現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

現代児童文学者の経済学

2020-09-18 17:14:45 | 考察

 現代児童文学の世界では、その担い手の中心が女性になって久しいです。
 それは、もちろん児童文学が、文芸評論家の斉藤美奈子がいうところのL文学(女性の作者が女性を主人公にして女性の読者のために書いた文学)化していることが大きな原因でしょう。
 最近は、それに女性編集者、女性評論家、女性研究者も加わり、完全に女性だけの閉じた世界になりつつあります。
 児童文学のL文学化の功罪についての考察は別の記事でも書いているので、ここでは経済的な面でいかに男性が児童文学の作家を仕事にするのが困難かを考えてみたいと思っています。
 私が初めて児童文学の本を出版したのは、1988年の7月でした。
 出版社と契約を交わし、定価920円(本体893円、消費税27円(3%の時代でした))で印税は8%(一般の文学の本では印税は10%ですが、児童書は挿絵がつくので絵描きさんの分が差し引かれます)でした。
 私の編集担当者が「うちは、大家でもあなたのような新人でも8%払う」と、恩着せがましく言っていましたから、もしかするともっと劣悪な条件をのまされている書き手もいたのでしょう。
 その本の初版は八千部(当時は出版バブルだったので私のような新人でもこの部数ですが、今ではせいぜい三千部から五千部あるいはもっと少ない冊数でしょう)だったので、単純に計算すると571520円が私の取り分ですが、宣伝用の100冊だか200冊だかの分の印税が差し引かれたり、私が自分で配る分の本代(著者は八掛けで買えます)が引かれたり、源泉徴収の10%があったりして、実際の手取りは50万円を切っていました。
 当時、会社からもらっている給料より、かなり少ない額だったのに驚いた覚えがあります。
(これでみんなはどうやって生活しているんだろう?)
 そんな素朴な疑問をもったので、生活していくのにどのくらい本を出せばいいのか計算してみました。
 最終的な刷数を四刷として(二刷からはさらに部数が減ることは知っていましたので、刷を重ねるごとに半減すると仮定して)、合計の部数を1万5千部としました(これがいかに甘い仮定であったことは、後でいやというほど思い知らされます)。
 これをもとに印税を計算すると、毎年10冊出しても当時の年収にはるかに及ばないことがわかりました。
 その本は、エンターテインメント性はほとんどなく、もろに「現代児童文学」していたので、あまり売れないだろうなということは、自分が一番知っていました。
 それにもかかわらず編集者に勝手に漫画的な挿絵を付けられましたが、おそらく編集者自身はその方が売れると思ったのでしょう。
 逆に、児童文学の世界の友人たちからは、その本は挿絵でずいぶん損をしていると言われました。
 そのせいかどうか、日本児童文学者協会の新人賞は、最終選考候補どまりでした。
 これでますます売れないことは決定的になり、けっきょくその本は初版どまりで終わってしまいました。
 それならば、エンターテインメントを書いてみたらどうだろう。
 そうすればもっと売れるかもしれないと思って、次の作品はエンターテインメント的なものにしてみました。
 幸いこの作品もすぐに本になりましたが、編集者が同じだったこともあって、前の本と同じシリーズで同じ売り方でした。
 まあ、ようやく本の内容と一致する挿絵になったことがせめてもの救いでしたが。
 私の本業は電子機器のマーケティングでしたので、(エンターテインメントならエンターテインメントらしい売り方をしてくれよな)と内心思っていましたが、そんな発想はその出版社にはないようでした。
 案の定、この本もあまり売れませんでした。
 (よーし、それなら)と、次はもっとエンターテインメント性を強めたマニアックな作品(今だったらライトノベルのようなもの)を書きましたが、これは担当編集者の理解を超えるものだったらしく、些細な事にケチをつけられてその編集者とはけんか別れをしました。
 ここで私のとる道は二つあったのでしょう。
 ひとつは、出版社を変えて、「現代児童文学」ではなく「エンターテインメント」の書き手になることです。
 もうひとつは、出版社との関係は絶って本業に専心して、好きな「現代児童文学」(特に本にはなりにくい短編)を書き続けることです。
 結論から言うと、私は後者を選びました。
 誤解をまねかないために言っておくと、私は「現代児童文学」と「エンターテインメント」を差別するものではありません。
 たんに、ジャンルとして区別しているだけです。
 作家の村松友視が「私、プロレスの味方です」の中で書いたように、「あらゆるジャンルに貴賎はない」のです。
 ただ、それぞれのジャンルの中で一流も三流もあります。
 だから、一流の「エンターテインメント」作品もあれば、三流の「現代児童文学」作品もあるのです。
 ただし、人それぞれにジャンルの好き嫌いはあります。
 私の場合、「現代児童文学」はすごく好きだけれど、「子ども向けエンターテインメント」は好きじゃないだけなのです。
 ここで、「子ども向け」と断っているのは、大人向けのエンターテインメントで好きな作家は、当時何人もいたからです(例えば、「羊たちの沈黙」などのトマス・ハリスや「ジャッカルの日」などのフレデリック・フォーサイスなど)。
 結論から言うと、印税収入だけで暮らしていけている男性の「現代児童文学」の作家は、ほとんどいません。
 「エンターテインメント」の書き手なら、はやみねかおるや松原秀行のように、印税だけで暮らしていける男性作家もいることでしょう。
 私はまったく詳しくありませんが、「ライトノベル」や「絵本」にも、かなりプロの男性作家いることと思います。
 しかし、「現代児童文学」作家は、あの皿海達也でさえ、教師の仕事を辞めて作家に専念できませんでした。
 岡田淳も、長い間、図工の教師を続けていました。
 彼は、最近はかなりエンターテインメント性の強い作品を量産しているので、あるいは今は作家に専念しているかもしれませんが。
 2010年に亡くなった後藤竜二のように、「現代児童文学」と「エンターテインメント」、さらには「絵本」までかき分ける才に恵まれ、作家に専念できたた人はまれでしょう。
 「現代児童文学」の男性作家で、仕事を辞めて創作に専念している場合でも、妻などの収入に頼っている人も多いようです。
 ある著名な「現代児童文学」の男性作家が、「実はおれはヒモなんだよ」と、自嘲的に言っていたのが忘れられません。
 その点では、今までは女性の方が有利だったかもしれません。
 従来の日本社会では、結婚すれば少なくとも経済的な心配はあまりなかったからです。
 これも、児童文学の世界がL文学化した理由の一つかもしれません。
 でも、非婚化や世代間格差の進んだこれからの日本では、女性も男性と条件が変わらなくなってくるとは思います。
 今は作品がエンターテインメントよりになって、本が売れているので作家に専念していますが、荻原規子も長い間中学校の事務の仕事を続けていました。
 2012年にサークルの同窓会で彼女と話した時、「レッド・データ・ガール」シリーズが売れても、まだ不安だと言っていました。
 こういった「現代児童文学」の状況を打破するためには、印税の大幅アップしかありません。
 もともと「現代児童文学」は、大人向けの「純文学」同様に、読者数の多いものではないのです。
 それならば、印税を大幅に上げて、作者の取り分を多くするしかありません。
 印税が10%でなく40%(児童書の場合ならば、8%でなく32%)ならば、純文学(現代児童文学)の書き手でも、生活していけるようになるでしょう。
 あの田中慎哉でも、別に芥川賞を取らなくても、パートのおかあさんの収入に頼らなくてすみます。
 そのためには、出版社、流通、書店といった中間搾取層(言葉が悪くてすみません)をカットできる電子書籍の普及に期待しています。
 アメリカではすでにその動きがかなり出てきているので、日本でもあと10年ぐらいたてば状況がかなり変わる事と思われます。
 2012年の終わりに、アマゾンがキンドル・ダイレクト・パブリッシング(KDP、その記事を参照してください)を日本でも開始しましたが、そこで自己出版(無料なので自費出版ではありません)して、そのロイヤリティ(35%または70%)だけで児童文学作家が生活できるようになるのには、まだまだ時間がかかるでしょう。
 特に、いくらKDPで出版しても、アマゾンはいっさい宣伝してくれませんから、どのように読者に自分の本の存在をを知らせるかが大きなハードルになっています。
 上記の文章を初めて書いてから五年以上たつのですが、状況はさらに悪化しています。
 児童文学の電子化は遅々として進まず、子どもたちのほとんどがスマホを持っているのに、児童文学作品をそれで読むことができません。
 また、宮沢賢治を除くと、古典的な児童文学作品のディジタル化も全く進んでいません。
 そのため、児童文学作品の消費財化がどんどん進んでいます。
 英語圏では、児童文学の新作はもちろん古典的な作品まで、安価に電子書籍で購入して読むことができます。
 また、図書館のディジタル化も進んでいるので、無料で読むこともできます(日本でも、八王子市などでは、電子書籍の貸し出しが始まっています)。
 その一方で、漫画の世界では電子化は進んでいます。
 その業界の友人の話では、紙の本の売り上げの落ち込みを電子書籍で補っていて、主力は電子書籍に移行しているそうです。
 私自身も、コミックスを読む時は、新作(例えば、「BEASTARS」(その記事を参照してください))も、古典(例えば、「火の鳥」や「カムイ伝」(それらの記事を参照してください))も、電子書籍で購入して読んでいます。
 正直言って、児童文学の業界の人たちは、ディジタル化やマーケティングに関して全く疎いので、日本の児童文学の世界はますますガラパゴス化しています。


 

 

インディ?号の栄光
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平野 厚



インディ2号の栄光 (新・子どもの文学)
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偕成社








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ふうちゃん

2020-09-17 14:21:34 | 作品

 自由遠足の班のメンバーが決まり、全員一致で班長に選ばれた時、

「ひでえことになったな」
と、秀樹は思った。
 秀樹の班はぜんぶで六人。男子と女子が三人ずつだった。それがよりによって、クラスの中でも問題のあるやつらばかりなのだ。
 まずシミケンこと、清水健太。 
 乗り物マニア。飛行機、船、自動車と、乗り物ならなんでも好きだが、中でも鉄道は大大大好きの鉄男だ。
 なにしろ愛読書は、時刻表。たとえば、午前十時二十三分には、XX線では、特急YYがZZ駅を発車するところだとか、AA線では、急行BBがCC駅に到着したところだとか、瞬時にわかるんだ。そういったことが、頭の中にいっぱいつまっているらしい。
 スマホで最適な乗り継ぎが検索できる現代に、そんな知識は時代遅れだろうが、そんなことはおかまえなしだ。
今度の遠足でも、とんでもないことを提案してきた。
 もう一人の男子は、カオルちゃんこと、山内薫。
 男だか女だかわからないような、名前のとおりナヨナヨしたやつだ。母親が本当は女の子が欲しかったらしく、小さいころは女の子のように育てられたらしい。時々、いまどき女の子でも使わないような「女ことば」を使ってしまい、みんなにからかわれている。
 カオルちゃんは、シミケンとは対象的に乗り物に弱い。去年の遠足でも途中で酔ってしまって、ゲーゲーもどしていた。今年は大丈夫だろうか。

 女の子のリーダー格は、「ゲイノリ」こと、飯野紀香だ。
 ゲイノリのゲイは、芸能人の芸だ。歌マネ、モノマネ、フリマネ、なんでもこいの、クラスで一番のタレントだ。学芸会や謝恩会など、アピールするチャンスがあれば、なんでもしゃしゃりでてくる。AKB系や坂系やハロプロ系のグループのモノマネは、オハコ中のオハコだ。実際にいろいろなグループのオーディションを受けているといううわさまである。将来は、「歌って踊れる」アイドルを目指しているんだそうだ。遠足の時は、女の子もみんなパンツスタイルだけど、ゲイノリだけはいつものフリフリのワンピースを着てくるだろう。
 二番目の女の子は、岡田直美。
 あだ名は、……。
 特にない。
 他のクラスのみんなは、全員なんらかのあだ名や呼び名を持っている。
 でも、この子だけは、
「岡田さん」
とだけ呼ばれている。
 なんというか、とにかく地味なのだ。外見も性格も、特に目立つところがまったくない。それにおとなしくて無口なので、ふだんはいるのかいないのかわからないのだ。たぶん、仲の良い友だちなんか一人もいないんじゃないかな。
 そして、三人目の女の子が、最大の問題のふうちゃんだった。
 ふうちゃんの名前は、山口ふうこ。風の子とかいてふうこと読む。
(まったくうまい名前をつけたものだなあ)
と、つくづく感心してしまう。
 ふうちゃんは、文字どおりの「風の子」だったのだ。授業中でもなんでも、気がむかないと教室からプイッといなくなってしまう。そのたびに、先生はクラスの授業を中断して、学校中をさがしまわることになる。
 ふうちゃんは動物や植物が大好きなので、たいていは学校の裏山の自然観察林や、動物飼育小屋で見つかることが多かった。ふうちゃんは、子うさぎをだっこしていたり、菌をうえた原木からはえているシイタケを数えたりしていた。
 しかし、時々は、他のクラスにまぎれこんだりして、騒ぎが大きくなったりもした。
 先生に見つかると、ふうちゃんはおとなしく教室に戻ってくる。
 でも、またしばらくすると、ふいとどこかに消えてしまったりするんだ。
 まったく文字通りに風の子だった。
 ふうちゃんもみんなとあまりおしゃべりをしないけれど、いつもニコニコしているから、みんなに「ふうちゃん」、「ふうちゃん」とよばれて、かわいがられている。教室をぬけだすくせだって、おかげで授業がつぶれるので、「ふうちゃんタイム」って呼んで、喜んでいるやつがいるくらいだった。
 でも、そんなふうちゃんと一緒に校外へ行くなんて、考えただけでも頭が痛くなってくる。
 
