はこれからは全市の障害児教育の質を上げる為の
指導主事になられるので、他の学校の子どもたちのためには
喜ばないといけないんでしょうね。

全校での離任式が終わったあとは、障級関係者だけがもう一度
集まって、毎年恒例の障級だけのお別れ会をします。
ここには他のお母さんたちも沢山集まってきました。
先生たち1人1人の挨拶に、涙ぐんだりするお母さんたちも出る中
(なんと言っても、普通学級に比べて、先生と保護者の仲が
 ずっとずっと緊密ですから)
最後にみんなで記念写真を撮って、解散です。

K先生には会えなかったけど、ちゃんとメッセージは用意されていて
他の先生が代読してくださったし、私たちの手紙も先生たちの手で
渡してもらえることでしょう。

「K先生が来てたら、号泣したかもしれないから、会えなくて
 良かったのかも。私にとっても息子にとっても大事な人だから~」と言ったら
介助の先生がにやっと笑って、
「当初はいろいろありましたけどね」
・・・先生の立場もあるだろうから、介助の先生に担任の愚痴は言わなかったはず 
  だけど、知ってたのね。ひょっとしたら担任が愚痴ってたかも(笑)

でも、あの時期があったから、余計大切に思えるのかもしれない。

ちなみに、K先生は、ちびくまと同じ通園施設に通った子どもたちがいる
養護学校へ行かれることになりました。
障担として3年付き合った先生が、養護学校への転任希望を出してくれた、と
いうのは、保護者として嬉しいと言ってもいいかも。


さて、全てを終えて帰宅した私、完全グロッキーで息子の昼食に
ピザを焼くのがやっとのこと、そのまま布団に倒れこんでしまったのでした。