 そもそも自由遠足というのが、とんでもない遠足なのだ。なにしろ四時までに学校に戻れるならば、班ごとにどこへいってもいいというのだ。
 こんな遠足、聞いたこともない。他の学校ならば、たとえ子どもたちが望んだとしても、責任問題を恐れる学校側が許さなかっただろう。
 そんな無責任な遠足が許されているのは、秀樹たちの学校が「自主性を育てる教育」とやらの実験校だからだ。
 どこへいってもいい代わりに、各班は事前に遠足の細かな計画を立てなければならない。そして、班の行動は、学校やあちこちに待機している先生たちにモニタされている。
(どうやって、モニタするかって?)
 それが、実験校ならではハイテクを使った物だった。各班長に、専用のスマホを一台ずつ持たせるのだ。
 スマホには、GPSという位置情報を確認する機能が付いている。そして、スマホは使わなくても常に電波を出しつづけているのだ。それをキャッチしてスマホのある位置を知ることができるんだそうだ。それならば、各班がどこにいるかを、先生たちはパソコンでモニタできるわけだ。
 もちろん、スマホの電波が届かない山奥などは無理だろうけれど、今ではけっこう辺鄙な所でも電波が届くんだそうだ。そして、もしその班が計画どおりに行動していないと、たちまち先生から班長に電話がかかってくる。
 そして、なぜ計画通りに行動していないかを電話で話し合う。それでも問題が解決できなければ、周辺で待機している先生たちの中で一番近い人が現場に急行するってわけだ。

 他の班はそれで問題なかった。行き先が、学校から徒歩でいけるか、せいぜいバスでいける公園や博物館だったからだ。
 あいにく秀樹たちの町には、そういった遠足に向いた施設はなかった。
 でも、隣りのS市には、遠足にもってこいの場所がたくさんあった。
 郷土の歴史に関する市立博物館。まわりで水遊びのできる淡水魚専門の水族館。無料で遊べる大型遊具がたくさんある大きな県立公園。フィールドアスレチックや無料のふれあい動物園のある市立公園。
けっきょく、ほとんどの班が、それらのどこかへ行くことになった。
 秀樹たちの班だけが大問題だったのだ。
 そもそものきっかけは、乗り物マニアのシミケンの提案だった。バス、電車、地下鉄、ゆりかもめなどを乗り継いで、お台場まで行こうというのだった。
「いいねえ。フジテレビに行こうよ。芸能人や女子アナに会えるかもしれない」
 その提案に、芸能界好きのゲイノリが、すぐに賛成してしまった。それに引きずられるように、岡田さんも賛成した。
 乗り物に弱いカオルちゃんと面倒に巻き込まれたくない秀樹は反対。
 これで3対2だ。
 ところが、なんとふうちゃんまでが賛成してしまったのだ。これで、4対2で遠足の行き先が決まってしまった。
 それでも、先生たちがそんなプランにはまさかOKはしないだろうと、秀樹はたかをくくっていた。
 たしかに、先生たちの最初の反応も、「考えさせてくれ」とのことだった。
 ところが、意外にも最終的にはOKが出てしまった。
 秀樹たちの班だけ、先生たちが最大限のサポートをすることにしたのだ。これも「自主性を育てる教育」の実験校ならではだ。
 秀樹たちが予定している各乗り換え地点には、一人ずつ先生が配置されることになった。
 もしかすると、秀樹たちの遠足は、今回の結果を県の教育委員会へ報告するときの目玉にされてしまうのかもしれない。
 班の行き先が承認された時、シミケンやゲイノリを筆頭に班のメンバーは大喜びだった。
 班長の秀樹だけは、そんな自由遠足が憂鬱でたまらなかった。

 

 

         

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ワジム・フロロフ「愛について」

2020-09-14 18:16:23 | 作品論

 1966年にソ連で書かれた作品ですが、日本語には1973年に翻訳されたので、1978年ごろに児童文学のタブー(性、離婚、家出、自殺など)の崩壊が議論された時に、盛んに引き合いに出されました。
 性への目覚め、最愛の美しい母の駆け落ち、それに対する尊敬していた父の無力化、母のことを同級生に侮辱されて爆発した暴力事件による退学などを、主人公の14歳の少年は短期間に体験します。
 飲酒による父とのいさかい、家出において恋人とキスする母親の目撃などを通して、精神的な「親殺し」を経て、一人の人間として生きていくことを決意する少年の姿が描かれています。
 翻訳があまりうまくないので読んでいてかなりいらいらしますが、私の読んだ本は1996年で18刷なので、少なくとも90年代まではかなり読まれていたのではないでしょうか。

愛について
クリエーター情報なし
岩波書店
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古田足日・砂田弘「幼年文学の現在をめぐって」日本児童文学1985年12月号

2020-09-12 15:08:12 | 参考文献

 当時の「日本児童文学」の編集長の砂田弘が、自らも優れた幼年文学を書いている古田足日に聞く形で、1985年半ばの幼年文学の現状について概観しています。
 その後の「幼年文学」の評論(関連する記事を参照してください)と比較すると、同業者たちに遠慮せずに現状の混迷(堕落)を批判しています。
 例えば、当時の人気作家の角野栄子の人気幼年童話シリーズに対して、彼女の高学年向きの作品を評価しつつもこれらの幼年童話は「手抜き」だと批判し、当時の大ヒット作の矢玉四郎の「はれときどきぶた」もブラックユーモアや心をひらかせるものとして認めつつも「残念なことにそれらが浅い」と指摘しています。
 また、神沢利子、山下明正、安房直子といった当時の幼年文学の大家たちの近作についても、文体もキチンとしているしテーマも安定しているとしつつ、「悪い意味で新鮮味に乏しい」「悪く言うと今までの作品の二番煎じ」と批判しています。
 さらに、当時二十冊以上出ていた人気シリーズの寺村輝夫「ぼくは王さま」についても、現在の子どもたちの関心とは遊離してきていると指摘しています。
 こうしたことができるのは、当時の児童文学界の権威者だった二人だったからかもしれませんが、彼らが評論家であるだけでなく実作者(特に古田は、幼年文学においても、「おしいれのぼうけん」、「大きい1年生と小さい2年生」、「ロボット・カミイ」などの優れた作品があります)としての豊かな経験があったからでしょう。
 こうした既存作家の低調な作品が、新人たちに「幼年文学なんてこんなもの」と誤解させていることや、新人たちの「自分を表現したいという」要求が「本を出すという要求に自分の中ですりかわってしまった」ことなども、これらの安易な幼年文学を生み出している原因と指摘としています。
 さらに、大量の(しかも質の低い)挿絵への依存や、話し言葉への安易な傾斜(幼年文学が子どもたちが出会う最初の書き言葉であることへの作者たちの無理解)なども指摘しています。
 これらの危惧は、現代児童文学がスタートした直後の1960年代から、神宮輝夫や安藤美紀夫たちによって指摘されていて(それらの記事を参照してください)、一般的には「子どもと文学」(その記事を参照してください)の掲げた「おもしろく、はっきりわかりやすく」というスローガンが一人歩きしていった弊害だと認識されています。
 これらの問題(既成作家と新人作家によるステロタイプの量産)は、現在では幼年文学だけでなく、児童文学全体に当てはまるようになってしまっています。
 これは、幼年文学が、児童文学においてもっともプリミティブな存在であることと、読者である子どもたちの文学および書き言葉に対する受容力の低下を考えると、歴史の必然だったのでしょう。
 さらに商業主義の問題にも触れて、「買い手の側に「俗流童心主義」があって、それに乗っかった作品群が生産されている」としています。
 今後の可能性としては、後藤竜二「一年一組いちばんワル」(その後シリーズ化されてマンネリ化しますが)、伴弘子や伊沢由美子作品(題名不明、おそらく雑誌「日本児童文学」に掲載された作品だと思われます)などを引き合いに出して、新しい幼児・幼年観の確立の芽生えとして、子どもたちが他者を発見していく姿をあげていますが、一方で展望(出口)が提示されないままでは、たんなる生活童話に留まってしまう可能性があることも指摘しています。
 以上のような批判は、「少年文学宣言」(その記事を参照してください)の流れをくむ正統派(?)の「現代児童文学者」の観点としては至極まっとうですが、初めて読書の楽しみを知るという「幼年文学」の側面を考えると、やや厳しすぎるかなという気もしました(現在はもっとひどいので)。
 「現代児童文学」という文学運動は、1960年代ぐらいまでは評論と実作が両輪として機能していましたが、1970年代からはかなり遊離し始め、このインタビューが行われたころはかなり分離していたと思われます(おそらくこのインタビューも、そのころの幼年文学の書き手で真面目に読んでいた人はごく一部でしょう)。

日本児童文学 2017年 08 月号 [雑誌]
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小峰書店
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宮川健郎「「失語」の時代に」現代児童文学の語るもの所収

2020-09-11 11:27:43 | 参考文献

 「「理想主義」では語りきれないもの」という副題を持つ、古田足日「ぬすまれた町」(1961年)を中心に書かれた文章です。
 初出は、「全集古田足日子どもの本」第十三巻のために、「出発期の古田足日、出発期の現代児童文学 ― 「ぬすまれた町」再読」(1993年)として書かれたものです。
 1996年にこの本が出版された時に、どのように加筆訂正がされたのかは不明ですが、いろいろな問題点を感じました。
 冒頭、「まず、言語学の勉強をします」という小見出しで、ソシュール「一般言語学講義」の「統合関係」と「「連合関係」の簡単な解説が書かれています。
 著者は、この文章の読者(古田足日全集あるいは「現代児童文学の語るもの」)を、どのように想定しているのでしょうか?
 もし一般的な古田作品の読者や児童文学に興味を持っている人(児童文学作家、読書運動や図書館など子どもの本に関わっている人、評論家、研究者などすべてを含みます)を想定している人だとしたら、大半は「難しい」と思って読まずに投げ出してしまうかもしれません。
 学会や大学に発表する論文のように、評論家、研究者、学生などに読者対象が限定されているのならそれでも構いませんが、「まず、言語学の勉強をします」という上から目線の小見出しを見ると、どうもそうではないようです。
 「失語」というタイトルに使われている用語も含めて、どうも難しい言葉をかみ砕いて表現する努力を怠っているように感じられます。
 現代児童文学がスタートしたころにも、難解な論文はありました(古田先生の論文のいくつかもそうです)。
 しかし、そこで難解なのは内容や新しい概念であって、そのころの論文の書き手は、できるだけ平易な言葉を使って、できるだけたくさんの人たちに理解してもらおうと努めていました。
 著者がよく勉強しているのは分かります。
 また、内容についてはあとで説明しますが、重要な主張も含んでいます。
 しかし、こういう書き方では、この文章の読者は、著者の身内の評論家や研究者に限定されてしまい、書き手たちの評論離れをさらに加速して、「書き手は書き手」、「評論家は評論家」で、ばらばらに活動している現在の状況を生み出した一因になっていたのではないでしょうか。
 次に、内容の分裂があります。
 初出の「出発期の古田足日、出発期の現代児童文学 ― 「ぬすまれた町」再読」では、著者自身がこの文章の註に「ぬすまれた町」が出版された1961年は、「「現代児童文学の出発期で、多くの作品は、アクティブな方向をめざしていた」のに、「ぬすまれた町」「のあり方は、当時の児童文学の傾向とは、ずいぶんちがったものだったといえるだろう」」と書いているように、なぜそのような作品がその時期に書かれたかがメインテーマだったはずです。
 しかし、この文章では、それは十分に解明されないままで、「理想主義」では語りきれない状況(作者の言葉では「失語の時代」と書かれています。それが、この本が出た1996年なのか、初出の文章が書かれた1993年なのか、後半で取り上げられた安藤美紀夫「風の十字路」(その記事を参照してください)や後藤竜二「少年たち」が書かれた1982年なのかは不明です)を描くためには、「「理想主義」では語り切れない状況をいったん抱きとめてみる必要がある。そして、そのなかから、私たちのことばを獲得しなおさなければならないのだ。」という主張に、強引に結び付けているように思えます。
 著者の主張をかみ砕いてまとめれば、こうなると思います。
「現代児童文学には、アクティブな理想主義の作品が多かった。
 しかし、ここであげた「ぬすまれた町」や天沢退二郎「光車よ、まわれ!」(1973年)のようなそうでない作品もあった。
 そして、それらの前衛的な作品では、日常と非日常が混在する世界を描くために、通常とは違った言葉や表現方法(著者の言葉で言えば失語症の)が用いられた。
 そうした理想主義では語れない状況が、より一般化した1980年代では、さらに新しい言葉や表現方法を獲得することが必要になっている。
 例えば、後藤竜二「少年たち」は旧来の理想主義的な方法で当時の中学生を描こうとしたが、それでは状況は描き切れていない。
 一つの可能性としては、安藤美紀夫「風の十字路」のように、理想主義的な結末は書かずに、その状況をそのまま提示することも必要なのではないか。」
 その主張は、1980年代前半の現代児童文学の状況においては、おおむね正しかったと思われます。
 しかし、それから、初出まででも10年以上、本が出るまでには15年近くの時間がたっていて、現代児童文学を取り巻く状況は大きく変化しました(私は、現代児童文学はそのころに終焉したと思っています)。
 それに合わせて、この論文ももっと加筆修正してほしかったと思いました。
 

現代児童文学の語るもの (NHKブックス)
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日本放送出版協会
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パディントン

2020-09-10 09:05:28 | 映画

 マイケル・ボンドの「くまのパディントン」の実写映画です。
 パディントンのハチャメチャぶりと、ブラウン一家(ロンドンのパディントン駅でペルーから密航してきたパディントンを拾ってくれた四人家族と家政婦(映画では現代にそぐわないので親戚になっています)の温かさは、現代のロンドン風にアレンジされています(原作は1958年の作品です)が、かなり再現されています。
 しかし、原作のほのぼのとしたユーモアでは現代の観客には物足りないと考えたのか、原作にはない、かなり昔にペルーでパディントンのおばさん夫婦と出会ったイギリスの探検家や、パディントンをはく製にすることに執念を燃やす謎の美女(実は探検家の娘)などを付け加えて、ドタバタ物にしてしまいました。
 また、主人公のパディントンがリアルなクマすぎて、姿や声がディズニーやジブリのようなかわいらしさがないこともあって、日本ではあまりヒットしませんでした。 

パディントン [DVD]
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ポニーキャニオン
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パディントン2

2020-09-10 09:04:46 | 映画

 児童文学の古典的な動物ファンタジーである、マイケル・ボンドの「くまのパディントン」シリーズの映画化第二弾です。
 この作品では、原作とは完全に離れて、パディントンやブラウン家といった設定だけをいかしています。
 むしろ、そのために現代にはマッチしていて、前作よりも大人も子供も家族で楽しめるコメディに仕上がっています。
 敵役も含めてラストではみんながハッピーになれるのですが、それを楽しむためにはエンドロールが始まってすぐに席を立ってはいけません。
 なお、この映画の成功には、敵役を演じたかつて「ロマンティック・コメディの帝王」と呼ばれ、典型的なダメ男俳優(私生活でも女性関係のゴシップが豊富です)のヒュー・グラントの怪演がかなり貢献しています。

くまのパディントン (世界傑作童話シリーズ)
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福音館書店


 

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宮川健郎「児童文学理論の歩みと未来」児童文学研究の現代史所収

2020-09-09 08:52:46 | 参考文献

 2004年に日本児童文学学会の四十周年を記念して出版された本の中の論文です。
 著者は、児童文学理論とは「児童文学とは何か」という問いかけを含んだ文章としています。
 そして、1980年に柄谷行人は「児童の発見」(その記事を参照してください)において、現代児童文学者の児童観を批判したことをきっかけにそのことが熱心に議論されたとしています。
 その過程において、「現代児童文学」の出発を支えた「童話伝統批判」で見いだされた「児童ないし、児童文学とは何か」が見直しを余儀なくされました。
 そして、児童と大人、児童文学と一般文学の境界が合間になった1980年代以降は、「児童文学」とは、単純に「大人が書いて」「子どもが読む」という定義しかできないとしています。
 その前提で考えると、作者が読者の方へ回り込むための「語りの構造」、子ども読者として想定した「読者論」、「大人の書き手」と「子どもの読者」を結びつける「媒介者論」がもっと議論されなければならないと将来の方向が提示されています。
 以上の著者の議論には、論理の飛躍があるように思えます。
 児童と大人の境界があいまいになっているのなら、むしろ児童文学の読者は子どもに限定されるのではなく、大人も含めて考えなければならないのではないでしょうか。
 そうすると、中高校生の男子を中心にして大人や女性も含めた広範な読者を獲得しているライトノベルや、年齢を問わない女性のためのL文学(女性作家が、女性を主人公にして、女性読者のために書く文学)、子どもも含めた広範な読者層に向けたエンターテインメントなどへの検討がもっと必要になってくると思われます。
 著者が言うところの「大人が書いて」「子どもが読む」という定義は、現代ではもっと限定された幼年文学(現在では小学三年生ぐらいまでが対象)においてのみ成立しているのではないでしょうか。

児童文学研究の現代史―日本児童文学学会の四十年
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小峰書店
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夏、雨上がりの野球

2020-09-08 09:55:43 | 作品

 最初に川に入って泳ぎ始めたのは、キャプテンの明だった。力強いクロールで途中の速い流れもつっきって、楽々と向う岸にたどりついた。

 明は、大きな岩の中ほど、三メートルぐらいの所まですばやくよじ登った。真っ黒に日焼けした体は、腕や胸に筋肉が盛り上がっていてたくましい。
 対岸のみんなが注目する中、明は勢いよく頭から川に飛び込んだ。大きく水しぶきがはね上がる。
 明はすぐに浮き上がると、水の流れに身体をまかせながらこちらにむかって笑顔で手を振ってみせた。
 それを見て、他の六年生たちがいっせいに続いた。きれいなクロールでいく者、力まかせにバチャバチャと犬かきで泳ぐ子。泳ぎ方はさまざまだったが、みんな、なんとか向う岸にたどりついた。
 対岸についた六年生たちは、我先にと岩からの飛び込みを始めた。明と同じ場所から飛び込む者もいたが、大半はそれより少しでも高い所から飛ぼうとしている。
 でも、中には水面すれすれから、こわごわと飛び込んでいる者もいた。
 その時、明が岩のてっぺんまでよじ登ると、一回ひねりをして飛び込んで見せた。
 それからは、みんながいろいろな技をきそって、飛び込むようになった。
 両手を鳥のように大きく広げて飛び込む、左右に足を開いての飛び込み、……。
 だんだん技がエスカレートしていく。
「おーい、あぶないから、曲芸はやめろ」
 とうとう下から監督がストップをかけた。
六年生たちは普通に飛び込むのではつまらないのか、岩を離れて下流のほうへ泳いでいった。
「おーい、次はお前たちだぞ」
 監督にうながされて、五年生たちが泳ぎ始めた。
 こちらも、ほとんどがなんとか対岸へはたどりついた。
 でも、飛び込まないで岩にしがみついている者が多い。中には、向こう岸まで泳ぐのさえあきらめて、途中で引き返す子さえいた。
 そんな中で、芳樹の兄の正樹も泳ぎ出した。いつも慎重な正樹らしいていねいな平泳ぎで、ゆっくりだが確実に向こう側へ渡り切った。
 でも、やっぱり岩につかまっているだけで、飛び込みをやろうとはしない。
「なんだあ、だらしねえなあ」
「男なら、思いきって飛び込んでみろよ」
 監督やコーチたちが、川の中から大声で挑発した。大人たちも水に入って、みんながおぼれたり流されたりしないように油断なく見張っている。
 その声に発奮したのか、向こう岸にいた五年生たちが、岩によじ登りだした。正樹も、へっぴり腰ながら、一番後から続いていく。
「よーし、いけーっ」
 監督のかけ声に合わせて、五年生たちも岩の上から飛び込み始めた。

 今日は、芳樹たちの少年野球チーム、ヤングリーブスのバーベキュー大会。夏の厳しい練習のごほうびにと、道志川の河原へ連れてきてもらっていた。
 いよいよ、芳樹たち三年生の番になった。五、六年生以外に来ていたのは、上に兄弟がいる子だけだったので、四年は誰もいなく三年も他には良平ひとりだった。そう、それとニ年の隼人も来ていた。
「ほら、次は三年の番だろ」
 監督はそういって、二人をけしかけた。
 でも、良平は初めからあきらめているのか、ニヤニヤしているだけで泳ごうとしない。
 芳樹は、行く手をはばむ中ほどの速い流れを、じっとながめていた。そこだけが、幾筋にも白く波立ちながら流れている。
 向こう岸までは、たった15メートルほどしかなかった。 スイミングスクールに通っていたころは、25メートルプールを楽に往復できた芳樹には、問題になる距離ではない。
(でも、波が、……)
 いつまでたっても、ふんぎりがつかなかった。
「ギブアップかあ?」
 ようやく監督もあきらめたらしく、対岸の五年生たちの方に向きなおった。
芳樹は、何気ないそぶりでその場を離れていった。
 いつのまにか良平は、下流の流れがよどんでいる場所で、隼人と何かを探していた。
「良ちゃーん、何か取れる?」
 わざと大声を出しながら、芳樹はそちらへ走っていった。
 よどみには、草色をした小さな魚が、群れをなして泳いでいた。芳樹はつとめてさっきのことは忘れるようにして、良平たちと魚を追い始めた。
「よっちゃーん」
 突然、うしろから声をかけられた。
 振り向くと、裕香が河原に立っていた。黄色のタンクトップに赤いショートパンツで、ニコニコ笑いながら手を振っている。
「やっぱり、ついて来ちゃった」
 裕香の兄は、さっき最初に岩から飛び込んだキャプテンの明だった。
「今、来たの?」
 芳樹がおそるおそるたずねると、
「うん、おかあさんと」
 たしかに、河原では裕香のおかあさんがエプロンをつけて、他の人たちと一緒にバーベキューの準備を始めていた。
(泳がなかったところは、裕香ちゃんには見られなかったみたいだな)
 芳樹はそう思って、ホッとしていた。

「あっ、大きな犬がいる!」
 突然、裕香が大声で叫んだ。裕香が指差す上流の方を見ると、こげ茶色の長い毛をした大きな犬が泳いでいた。グングンとスピードをあげて、対岸を目指していく。
 芳樹は急いで河原に上がると、裕香と一緒にそばまで行ってみた。
 向こう岸の近くに、ピンク色のゴムボールが浮かんでいる。犬はあっという間に川を泳ぎ渡ると、ボールをくわえてすぐに戻ってきた。
 こちら岸に上がってブルブルッと体をふるわせたので、まわりに水しぶきが大きく飛び散った。
「うわーっ!」
 裕香は、水がかからないようにすばやく逃げた。逃げ遅れた芳樹には、もろに水がかかってしまった。
 飼い主らしい茶髪のおにいさんは、犬の口からボールを取ると、今度はもっと上流に向かって思いっきり投げた。犬は、すぐにまた川の中に飛び込んでいった。
 ボールは、あの飛び込み岩の近くまで飛んでいって、そこにひっかかってしまった。
 犬は川の中ほどにつくと、そこから上流に向かって泳ごうとし始めた。
 でも、流れが一番速いところなので、なかなか前に進めない。けんめいに前足を動かして、文字どおり犬かきで進もうとしている。
 でも、ちょうど流れの力とつりあったのか、まるで止まってしまったように見えていた。
「ジュリー、もっと向こうへ渡ってから泳げったら」
 おにいさんは、少しいらいらした声で怒鳴っていた。
(やっぱり、あそこは流れがきついんだ)
 芳樹は、あらためて白く波立っているあたりを見つめた。
「芳樹、来い。だいじょうぶだから」
 突然、対岸から声がかかった。五年生たちの飛び込みを見ていた監督だ。ほかのコーチたちは、少し下流の流れのゆるやかな所で、飛び込みにあきてビーチボールで遊んでいる六年生たちのそばにいる。
(しまった、見つかっちゃった)
 芳樹は聞こえないふりをして、また良平のいるよどみに戻ろうとした。
 と、そのとき、
「よっちゃん、行ってみたら。スイミングにいってたでしょ。よっちゃんなら、絶対渡れるよ」
 裕香にまでいわれてしまった。
 向こう岸の監督、こちら側の裕香。二人にはさまれて、芳樹は身動きが取れなくなった。
「監督、行きまーす」
 そういったのは、芳樹ではなかった。一緒についてきていたニ年生の隼人だった。
「おっ、隼人か。いいぞお」
 隼人はすぐにザバザバと川へ入ると、きれいなクロールで泳ぎ出した。そういえば、隼人は、チームに入るときにやめた芳樹と違って、まだスイミングを続けている。
 隼人は中ほどで少し下流に流されたものの、無事に対岸にたどりついた。
「いいぞ、隼人。よくやった」
 監督も満足そうだ。
「隼人くん、すごーい!」
 裕香もそう叫ぶと、隼人にむかって手を振っている。隼人もそれにこたえるように、得意そうな顔をしてVサインをしてみせていた。
「行きますっ!」
 思わず、芳樹はそういってしまった。すぐに後悔したけれど、もう後には引けない。隣では、裕香が(尊敬のまなざし)でこちらを見ている。
 内心のドキドキを隠して、芳樹は少し上流へ移動してから川の中へ入っていった。さっきの隼人の泳ぎを見て、少し下流に流されることを計算に入れたのだ。
 腰ぐらいの深さになったとき、芳樹はやっと泳ぎ出した。流れの中は、さっきのよどみよりも水が冷たかった。
 スイミングをやめる直前に習いはじめたクロールをしているつもりだったけれど、プールの時のようにはうまくいかない。やたら腕を振り回したので、水がバチャバチャとはねかえっている。
 それでも、ようやく中ほどまでさしかかった。問題の速い流れだ。
(あっ!)
と、思った瞬間に波立った水が顔にかかり、それをゴボッと飲んで何がなんだかわからなくなってしまった。
「芳樹、そっちじゃないぞお!」
 急に上流に向かって泳ぎ出した芳樹を見て、監督があわてたように叫んでいる。
 でも、夢中で腕をふりまわしていた芳樹には、どこか遠いところからのように聞こえた。
 芳樹はけんめいに泳いでいた。だけど、ちっとも前に進まない。いや、むしろ少しずつ下流へ流されているくらいだ。そして、しだいに浮力をなくした身体が、だんだん水の中に沈んでいった。
「ああっ!」
 誰かが叫んだ。力つきた芳樹が、完全に流され始めたからだ。
「おーい、芳樹をひろってくれえー!」
 監督は、下流の方で、ビーチボールで遊んでいた六年生たちに大声で頼んだ。芳樹は、ちょうどそちらにめがけて流されていくところのようだった。
「OK!」
 流されてきた芳樹をがっちりとつかまえてくれたのは、キャプテンの明だった。そのまま芳樹をひきずるようにして河原にあがっていった。
「だいじょうぶかあ」
 監督も、すぐにこちらに渡ってきた。
「だ、だいじょうぶです」
 河原にうずくまった芳樹は、歯をガチガチさせながら答えた。水を飲んでしまったせいか、気分が悪かった。
「だいじょうぶ?」
 気がつくと、裕香のピンクのビーチサンダルが目の前にあった。

 その晩、芳樹は寝る前におかあさんにいった。
「また、スイミングに入ってもいい?」
「えっ、どうして?」
 おかあさんは、少しびっくりしているようだった。チームに入ってからも、せめて四種目すべての泳ぎ方ができるようになるまで、もう少し続けるようにいわれていたのに、やめるっていい出したのは、芳樹の方だったからだ。そのときは、少年野球にスイミング、両方やったら遊ぶ時間がなくなってしまうと、芳樹は思ったのだ。
 でも、今はそんなことはいってられない。
「どうしてもっ!」
 そういって、芳樹はタオルケットを頭からかぶった。
 あれから、バーベキュー大会はさんざんだった。楽しみにしていたスイカ割りも、気分が悪くて寝ていたので参加できなかった。裕香や隼人たちの楽しそうなわらい声が、横になっていた芳樹にも聞こえていた。
 おなかいっぱい食べようと思っていた焼肉や焼きそばも、ほとんど食べられなかった。いつもはおいしそうなにおいが、その時はムカムカしたのだ。
「じゃあ、明日、スイミングにいってみる?」
 おかあさんは少しあきれていたようだったが、最後にそういってくれた。
「うん」
「じゃあ、ゆっくり寝るのよ」
 おかあさんはそういって、部屋の電気を消して出ていった。
 芳樹がタオルケットから顔を出すと、うす暗い闇の中に隼人の得意そうなVサインが浮かんできた。

 次の土曜日、明け方近くになって、芳樹は急に目が覚めた。
 ザザザザーッ。
雨戸に、激しく雨が降りかかる音がする。
 ガンガンガン。
雨がひさしをたたく大きな音もする。
 昨日の夕方からふり出した雨は、台風の接近とともにひどくなっているようだ。しばらく静かになったと思ったら、次の瞬間、よりいっそう激しくなる。
 あたりはまだ暗く、天井にはオレンジ色の常夜灯がぼんやりとついている。
 ピカーッ。
一瞬、あたりが明るくなった。
 次の瞬間、ガラガラガラーンと、激しくカミナリが鳴った。 
(うわーっ!)
 あわててタオルケットを頭からかぶった。
 芳樹は、小さなころからカミナリが大の苦手だ。ゴロゴロって、遠くでなっているのを聞いただけでもいやなのに、今のはかなり近かった。しかも、今日はカミナリだけでなく、台風の強い風と雨もいっしょなのだ。とても、たまったもんじゃない。
 ピカーッ。
 ……。
 ガラガラガラーン。
芳樹は、タオルケットの中で震えていた。

 その朝、芳樹は六時に目を覚ました。
「正樹、芳樹、起きる時間よ」
 部屋のドアをあけて、おかあさんがどなっている。今日は試合の予定だったから、早く起きなければならなかった。
 外では、雨はまだ激しく降り続いている。いや、むしろひどくなっているようだ。これでは、せっかく早起きしたのに、野球なんかとてもできそうにない。
「うわーっ!」
 雨戸を開けようとしたら、すごい勢いで雨がふきこんでしまった。芳樹は、あわててサッシの窓を閉めた。
「うーん」
 二段ベッドの上では、にいちゃんがまだねぼけている。芳樹と違って神経が図太いから、台風なんて関係なくぐっすり眠れたみたいだ。
「まだ雨が降ってるよ」
 芳樹が声をかけると、
「うーん、じゃあ、まだ寝てよっと」
 といったかと思ったら、またすぐに寝込んでしまった。本当にすごいやつだ。
 芳樹は、もうとても寝ていられない。しかたないので、パジャマを脱ぎ始めた。 

「うん、わかった」
 電話は良平からだった。今日の試合は、やっぱり中止だった。厚木市の大会に参加することになっていたけれど、この天気じゃもちろん無理だ。
 芳樹は、冷蔵庫の横に磁石でとめてあるチームの連絡網をとってきた。そして、それを見ながら、次の順番の隼人に電話をかけようとした。
 ルルルー。
そのとき、先に電話がなってしまった。
「もしもし」
 出てみると、五年生の拓ちゃんからだ。今度は、にいちゃんへの連絡の電話だった。
「にいちゃん、電話」
 まだベッドの中でぐずぐずしていたにいちゃんに、子機を持っていってやった。
 チームの連絡網は、上級生と下級生で別れている。試合の時などに、別々の予定になる事があるからだ。
練習試合の時は、時間を変えて下級生のBチーム同士の試合を組んでくれることが多い。
でも、今日は大会なので、試合には六年生と五年生だけが出る。芳樹たち下級生には、まるで出番がなかった。大会の時は、下級生は参加しないで居残りで練習することが多い。
ただ、芳樹と隼人だけは、いつも試合について来るように監督から頼まれていた。試合の時の芳樹と隼人の役割は、ボールボーイと一塁や三塁のベースコーチをやることだ。
ボールボーイというのは、主審の人にいつもきれいなボールを補充するのが役目だ。ファールチップなどで、ボールがバックネットへとんでいった時は、二人で争うように取りにいっている。ひろったボールは、きれいにタオルでよくふいておいた。そして、じっと試合の様子を見ている。バッターの交代とか、ファールなど、プレーが止まった時にすばやくダッシュして、審判にボールを渡しに行くのだ。主審のそばまでいって、帽子を脱いでペコリとあいさつしてからボールを渡す。
 べ-スコーチというのは、攻撃のときにコーチスボックスに立って指示を出す役目だ。
 芳樹たちがベースコーチにたった時には、一球ごとに、
「ピッチ(ピッチャーのこと)、ボールが入らないよ」
「バッチ(バッターのこと)、しっかり打っていこう」
と、大声でヤジったり、声援したりしている。
 ヒットや四球でランナーが出れば、
「リー、リー、リー」
「まわれ、まわれ」
と、上級生たちよりも大きな声で、ハキハキと指示を出していた。
「芳樹と隼人のおかげで、うちのチームは、ボールボーイとベースコーチだけは、どこのチームにも負けない」
 監督はそういって、いつも二人のことをほめてくれていた。

 がけ崩れでつぶされてしまった家が、テレビに映っていた。すごい土砂で、あたり一面グチャグチャになっている。今朝のテレビは、どこのチャンネルでも台風の被害のニュースで持ちきりだった。
「がけ崩れがあった山梨県のF村からの中継でした」
アナウンサーがレポートしている。
「山本くん、だいじょうぶかなあ」
 芳樹は、台所で朝ごはんを作っているおかあさんにたずねた。前に同じクラスだった山本くんは、F村の学校に転校していたからだ。
 山本くんは、一年生の時だけ、芳樹と同じクラスだった。学年でも飛びぬけて小柄な子で、なかなか学校になじめなくて最初から休みがちだった。そして、二年生になる時に、とうとう転校していってしまったのだ。
 それが、今年になって、ひょっこりクラスあてに写真入りの手紙が届いた。
(今はF村に山村留学しています)
って、書いてあった。そういえば、山本くんの家は、今でも近所にある。一人で山村留学するなんて、さびしくはないのだろうか。
 でも、写真の山本くんは、前と同じように小柄だったけれど、大きな木をバックに楽しそうにわらっていた。
「だいじょうぶよ。山本くんの学校も夏休みでしょ。だったら、きっとおうちに帰っているはずだから」
 おかあさんが、そういってくれた。
 テレビの画面がきりかわった。
「あっ!」
 思わず芳樹はさけんでしまった。
なんと、川の中州に取り残された人たちが映っていたのだ。キャンプをしにきていて取り残されてしまったんだという。二、三十人もいる。
 警察や消防の人たちが、けんめいに救助しようとしていた。
 ドドドドドーッ。
すごい勢いで濁った水が流れてくる。水かさがどんどんまして、立っている人たちの足元が完全に水に隠れた。
 中には子どもたちもいた。大人たちは、小さな子をかかえて水にぬれないようにしている。傘やシートをかぶって、じっとたちすくんでいた。
 救助の人たちが、ロケットのように対岸にロープを打ち込んで、助けようとしている。
 でも、中々反対側の木に引っかからないで、ロープが流されてしまっていた。
(がんばれーっ)
 芳樹は、テレビの画面に向かって声援を送った。
 ザザザザーッ。
気のせいか、家にふりつける雨も強くなったような気がした。 

 ひどい雨だった。
 ザザザザッ。
水たまりに白い波をたてて、雨はようしゃなく芳樹たちをおそってくる。上からだけでなく、前からもうしろからも横からも、雨はふりかかってきていた。強い風が吹いた瞬間などは、下からさえも雨が押し寄せてくるようだ。
 車からスーパーの入り口までは、たったの20メートルぐらいしかない。
 おかあさんとにいちゃんと一緒に、芳樹はけんめいに建物の中にかけこんだ。それでも、そのわずかの間に、三人ともすっかりビショビショになってしまった。
「すごかったわねえ」
 おかあさんはバッグの中からタオルを取り出しながら、なぜか感心したようにいっていった。
「ビショビショだあ」
 にいちゃんもすっかりぬれてしまったひざのあたりをタオルでふきながら、なんだかうれしそうにしている。
(へんな親子だなあ)
と、芳樹は横目で二人を見ながら思った。
 少し小降りになったのを見はからって、三人でスーパーに買い物にやってきた。
 でも、途中でまた雨がひどくなってしまっていた。
 スーパーの中は、台風の影響とお盆休みのせいか、すごくすいていた。係りの人たちも、いつもよりずっと少ない。おかげで、試食が食べやすかった。
 芳樹は、にいちゃんと競うようにしてスーパー中をかけまわった。マグロ、ソーセージ、焼肉など、なんでも食べ放題だった。
「はずかしいから、いいかげんにして」
 とうとう、おかあさんに叱られてしまった。
 冷蔵庫がからっぽになりかけていたので、おかあさんは山ほど買い物した。
 牛乳、卵、ひき肉、野菜、おさしみ、焼き鳥、納豆、豆腐、……。
「ねえ、アイスクリームも買ってよ」
 芳樹がそういうと、
「いいわよ。五個買うと割引だから、二人で選んできてよ」
 芳樹は、にいちゃんとアイスクリーム売り場に急いだ。
 アイスはどれも百円だったけれど、五個買うと、一個分がただになる。さんざんまよったあげく、チョココーンとあずきもなかを二つずつ、それに雪見大福を一つ買った。
 スーパーからの帰りの道では、下水溝からゴボゴボと雨水があふれ始めている。低いところには大きな水たまりができていて、通りかかった車がザーッと大きくはねかえしていた。いつもはけっこう乱暴な運転をするおかあさんも、今日だけはゆっくりと車をはしらせていた。

 翌朝は、昨日とはうってかわってすごくいい天気だった。外を見ると、まだ七時になったばかりだというのに、もうかんかん照りだ。こういうのを「台風一過」っていうんだって、テレビでアナウンサーが話している。この言葉を初めて聞いたとき、「台風一家」というやくざの組があるのかと思ったなんてくだらない冗談をいって笑っていた。
「にいちゃん、監督さんからよ」
 二人ともパジャマのままでテレビを見ていたら、おかあさんが子機をもってやってきた。
「……。はい、わかりました」
 にいちゃんは電話を切ると、おかあさんにいった。
「今日、急に試合だって。お昼のおにぎりもいるって」
「えっ、どうしたの? 今日はお休みじゃなかったの? おにぎりのごはん、あったかしら?」
 おかあさんは、少しあわてているようだった。
「うん、大会が台風で伸び伸びになっちゃってるから、どうしても今日やらないと、だめなんだって」
 にいちゃんは、そこで芳樹の方にむきなおっていった。
「そうだ、よっちゃん。お前も、絶対に連れて来いってさ」
「えーっ、なんでえ?」
 今度は、芳樹があわてる番だ。今日は、おとうさんとプールへ行く約束だった。「打倒隼人」の猛特訓をしなくっちゃ。
「なんか、人数が足りなくなるかもしれないんだって。もしかすると、お前も試合に出られるかもな」
「そんなあ」
 この間の川を横断したときの前のように、心臓がドキドキしてきた。

「ひい、ふう、みー、……」
 へんな数えかたで、監督が人数を確認している。
「……、なな、やー。あれ、へんだな。足りないなあ」
  六年と五年だけでなく、四年生や三年の芳樹や良平までが借り出されていた。
 それでも、まだ足りないみたいだ。お盆休みで、帰省したり家族旅行にいっちゃったりした人たちが、たくさんいるらしい。
 今日の試合は、厚木市主催のトーナメント。もし、人数が足りないと不戦敗になって、先に進めなくなってしまう。六年生たちは、せっかく優勝を目指してがんばっていたのに。
「いち、にー、さん、……」
 監督は、今度は普通のやり方でもう一度数え直そうとしている。
 ブブブーン。
 と、その時だ。校門から、すごいいきおいでRV車が入ってきた。
 ギギギーッ!
はげしいブレーキの音を立てて車が止まると、中からサングラスをかけた女の人がさっと飛び出してきた。隼人のママだ。そのうしろから、ダブダブのユニフォームを着た隼人も降りてきた。
「おー、来た、来た」
 監督がだきかかえるようにして、隼人をむかえている。どうやら、ニ年生の隼人までが試合に出なければならないようだ。

 芳樹は河川敷のグランドのすみに、一人でうずくまっていた。来るまでの間に、すっかり車に酔ってしまったのだ。
 すぐ目の前の堤防の向こうを、茶色くにごった水がすごい勢いで流れている。
「山の方でももう雨はやんだから、だんだん減ってくるだろう」
って、監督はいっていた。
 でも、こうして目の前で見ると、河原まであふれてきそうでこわくなってしまう。
「いくぞお」
「おうっ」
 すぐうしろでは、ほかのメンバーが声をかけあいながら、試合前のキャッチボールを始めている。
 むこうから、小さなピンクのスニーカーがかけてきた。つま先が泥で少し汚れている。
「よっちゃん、だいじょうぶ?」
 裕香だった。また、かっこ悪いところを見せてしまった。
「もう、だいじょうぶ」
 芳樹は無理して立ちあがったが、まだ少しフラフラする。
「車に酔わないおまじない、教えてあげよっか?」
 裕香は芳樹に手をかしながら、なんだかうれしそうな声を出している。
「えーとね。手のひらにまん中に、人差し指でひらがなの「の」って字を書くでしょ。そうして、そこを指で強くおすの」
 そういいながら、裕香は自分でやってみせている。
「それを、「り」と「も」と「の」でもやるの。最後に、手のひらにフーッと息を吹きかけておしまい。すごおくきくんだよ。やってあげようか?」
 裕香に、左の手のひらに「の」の字を書かれながら、
(今さらそんなのやっても、ぜんぜん遅いよ)
と、芳樹は心の中でつぶやいていた。

 芳樹は裕香からはなれると、フラフラしながらみんなのそばまで近づいていった。
「ぼくも、入れてよ」
 隼人とキャッチボールをしていた良平に声をかけた。
「うん、でも、もうだいじょうぶなのかあ?」
 良平が心配そうに聞いてくれた。
「うん、だいじょうぶ」
 芳樹はそういって、グローブをかまえた。
「いくぞ」
 隼人が、声をかける
「お、お」
 へなへなした声しか出なかった。
 隼人は、手加減なしに思いっきりボールを投げてきた。
 バチーン。
なんとか落とさずにキャッチできた。
「いくぞおっ」
 まだムカムカしている気分をふりはらうように、気合いをかけた。
「おおっ」
 隼人が元気に答える。 
 芳樹が力いっぱい投げたボールは、隼人をそれてとんでもない方向へいってしまった。

「良平、レガースを直せー!」
 ベンチで、監督がどなっている。
 見ると、良平のレガース(すねあて)がゆるんでしまっている。右と左が、それぞれそっぽを向いていた。
「タイムッ」
 審判が、良平の方にかがみこんだ。手を貸して、レガースを付け直してくれた。
「レガースをどうやってつけるのかも、知らないんだからなあ」
 監督が苦笑いしながら、隣にすわっているスコアラーに大きな声で話している。この人は、明と裕香のおとうさんだ。
 今日は、キャッチャーは、レギュラーも控えの選手もいなかった。それで、三年生ながらキャッチングがよくて肩も強い良平が抜擢されていた。もちろん、良平もAチームには初めての出場だった。
 練習投球が終わった。良平がセカンドに送球した。少し山なりだったけれど、きちんとノーバウンドで届いた。監督が見込んだことだけのことはある。
「がっちりいこーう」
 良平がみんなに声をかけた。なかなか堂にいっている。まったく初めてなのに、見よう見まねでおぼえていたのだろう。
「うーん、良平は、きたえればいいキャッチャーになりそうだな」
 ベンチで、監督が満足そうにうなずいていた。
「バッチ、こーい」
 芳樹は、やけくそ気味の大声でセンターからどなった。こっちも、もちろんAチームは初出場だ。
 内野だけは、砂を入れてなんとか整備されていた。
 でも、芳樹たち外野手の足元は、グッチャグチャだった。昨日までの雨で、すっかりぬかるんでいる。走るとすべりそうでこわかった。
 チラッとライトの方を見ると、隼人がいつになく心細そうに守っている。隼人は、五年生以下だけで組むBチームでさえ、ほとんど試合に出たことがなかった。
「ライト、もっと声を出せ」
 ファーストのキャプテンの明が、隼人に声をかける。
 それでも、隼人は固まったように声が出せなかった。
「隼人、ファイト」
 芳樹も、横から声をかけてやった。
「うん。バッチ、こーい」
 小さかったけれど、ようやく隼人からも声が出た。
「よーし」
 明が振り返って、隼人に合図した。

 大きなフライが、隼人の頭上をおそってきた。
「オーライ」
隼人は、はじかれたようにけんめいに下がっていく。
 でも、ボールは軽々とその上を超えていった。
隼人は、けんめいにボールを追いかけていく。
 と、思ったら、たちまちぬかるみに足を取られてころんでしまった。あわてて立ち上がったけれど、ユニフォームにはべっとりと泥がついていた。
 芳樹も、練習どおりに中継プレーの位置へ急いだ。
 なんとか追いついた隼人は、ボールを拾おうとしたけれど、焦っているのか何度も取りそこねている。
「隼人、こっち」
 やっとボールを取った隼人に、芳樹はグローブを差し出しながら叫んだ。
 しかし、隼人の送球は大きく右にそれてしまった。
 今度は、芳樹がけんめいにボールを追いかける。
 と、思ったら、今度は芳樹がすべってころんでしまった。芳樹のユニフォームも、泥だらけになった。
 ようやくボールに追いついた時、バッターはとっくにホームインしてしまっていた。
 相手チームのベンチは大騒ぎだ。
「ハーイ!」
ホームランを打った選手のヘルメットをたたいたりハイタッチをしたりと、まるでお祭りのようにはしゃいでいる。
「ちぇっ」
 芳樹は、やまなりのボールを内野に返した。
「ホームランになっちゃったねえ」
 ようやくそばまで戻ってきた隼人が、声をかけてきた。顔に泥がはねていて、まだらになっている。
「隼人、顔が汚れてるぞ」
 芳樹が注意してやると、隼人はユニフォームの袖口で顔をふいた。
「ドンマイ、隼人、芳樹、気にするなあ」
 向こうから、監督が大声で叫んでいる。
「ドンマイ、ドンマイ」
 ファーストの明も、振り返って声をかけてくれた。
「しまっていこーっ」
 キャッチャーの良平は、マスクをはずして大声で叫んだ。
 芳樹と隼人が守備位置について、試合が再開された。

 三回の表、八番バッターの芳樹に打順がまわってきた。
 「よっちゃーん、ホームラン」
 裕香の声が聞こえくる。
(よーしっ、絶対にうってやるぞ)
と、芳樹はかたく心にちかった。
 一球目。芳樹は思いっきりバットをふった。
 でも、とんでもない高いボールだった。みごとなからぶりで、一回転。芳樹は、いきおいあまってしりもちをついてしまった。
 観客席から、大きなわらい声が起こる。
「芳樹、いい球だけだぞ」
 監督も、苦わらいをしている。
 芳樹は、しりもちのはずみで脱げてしまったヘルメットを、拾い上げてかぶった。そして、バッターボックスに入り直した。
「よし、来い」
 芳樹は、またピッチャーをにらみつけた。
(あっ!)
 二球目は大きく内角にそれて、芳樹の左腕へ。デッドボールだ。腕にガーンと衝撃がきて、鼻の奥がツーンとした。ボールが当ったところが、すごく痛かった。涙が、猛烈な勢いでこみあげてくる。
 と、その時、
「よっちゃーん、がんばって」
 また、裕香の声が聞こえた。
「よっちゃん、ファイト」
 隼人の声もする。
 芳樹は、なんとか泣くのをがまんして、一塁へむかった。
「芳樹、だいじょうぶか」
 一塁ベースコーチをやっていた明が、芳樹の左腕に、痛み止めのスプレーをシューシューとかけながら声をかけた。チラッと観客の方を見ると、裕香が心配そうにこちらを見ていた。
「だいじょうぶです」
 芳樹はけんめいにうなずいた。
 ラストバッターの隼人が打席に入った。試合再開だ。
「リーリーリー」 
 芳樹はベースを離れて、少しリードを取った。
(いけない、サインを見るの忘れた)
 いつもランナーに出たら、監督のサインを見るようにいわれている。
 芳樹が、ベンチの監督の方を見た瞬間だった。
「芳樹、バック!」
 明の大声が聞こえた。あわててベースに戻ろうとした。
 でも、一瞬早く、一塁手にタッチされてしまった。
「アウトッ」
 審判が右手を上げて叫んだ。芳樹は、牽制球でタッチアウトにされてしまったのだ。
「あーあ」
 コーチスボックスで、明ががっかりしてためいきをついている。
 相手の一塁手は、芳樹を見ながら笑っている。
「ナイス、ケン(牽制球)」
 一塁手は、ピッチャーに声をかけながらボールを返した。 
 芳樹は、しょんぼりとベンチに引き上げていった。
「ドンマイ、ドンマイ」
 うしろから、明がはげましてくれた。
 ヘルメットをぬいで、バットをバット立てにさした。
「芳樹、サインはベースについて見るんだよ」
 ベンチにもどると、監督がやさしく声をかけてくれた。
「はい、すみませんでした」
 芳樹は監督にペコリと頭を下げて、ベンチのすみにいった。コップを持って、ジャーの蛇口をひねった。良く冷えた麦茶が、勢い良く出てきた。芳樹は一口飲んでから、グランドをながめた。
(あーあ、せっかく塁に出られたのに、また裕香ちゃんの前でかっこ悪いところを見せちゃった)
「芳樹、ちょっと、こっちにおいで」
 監督が呼んでいる。
 そばにいくと、
「ここにすわれ」
 といって、スコアラーとの間に、すわらせてくれた。
「どうだ。コーチスボックスで見ているのと、実際にやるのとは、大違いだろう?」
 芳樹がコクンとうなずくと、
「まあ、だんだんに覚えていけばいいからな。芳樹はきっといい選手になれるから」
 監督がそういって、はげましてくれた。 

 四回の守りの時だった。センターの守備位置からホームの方をながめると、遠くの方に黒雲が出ている。
(あれっ、また天気が悪くなるのかな)
と、思っていたら、その黒雲がみるみるひろがってきた。なんだか、見ているだけで、胸がドキドキなって、気分が悪くなってくる感じだ。
 この回も、どんどんランナーが出て、相手の攻撃が長くなっている。その間にも、黒雲がぐんぐん近づいてきた。
 ザザッ、ザザザザザーッ。
ようやくツーアウトを取った時、とうとう強い雨が降ってきた。あっという間に、黒雲が真上までひろがってきたのだ。
「タイムッ!」
 とうとう主審が宣言した。
「引き上げろーっ」
 監督が、大きくこちらに手招きしている。
 みんなは、一目散にベンチを目指してかけていった。芳樹も隼人とならぶようにして、全速力でベンチに向かった。
 でも、守備位置が遠くだったから、ベンチに着いたのは一番最後になってしまった。もう帽子もユニフォームも、びしょびしょだ。
 ザザザッ、ザザザッ。
すごい勢いの雨だった。グランド中を、あっという間に水浸しにしてしまった。あちこちに、大きな水たまりができている。そこに、バシャバシャと雨がはねかえっていた。
 でも、昨日の台風のときとはちがって風は強くなかったので、地面に向かってまっすぐ雨が降っている感じだ。だから、ベンチの中にいればぬれる心配はなかった。
それでも、あたりは、真っ昼間なのにすっかり薄暗くなっている。まるでもう夕方になったみたいだ。頭の上には分厚い真っ黒な雲がたちこめている。
 でも、どうやら通り雨のようだった。南の方には、もう青空が見えている。そのあたりは、お日様さえさしているようだ。すでに、かなり明るくなっていた。
 観客たちは、車ににげこんだり、本部のテントまで避難したりしていた。ベンチのそばに広げられた、ビーチパラソルの下で雨宿りしている人たちもいる。
 ふと気がつくと、大人たちにギュウギュウ詰めにされながら、裕香もビーチパラソルの下にいた。芳樹はじっとそちらを見つめていた。
(あっ!)
 芳樹が見ているのに、裕香も気づいたようだ。こちらを向いてニッコリしながら、小さくVサインを送ってきた。芳樹も、隣の隼人に気づかれないようにして、そっとVサインを送り返した。

 思ったとおりに、雨は十分もしないうちにあがった。
すぐに、強い日差しが戻ってきた。気のせいか、前よりも陽の光が強いように感じられた。あたりが、キラキラと光っている。空気が雨に洗われて、きれいになったせいかもしれない。そういえば、遠くの山々もはっきりと見えるようになった。
「じゃあ、整備してから始めますから」
 審判が、ベンチまでやってきて監督にいった。
「すみませーん、みなさん、手伝ってくださーい」
 監督が、また集まってきていた観客に頼んでいた。
 何人かのおとうさんたちが、トンボ(土をならす道具)を手にグラウンドへ走っていく。相手チームの方からも、大人の人たちが出てきた。
 審判の人たちは、ピッチャーマウンドとホームベースあたりに砂を入れている。それを、トンボでよくならしていく。
 その間、芳樹たちはファールグラウンドで軽くキャッチボールして、ウォーミングアップをしていた。
「それじゃあ、試合を再開します」
 大きな水たまりなどが整備されてから、審判が両ベンチに声をかけた。
 芳樹は隼人ならんで走りながら、センターの守備位置に戻った。

 その後も、試合は一方的に相手チームのペースで進んでいた。すでに大差をつけられていて、何点取られたのかわからないくらいだ。もしかすると、次の回あたりでコールド負けになってしまうかもしれない。
 また、四球でランナーが一塁に出てしまった。
「ピッチ、ファイトー」
 芳樹は、けんめいにピッチャーに声援を送った。芳樹のユニフォームは、さっきころんだせいで前も後ろも泥だらけだ。
「ピッチ、ファイトー」
 隼人も、ライトからまねして声をかけている。こちらのユニフォームも、負けないくらい汚れている。
 でも、隼人は、さっきまでよりも大きな声が出ていた。
「うわーっ!」
「すごーい!」
 ふと気がつくと、両チームのベンチや応援のみんなが、何か大騒ぎしている。
「よっちゃーん!」
裕香がこちらにむかって大きく手を振って、芳樹のうしろの方を指し示していた。
(なんだろう?)
 顔だけ動かして振りむくと、空いっぱいに大きな虹がかかっていた。

      

 

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オープンテスト

2020-09-07 09:25:33 | 作品

「おかあさん、ごはん、まだあ」

 今日もくたくたになるまで野球の練習があったので、正樹はおなかがペコペコだった。
 もうすぐ六年生になる春休み。本格的なシーズン開幕をひかえて、チームの練習はますます厳しさをくわえていた。
 真っ黒になったユニフォームを、洗濯機にドサッと放り込んで、風呂場に駆けこんだ。
 頭から熱いシャワーをあびると、ようやくすっきりしてきた。

 風呂場から出ると、テレビの横の電話がなりだした。
「はい」
「あっ、正樹くん」
 電話に出ると、いきなりなれなれしい感じで名前を呼ばれた。
 でも、聞き覚えのない声だ。
「はい、そうですが」
 正樹が答えると、相手の声の調子はうれしそうに甲高くなった。電話の相手は、E進学塾の人だった。隣のS市にある教室の塾長だという。
「すごーい成績でしたねえ。ノーマークだったので、びっくりしましたよ」
「えーっと、なんのことですか?」
 正樹が訳がわからずに聞き返すと、
「えっ、何って? もちろん、このあいだのオープンテストの結果ですよ」
 塾長によると、正樹の成績は信じられないくらいいいんだそうだ。全国6万7364人の中で87位。S市の教室では、二番目の好成績だそうだ。400点満点で383点。もっとも満点を取った子が、全国で7人もいたといっていたけれど。
「そうですか」
 ほめられているのだから、まんざら悪い気分はしない。
「それで、特待生の資格が得られましたから、無料で入塾できます」
 塾長は、少しあらたまった調子でいった。
「はあ?」
 全国で百位以内の子は、授業料免除だという。そういえば、テストのパンフレットにそんなことが書いてあったような気もする。
「ですから、ただで授業が受けられるのです」
 塾長は、念を押すように付け加えた。
「でも、まだ入るときめたわけじゃないし」
 正樹がそういうと、
「えー、そんなあ。せっかくの特待生の資格がもったいないですよ。今、行ってる塾の費用がいらなくなるでしょ」
 思いがけない反応に、塾長は少しあせったような声を出していた。
「べつに、どこも塾なんか行っていないし」
 正樹がそういうと、
「まさか、本当に? それで、この成績、……」
 塾長は、ますますびっくりしたようでしばらく黙っていた。
「おうちの方と、代わってもらえないかな?」
やがて、一段とていねいな口調でいった。
「はい」
 正樹は、台所のおかあさんに子機を持っていった。
「おかあさん、E進学塾の人から電話」
先ほどからけげんそうな顔でやりとりを聞いていたおかあさんは、エプロンで手をふいてから子機を受け取った。

「どうしたの、おにいちゃん?」
 玄関にいた弟の芳樹が、食堂に入ってきた。
「うん、塾から電話なんだ」
「ふーん」
「先に二人で食べてて。芳樹は手を良く洗うのよ」
 おかあさんが、受話器を手でふさぎながら小声でいった。
「はーい」
 芳樹は大声で返事して、すぐに洗面所へいった。
芳樹は、いつものように玄関でグローブをみがいていたのだ。自分の部屋は散らかし放題のくせに、野球の道具だけはすごく大事に手入れしている。すっかり色がはげてしまった正樹のとは違って、芳樹のグローブはいつでもピカピカだった。

夕ごはんを食べながら、正樹はおかあさんの様子をうがっていた。思いがけず長い電話になっている。
 でも、初めはかたかったおかあさんの表情が、だんだん笑顔に変わっていた。
 そんな正樹に引き換え、芳樹の方はまわりのことはぜんぜん気にせずに、ご飯を食べながらBS放送のプロ野球を熱心に見ている。本当に野球が好きな奴で、チームに入れるのは二年生からなのに、特別に三年前の一年生のときからチームに入れてもらっている。
 今日もボールが見えなくなるまで、家の塀にぶつけてゴロを取る練習をしていた。
 それにひきかえ、正樹がチームに入ったのは、少々不純な動機からだった。
実は、その前までかよっていたスイミングを、どうしてもやめたかったのだ。
スイミングには、一年のころからかよっているけれど、ちっとも上達しなかった。一緒に入った友達たちは、四級や五級にあがって、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライを続けて泳ぐ個人メドレーなんかをやっている。
ところが、正樹は、まだ八級で小さな子たちとポチャポチャやっていた。おまけに、そのころ教えてもらっていたコーチと相性が悪くて、怒られてばかりだった。おかげで、スイミングの日のたびに、朝から気分が悪かった。
 そこで、両親と取り引きをすることにした。スイミングをやめるかわりに、野球チームに入るってわけだ。
 そのため、チームに入ったのは、五年生になったときからだった。同学年のチームメートの中では、一番遅かった。
「正樹は、もう一年早く入っていたらなあ」
って、監督によくいわれる。そうすれば、チームの中心選手になれたというのだ。
 うちのチームでは、なるべく六年生を試合に使うようにしている。だから、正樹をなんとかレギュラーにしてやろうと、つきっきりで教えてくれるコーチもいるほどだ。
正樹は、本当は野球や水泳なんかするよりは、家で本を読んでいる方がずっと好きだ。ねっからの本の虫だった。本を読んでいると、すっかりその世界に入ってしまう。何もかもわからなくなって、時間がたつのを忘れてしまうのだった。学校の往き帰りにも本を読みながら歩いていて、近所のおじいさんに「若葉町の二宮金次郎」なんて呼ばれたこともある。

「はあ、本人とよく相談して、こちらからご連絡します」
 最後に、おかあさんは電話にお辞儀をするようにして、ようやく受話器を置いた。
「どうだったの?」
 正樹は、食卓に戻ってきたおかあさんにたずねた。
「十万人に一人の金のたまごなんだって」
 おかあさんは、電話に出る前とはうってかわって興奮気味だった。
「おそらくどこの塾にもいっていない子では、全国で一番っていってたわよ」
 そんなことをいわれても、ぜんぜんピンとこなかった。たしかに学校の成績は、算数、国語、理科、社会のすべての項目が、ぜんぶ「よくできる」だった。
 でも、他の子と成績を比較したことなんてない。だから、正樹は自分がそんなに勉強ができるとは思っていなかった。
「このまま順調にいけば、日本中のどこの私立や国立の中学を受験しても、合格まちがいなしなんですって」
 おかあさんの声は、すっかり上ずってしまっている。
 今までに、一度も受験なんてことは、家で話したことがない。それなのに、急にそんなことをいわれてもこまってしまう。
 たしかにクラスでも女の子の中には、私立を受けようとしている子がけっこういるようだ。そんな子たちは、四年生ぐらいから塾へ行っている。
 一方、正樹の学校では、受験する男の子はごく少数しかいない。
もちろん、男の子たちでも、近所の塾に通っている子はいる。でも、それは、学校の予習復習を中心としたもので、受験を目的にしているわけではない。
「特待生で費用も無料だっていうし、ためしにちょっと行ってみない?」
 おかあさんは、すっかりその気になってしまっている。
「何曜日なの?」
 うんざりした気分でたずねた。
「毎週、月、水、金の週三日ですって。もちろん、受験が近づいたらもっと増えるっていっていたけれど」
 電話しながら、いつのまにかメモを取っていたようだ。おかあさんは、それを見ながらいった。
「じゃあ、だめだ。ヤングリーブスの自主トレがあるもの」
 少しホッとした気分でそう答えた。
「でも、自主トレは別にいかなくてもいいんでしょ。週末の正式な練習や試合には、今までどおり出られるんだし」
 おかあさんはそういって、ねばってくる。
「だめだよ。自主トレっていったって、監督やコーチも来てくれるんだよ。そこで、きちんと練習しなかったら、うまくなれないんだよ」
 正樹は少し声をはりあげて、おかあさんの要求をつっぱねた。
「うーん、そうなのお」
 おかあさんは、なかなかあきらめきれないみたいだった。

 正樹がE進学塾のオープンテストを受けにいったのは、先々週の日曜日だ。たまたまその日は、監督たちの都合が悪くて、少年野球の練習が休みだった。
 同じクラスの宮ちゃんに頼まれて、正樹は一緒にテストを受けにいくことになっていた。
「マサちゃん、頼むよ。一人だけだと心細くって」
 前の日に、そう泣きつかれたのだ。宮ちゃんは、おかあさんに無理やりいかされることになってしまっていた。
「しょうがないなあ」
 無料だというので、正樹は付き添いのようにして一緒に受けに行くことになった。
 E進学塾は、駅前にある大きなビルだった。入り口のガラスのドアにも、まわりの壁にも、今年の合格者の名前がズラリと貼ってある。
 筑波大付属31名、開成54名、麻布37名、 ……。
 威勢のいい大きな数字がおどっている。
 ビルの中にもまわりにも、試験を受けに来た子どもたちと、付き添いの親たちであふれていた。
「うわーっ、すごいなあ」
 そんなみんなの熱気に、正樹たちはびっくりしてしまった。
おかげで、宮ちゃんはすっかり緊張している。
 でも、「付き添い」の正樹の方は、気楽なものだった。
 テストは、学年別にいくつもの教室に別れて行われた。
 E進学塾に通っている子たちも、参加しているようだ。教室に入ってからも、グループになって楽しそうにおしゃべりしている。
 それにひきかえ、緊張した面持ちでポツンとすわっている子たちもいる。テストだけを受けに来た子たちなのだろう。これじゃあ、宮ちゃんがビビッているのも無理はない。
 テストが始まった。問題は学校のとは違って、クイズのようなものばかりで、初めは少し面食らった。
 でも、こつがわかれば何ということはなかった。
 正樹は、問題をどんどんといていった。やっているうちに、正樹はだんだん夢中になっているのがわかった。もしかすると、正樹はこうした試験勉強にむいているのかもしれない。
けっきょく、どの科目も、制限時間前に楽々と終えることができた。
 しかし、まさかこんなにいい成績だとは思わなかった。
(宮ちゃんには秘密にしなくちゃなあ)
特待生のことを話したら、きっとすごくうらやましがるにちがいない。あまりできなかったので、おかあさんにしかられたっていっていたから。
(こんなことなら、オープンテストなんか受けなければよかったなあ)
と、正樹は思っていた。

 ヤングリーブスのメンバーが、試合前のウォーミングアップをやっている。ヤングリーブスは、正樹たちが入っている野球チームだ。
「こんちわーっ」
「よろしくお願いしまーす」
 練習試合の対戦相手、リトルダンディーズがグラウンドに現れた。
 今日の試合で、正樹は先発出場する。
 でも、守備位置はライトで打順は8番だ。俗にライパチと呼ばれる9番目のレギュラーポジションだった。昨年暮れの新チーム結成以来、かろうじてそのポジションを保っていた。
 しかし、最近は五年生の西田くんに、レギュラーの位置を激しく追い上げられている。
 Aチームの練習試合に先だって、五年生以下のBチーム同士の試合が始まった。
 ヤングリーブスのマウンド上にいるのは、弟の芳樹。まだ新四年生なのに、五年生たちを押しのけて、Bチームのエースピッチャーをまかされている。
 一球目。
四年生とは思えないような伸びのある速球が、ピシリと外角低めに決まった。
「いいぞ、芳樹。それならAでも投げられそうだぞ」
 監督の機嫌の良さそうな声が、グラウンドにひびきわたった。

 レギュラー同士によるAチームの試合が始まった。
 二回の表、正樹に最初の打席がまわってきていた。
 リトルダンディーズのピッチャーが、三球目を投げ込んできた。
 どまん中の直球。
 でも、思わず見送ってしまった。
「ストライーック」
 カウントは2ストライク、1ボール。早くも追い込まれてしまった。
「なんで、打っていかないんだ」
 ベンチでは、監督がこわい顔をしてどなっている。
そして、
(積極的に打っていけ)
のサインが出た。
 正樹は、
(わかった)
の合図に、ヘルメットをコツンとたたいた。
 ピッチャーはすばやく次の球を投げ込んできた。
 力いっぱいスウィング。
 でも、ボールはとんでもなく高い球だった。
 からぶりの三振。そのはずみに、バランスをくずしてしりもちをついてしまった。ヘルメットまで大きくふっとんで、コロコロころがっていく。
 両チームのベンチや観客の間から、小さな笑い声が起きた。
「マサ、おまえなあ。見送るのと打つ球が逆なんだよ。これじゃあ、レギュラーあぶないぞ」
 すごすごとベンチに引き上げていくと、監督はあきれたような声をだしていた。

「公立中学に進むと、その後がけっこう大変なんですってよ」
 塾の説明会から帰ったおかあさんは、興奮気味に話し出した。聞くだけでもと思って、正樹に内緒で行ってきたようだ。今日は、よそゆきの服を着て、きれいにお化粧している。
 おかあさんは、山ほどもらってきた資料を前に、熱心に特待生になることをすすめはじめた。および腰だったこの前とは、ぜんぜんいきおいが違う。どうやら、塾ですっかり洗脳されてしまったようだ。
「野球があるから、最後のキャロル杯が終わる11月までは無理だよ」
「でも、最初は平日だけでいいんですってよ。マサちゃんなら、シーズンが終わってからラストスパートしてもだいじょうぶだって。麻布でも、開成でも、日本中の好きな中学に入れるのよ」
「だって、そうしたら自主トレには出られなくなるじゃない」
「でも、自主トレは別にいかなくてもいいんでしょ。正式な練習や試合にはでられるんだし」
(ぜんぜんわかってないなあ)
と、正樹は思った。 
 ヤングリーブスでは、平日は子どもたちだけで「自主トレ」をやっている。
 でも、ランニングやキャッチボールが終わる五時すぎからは、監督やコーチたちも交替に仕事を早く済ませて顔を出してくれていた。そして、ノックやフリーバッティングを、みっちりとやってくれるのだ。
 練習場所にしている校庭にはナイター設備はないので、暗くなってからは校舎よりにみんなが集まった。職員室からもれてくる光をたよりに、ベースランニングやすぶりをじっくりと見てもらえるのだ。
 週末には大会や練習試合が多いので、基本練習をみっちりとやる場はここしかない。塾へ通うようになると、その自主トレに参加できなくなる。今でもあぶないレギュラーの座は、完全にあきらめなければならなくなるだろう。
 いくらおかあさんに塾をすすめられても、正樹はとうとう最後まで、
「うん」
と、いわなかった。

 その日の夕食の時だった。
「バッティングセンターに行きたいんだけど」
 正樹は、ためらいがちにおとうさんにいった。
「えっ、今から?」
 おとうさんはしばらく迷っているようだったが、
「よし、わかった」
というと、すでにテーブルに出してあった缶ビールを冷蔵庫に戻した。車を運転するためだ。
 今日は、おとうさんも昼間の試合を見に来ていた。だから、三振の次の打席で、チャンスに代打を出されてしまったのを覚えていてくれたらしい。代わって打席に立った西田くんは、三塁線を痛烈に破るタイムリーツーベースをはなっていた。
「ぼくも行く」
 アニメを見ていた芳樹が、すぐに割り込んできた。
「よっちゃんは今日はいいよ」
 おとうさんがあわててそういうと、
「おにいちゃんばっかなんて、そんなのずるいよ」
と、ふくれっつらをした。 
「ちぇっ、しょうがないなあ。また、おとうさんのこづかいがぜんぶふっとんじゃう」
 おとうさんは、あきらめ顔だった。
 夕食を食べ終わってから、すぐにおとうさんの運転でバッティングセンターに向かった。自転車だとすごく時間がかかるけれど、車で行けば十分もかからない。
 ここのバッティングセンターには、高尾バッティングスタジアムなんて、大げさな名前がついている。
 でも、本当は、六打席しかないおんぼろのバッティングセンターだ。左利きの正樹が使える左右両打席があるマシンは、たったひとつしかない。
 ここのバッティングセンターは、コイン式で一個三百円だ。一回に打てるのは約二十五球。どんどんボールがくるから、五分もしないで終わってしまう。二人でやったら、すぐに五千円ぐらいは飛んでしまうことになる。
「いらっしゃいませ」
 正樹たちが中に入っていくと、スピーカーから声がした。一番奥の小さな小屋に、整髪料でテカテカした髪の毛をオールバックにしているおじさんがいて、いつも小さなテレビを見ていた。
 おとうさんは、そのそばにある両替機にいってコインを買っている。
 先に来ていたお客さんは、三人しかいなかった。
 カキーン。
 カキーン。
 みんな気持ちよさそうにボールを打っている。
(ラッキー!)
 左打席のあるマシンは、ちょうどあいていた。正樹は、かさ立てに無造作につっこんであるたくさんの金属バットの中から自分にあった長さのバットを選んで、ネットをくぐって打席に入った。
「入れるよ」
 外のコイン挿入口のところで、おとうさんが声をかけた。
「いいよ」
 正樹は、バットをかまえてマシンにむかった。
 その日、芳樹は四、五回で飽きてしまってやめていたけれど、正樹は十回も打たしてもらった。
 しかし、それでもバッティングの調子は、とうとうあがってこなかった。

 特待生への説明会は、成績優秀者の表彰という名目で行われた。
 当日、E進学塾の塾長室に来ていたのは、正樹ともう一人。浅黒い顔をした背の高い男の子だった。特待生になるような秀才というよりは、サッカーアニメのキャプテンのようなスポーツマンタイプの子だ。
 でも、その成績はなんと400点満点。つまり全国トップの七人のうちの一人だったのだ。
 やせて背の高いめがねをかけた塾長から、二人は表彰状と小さな盾をもらった。
 正樹の盾には、
(石川正樹、全国87位)
と、金文字で彫り込まれている。
「それでは、入っていただけるかどうかは後でお聞きするとして、まず教室にご案内します」
 塾長について、二人は教室に向かった。
 この塾では、6年生はSS、S、A、B、C、D、E、Fと、8クラスもあった。もちろん成績別だ。教室の入り口には、そこの生徒が合格可能な私立中学の名前がはってある。
 でも、F組だけには何もはってなかった。
「F組、英語でFalse、つまり落第組です。3ヶ月続けてこのクラスになると、自動的に退会してもらいます」
 塾長は、ニコリともしないでそう説明した。
「でも、お二人にはまったく関係ありませんけどね」
 正樹が表情をかたくしたのに気づくと、塾長はあわてたように付け加えた。トップの子は、そんな二人を面白そうにニヤニヤして見ている。
(筑波大付属、学芸大付属、麻布、開成、……)
 SS組の入り口には、正樹でも聞いたことがあるような有名中学の名前がはってあった。
 塾長がドアを開くと、十数人いた生徒のうち数人がこちらを振り向いた。
 でも、すぐにまた熱心にノートに何かを書き込みはじめた。どうやら、算数の演習問題かなにかをやっているようだ。
「席は成績順に前の真ん中から並べてあります」
 塾長が声をひそめて説明した。
 最前列の真ん中に、ひとつだけ誰もすわっていない立派な席が設けてある。ひじかけのついた皮ばりの、まるで王様がすわるような椅子だ。
「あれが、特待生の席です。リクライニングにもできるんですよ。背もたれの上の部分には、名札を入れるようになっています。だから、あの席にはその名前の人だけしかすわれません。あそこにすわることを目標に、みんなががんばっているのです」
 特待生席にすわったら、
(まるでパンダか何かの見世物になったようで落ち着かないだろうな)
と、正樹は思った。
「今までは、この教室ではいつも一人いるかいないかだったのです。まさか同時に二人も出るなんて、とても名誉なことです。もうひとつの椅子は、すぐに用意させていますから」
 塾長はうれしそうにそう付け加えた。
 事務室まで戻ると、塾長はロッカーから黄色いジャケットを取り出してきた。胸には獅子をかたどった塾のエンブレムがついている。
「塾に来ている間は、このイエロージャケットを着てもらいます」
 塾長は、自慢そうにこちらにジャケットをさしだした。
「えーっ!」
 正樹はびっくりして、思わず声を出してしまった。
(ますます、客寄せパンダだ)
 でも、トップの子は、すでに知っていたのか、まったく平気な顔をしている。塾長からジャケットを受け取ると、あっさりとそでをとおした。まるであつらえたように、ジャケットはトップの子にぴったりだった。きっと正樹だと、かなりブカブカに違いない。
「似合いますねえ」
 塾長が、うれしそうな声を出した。
「これも、すぐにもう一着取り寄せますから」
「夏でも、これを着なくてはいけないんですか?」
(暑苦しそうだな)
と、思ったのだ。
塾長はまさかという顔をして、
「夏用には、ちゃんとエンブレムの着いた黄色いポロシャツも用意してありますよ」
と、正樹が入塾に傾いてきたとでも思ったのか、うれしそうに答えた。
「ただし、みなさんは、毎回、特に出席なさらなくてもいいんです」
 塾長が、奇妙なことをいいだした。
 正樹がけげんそうな顔をしていると、塾長は特待生の条件について説明した。
 要は、条件はたった一つ。それは、毎月の終わりにテストを受けること。そして、E進学塾全体で、今回のように百番以内にとどまっていることだけだ。
 でも、 これは、けっこうきつい条件だった。
 E進学塾は、全国に100教室以上あって、生徒は何万人もいる。それに、どうしても、都会の教室の方が生徒も多く、レベルも高いからだ。
 しかも、いつもオープンテストになっている。だから、今回の正樹のように、外部から受ける子もいた。そういえば、このトップの子も、塾生ではないようだ。
「もし、百位以下に落ちたら?」
 その子が初めて口を開いた。
「それは、あらためて普通の生徒になってもらいます」
 塾長は、当然という感じで答えていた。
 でも、トップの子は平然としてまたニヤニヤしていた。
(さすがに一番の子は余裕があるなあ)
と、正樹は思った。
 すべての説明が終わって、塾長は玄関まで二人を送ってきた。
「こんちわあ」
「ちわー」
 通ってくる塾生たちが塾長にあいさつしながら、チラチラとこちらに視線を送ってくる。どうやら二人が特待生だと、気づいているみたいだ。
「ところで、日当はいくらですか?」
 突然、トップの子がいった。
(日当?)
 びっくりしてトップの子の顔をみつめた。
 でも、塾長は、特に驚いたようでもないようだ。ただまわりの人たちに聞こえないように、声をひそめて答えた。
「本当はご両親にお話するのですが、原則としてひとつの講義あたり千円でお願いしています」
 どうやら、出席するだけで特待生にお金をくれるらしいのだ。
(一講義あたり千円だって?)
 一日に二講義あるから、両方出れば二千円。週三回行ったとしたら、
(フエー、六千円にもなってしまう。)
 そんなお金があれば好きなだけバッティングセンターへ行けるなと、頭の中でチラッと思った。
「S進学教室は、お祝い金が五万円で、日当は三千円でしたよ」
 トップの子は、ニコリともしないでいった。
「えっ、……、まあ、……。じゃあ、その件は、後ほど個別にお話しましょう。私もそれまでに本部と相談しておきますから」
 塾長は急にあせった表情を浮かべて、正樹の様子をうかがいながら答えた。
(ははあ)
 もしかすると、トップの子だけ日当を上増しにしようというのかもしれない。
 でも、正樹はそのままだまっていた。まだ塾に入るかどうかは決めていなかったので、トップの子が日当をいくらもらおうが、正樹には関係なかったからだ。
「それじゃあ、今日はご苦労様でした」
 塾長は、二人に向かって頭を下げた。
「どうもありがとうございました」
 正樹も、ペコリとおじぎをした。
 でも、トップの子はさっさと先に歩き出していた。正樹は、トップの子と少し距離をとって、駅に向かって歩き出した。

 トゥルルルー。
 発車をつげる電子音が鳴っている。正樹はけんめいに階段を駆け上がった。
 プシューッ。
 惜しくも目の前でドアがしまってしまった。ライトイエローの車体が、正樹を取り残して走り出していく。
「やあ、残念だったね」
 振り向くと、あのトップの子がいた。反対方向の電車を待っているようだ。
「うーん、次は十分後かあ」
 電光掲示板を見ながらいった。
「ところで、どうするの? Eに入るの?」
 トップの子がたずねてきた。
「どうしようかなあと、迷っているんだ。少年野球の練習とも重なっちゃうし」
 正樹は、正直に自分の気持ちを話した。
「なーんだ、そんなの。籍だけ置いておけばいいんだよ。行かれる時に顔を出すだけで、けっこういいこづかいになるし」
 トップの子は、ケロリとした顔でそんなことをいってのけた。
「そんなあ」
 正樹は、すっかりびっくりしてしまった。
「俺なんか、Sだろ、Zだろ。それにTでも特待やってるし。Eで四つ目だぜ。ぜんぶあわせれば、月に10万円はかたいな」
「すげえ。それじゃあ、まるでプロみたいじゃない」
 正樹が驚いていうと、 
「そう、おれはプロの受験生なんだよ。野球だって、サッカーだって同じじゃないか。特技を生かすのがなんで悪いんだよ。それに塾の方じゃ、合格実績を伸ばして、それを目玉に普通の生徒をたくさん集めたいだけなんだから」
 確かにあのクイズのような問題で競うのなら、勉強というよりはゲームに近い。だったら、いってみれば特殊技能を競い合わせているだけなのかもしれない。
「塾の入り口に有名中の合格者数がはってあったろ。あれ、全部の塾で発表している数を足してみな。実際の合格者数よりずっと多くなるから。みんな、おれみたいなかけ持ちの特待生がいるからさ」
「えーっ?!」
 それじゃ、まるで詐欺みたいだ。
 ちょうどその時、反対側のホームに電車が滑り込んできた。
「じゃあな。君ももっと気楽に考えて、まずはお金をもらっておいて、嫌になったらその時やめればいいじゃない」
 トップの子はそういうと、さっさと電車に乗り込んでしまった。

 いよいよ市の春季大会が、明日にせまった。ヤングリーブスのメンバーは、試合の備えて最後の調整に余念がない。
 外野と内野に別れて、守備練習をしていた。正樹は他の外野手にまじって、校舎側で監督がノックするフライを受けていた。
「オーライ」
 センターの良平ががっちりと打球をキャッチした。
 次は、正樹の番だ。
 カーン。
 フラフラっと、当たりそこねのフライが前方にあがった。正樹は、帽子を飛ばしてけんめいに前進した。
 追いついたと思った瞬間、ポロリとボールを落としてしまった。これで、今日は三度目の落球だ。
「何やってんだ、マサは。いつも一歩目が遅いんだよ。だから取る時に余裕がないんだ。注意されてることを、どこで聞いてるんだあ」
 カーン。
 次の打球は、左側へ切れていくむずかしいフライだった。
 でも、西田くんはすばやくまわり込んでナイスキャッチ。
「いいぞ、ニシ」
 監督が機嫌良さそうな声でいった。
 シートバッティングが始まった。レギュラーから、打順どおりに打っていく練習だ。
 1番、良平、2番、……。
 さすがに3番の康太や4番の祐介は、いいあたりのライナーを連発している。祐介の打球が、ライトを守っている正樹の頭上を軽々と超えていった。
「あぶないから追うなあ!」
 監督が大声で叫んだ。正樹は追いかけるのを途中であきらめた。ボールは校庭の端のフェンスを超えて、学校の自然観察林へ入ってしまった。
 正樹は、打順どおりの八番目にバッターボックスに入った。
「おねがいしまーす」
 ヘルメットをぬいで、バッティング投手をやっている監督にペコリと頭を下げた。
 1球目、2球目、……。
 なかなかいいあたりが出ない。空振りやファールチップばかりだ。たまに前に飛んでも、ボテボテのピッチャーゴロや内野へのポップフライ。
「ラストスリー!」
 しびれを切らした監督が、早めに切り上げようとした。
 でも、最後の3球が終わっても、いいあたりはでなかった。
「ありがとうございました」
 ラストボールを空振りして、バッターボックスをはずそうとした。
「マサ、いいのか?」
「えっ?」
「お前は、ほんとにねばりがないんだなあ。素直に人のいうことばかり聞いてちゃ、だめなんだよ」
 監督が、苦笑いしながらこちらを見ている。
「もう一球、お願いします!」
 正樹は、大声で叫んだ。
「よーし」
 でも、次の球もボテボテのゴロ。
「もう一球!」
 カーン。
 ようやくライナー性の当たりが、内野の頭を超していった。
「ありがとうございました」
 またヘルメットをぬいで監督にあいさつすると、ライトの守備位置に戻っていった。
 次は9番の健太。
 健太のバッティングは、正樹よりはだいぶましだ。
 それに続いて、補欠の一番手、西田くんがバッターボックスに入った。
 カーーン。
 西田くんは、今日も鋭い打球を連発していた。

「今から、今日のオーダーを発表する。1番ショート、良平、……」
 監督が、メンバー表をゆっくりとよみあげはじめた。ヤングリーブスのメンバーは、そのまわりに円陣をつくってこしをおろしている。
 日曜日の早朝練習でのミーティング。いよいよ今日から、市の少年野球大会、春季トーナメントが始まる。
「……、8番、ライト、ニシ」
 みんなが、一瞬、
(オヤッ?)
という感じの表情になった。
「9番、セカンド、ケンタ。以上のメンバーでいく」
 メンバー表をよみおわると、監督はグルリとみんなの顔をみまわした。レギュラーにえらばれた選手たちは、無言で小さくうなずいている。他のみんなも、公式試合にむけての緊張感が高まってきていた。 
 その中で、正樹だけは、自分のまわりがポッカリとその雰囲気からとりのこされてしまったように感じていた。
発表された先発メンバーの中に、正樹の名前はなかった。とうとうレギュラーポジションのライトを、西田くんに取られてしまったのだ。
 一度負けてしまえばそれっきりのトーナメント戦。練習試合とは違って、ベストメンバーでのぞまなければならない。実力があれば、六年生だろうが、五年生だろうが、区別はできなかった。たとえその結果、六年生で正樹だけがレギュラー落ちしたとしても。
「他のみんなも、どんどん途中から出すからな」
 監督は、正樹の方を見るようにしてそう付け加えた。

「ベンチ前!」
 キャプテンの祐介の声とともに、みんなが一列になった。正樹はいつものレギュラーの位置からはずれて、はじの方に並んだ。正樹の位置には、西田くんがはりきってならんでいる。
「集合!」
 両チームのメンバーが、ダッシュでホームプレートをはさんで整列していく。
「おねがいしまーす」
 審判の号令に合わせたあいさつで、一回戦の試合が始まった。
 後攻のヤングリーブスが、守備位置にちっていく。いつもの正樹のポジションであるライトへは、西田くんがかけていった。
「しまっていこうぜ」
 マウンドでは、キャプテンの祐介がうしろを振り返って、みんなに大声を出している。
「がっちりいこー!」
 正樹は他の下級生たちと一緒に、ベンチから声援をおくった。
 芳樹もすぐそばにいる。メンバー発表の時に、チラッとだけこちらを見たけれど、それきりで何もいってこなかった。
 でも、ふがいない兄貴のことを、恥ずかしく思っているかもしれない。
(やっぱり野球なんかもうやめてしまって、どこかの塾の特待生にでもなろうかなあ?)
 そうすれば、あの塾長がいっていたように、開成でも、麻布でも、どこでも好きな中学に入れるかもしれない。
(ぼくは、野球よりも勉強の方が向いているのかなあ?)
 チームに声援を送りながら、正樹はそんなことをぼんやり考えていた。

ライナー性のあたりが、右前方に飛んできた。正樹は、けんめいにボールに飛びついた。
 でも、グラブを出すのが遅れて大きくはじいてしまった。
「正樹、上体をあんまり突っ込むな。あわてなくても間に合うから」
 ノックしてくれたおとうさんがいった。
「もう一回」
 ボールを返しながら、大声で叫んだ。
 今度は、正面に高いフライが来た。これは、がっちりとキャッチできた。すばやく中継の芳樹に送球。
 ところが、送球が左に大きくそれてしまった。芳樹のグラブをかすめるようにして、ボールは公園の外まで飛び出していった。
「力が入り過ぎなんだよ。こんな近くでそんな投げ方するなよ」
 芳樹はブツブツ文句をいいながら、ボールをひろいにいっている。
「ごめん、ごめん」
 正樹は、もう一度スローイングのフォームを確認しながら、芳樹にあやまった。
 今日から学校へ行く前に、近所の公園で、おとうさんに頼んで守備の特訓をしてもらうことになった。
 昨日の試合では接戦での勝利だったせいか、とうとう正樹には出番が来なかった。せめて守備だけでも監督の信頼を勝ち得て、なんとか試合に出たかった。
 特訓は、毎朝7時30分から、登校班が集合する7時50分までやることになっている。そのために、おかあさんにも7時15分までには朝食を準備してくれるように頼んであった。
 キャッチボールからはじめて、途中からはゴロやフライのノックもしてもらった。 
 例によって、練習には芳樹もいっしょについてきていた。キャッチボールの相手やノックの中継役をやってくれている。
「おーい、みんなあ、時間よお」
 公園の外から、おかあさんが声をかけてきた。
「よし、今日はここまでにしよう」
 おとうさんは、バットをクルクルまわしながら歩き出した。
「ほい」
 おいついてきた芳樹が、ボールをこちらにトスしてきた。
「ほい」
 正樹が投げ返す。
「ほい」
 芳樹が、またボールを戻す。
 二人で軽くボールを投げ合いながら、家に戻り始めた。

「いーち」
 ブン。
「にーい」
 ブン
 夕方、家の前で、正樹は、芳樹と二人で、バットの素振りをやっていた。これも、毎日100回以上はやろうと決めていた。
 こんな時、いっしょにやれる弟がいると何かと便利だ。一人だとなまけそうになるけれど、二人だとはげましあってできる。おまけに、芳樹はもともと正樹よりも熱心なのだ。こんなかっこうの練習相手はいない。
「じゅーう」
 ブン。
「じゅーいち」
 ブン。
 良く見てみると、芳樹のスウィングは正樹よりも鋭い。コンパクトなフォームから、なめらかにバットが出ている。
 それにくらべて、正樹のスウィングはぶれが大きい。テークバックが大きすぎるのかもしれない。正樹は意識して、フォームをコンパクトにするようにこころがけた。
「じゅーご」
 ブン。
「じゅーろく」
 ブン。
 だんだんスウィングが、なめらかになっていく。これも、芳樹と一緒に素振りをしているおかげだ。
「マサちゃん」
 うしろから声をかけてきたのは、宮ちゃんだった。ショルダーバックをななめにしょって、自転車にまたがっている。
「やあ、どこに行くの?」
 素振りの手をとめて振り返った。
 でも、芳樹はそのまま同じペースで続けている。
「E進学塾。やっぱり、おかあさんが入りなさいって」
「ふーん」
「でも、下から二番目のE組だから、よっぽどがんばんないと志望校の合格はむずかしいけどね。マサちゃんは、オープンテストの成績がよかったんだろ?」
「うん、まあ、……」
 特待生のことは、宮ちゃんには内緒にしてあった。
「じゃあ、遅れちゃうから」
 宮ちゃんはそういって、自転車で走り出した。
「にじゅーご」
 ブン。
「にじゅーろく」
 ブン。
 正樹は遠ざかっていく宮ちゃんを見送りながら、また芳樹との素振りを始めた。

 ルルルー、……、ルルルー、……。
「はい、E進学塾S教室ですが」
「あのー、石川正樹っていいますが、塾長先生をお願いします」
 タララララー、ララララー、……。
 電話の切り替えの間、ディズニーランドのイッツ・ア・スモール・ワールドのメロディーが流れてきた。
「あっ、正樹くん、決めてくれたの?」
 いきなりうれしそうな塾長の声がした。
「あのー、実は、……」
 さんざん迷った末に、特待生を断ることに決めたのだった。
 昨日の夜、正樹はそのことを、両親に話した。
「やっぱり塾へ行くのはやめるよ。今は、ヤングリーブスに集中したいんだ」
 正樹がそういったら、
「そうか。そうだよな。中途半端になっちゃうからな」
 正樹にレギュラーを取り戻させたいと思っているおとうさんは、すぐに賛成してくれた。
「うーん、もったいないような気もするけれど、……」
 おかあさんの方は、最後まで未練たっぷりだった。
「まさか、S進学教室に行くんじゃないですよね。日当が不満なら、一日三千円までならなんとかしますから。それにお祝い金も、……」
 E進学塾に入らないことを聞いて、塾長はあわてて話だした。
「いえ、そういうことではなくて、今やっている少年野球の練習に専念したいからなんです。そのためには、……」
 塾長の説明をさえぎるように、理由を話し出した。
「少年野球って、シーズンはいつまでなの?」
 他の塾へはいかないとわかって、塾長は少し落ち着いたようだ。
「11月いっぱいです。それからは、新チームに引き継がれますから」
「そうか、それならそれからでもいいですから、うちへ来てくださいよ。君ならそれから始めても、国立や開成は無理だとしても、桐朋や早実なら十分いけますから」
「でも、私立を受けるつもりもありませんし」
 小学校を卒業したら、地元の公立中学で野球を続けるつもりだった。
「そうですかあ。いやあ、もったいないなあ。でも、いつでもいいですから、もし気が変わったら電話くださいね」
 塾長は、最後まであきらめきれない様子だった。

 次の日曜日。トーナメントの二回戦が行われた。
 ヤングリーブスは、先週の一回戦を6対5で勝って、ここにこまを進めていた。接戦だったせいもあって、先週はとうとう正樹の出番はなかった。
 今日も、とうぜんのように西田くんが先発だった。西田くんは、先週の試合でも二安打をはなち、好調を保っている。
正樹は、今日もベンチで控えにまわっていた。
 でも、今日は、正樹は積極的に応援していた。
「バッチ、しっかり打っていこう」
「ピッチ、おちついていこう」
 ベンチにすわっていても、一番声を出していた。攻撃の時には、自ら進んで一塁や三塁のランナーコーチもかってでた。
「まわれ、まわれ」
 右手をグルグルまわして、ランナーに合図を送る。
「バック!」
 ピッチャーのフォームを見ていて、牽制球の時にランナーへ大声で指示を出す。塾を正式にことわって、すっかりふっきれた気分だった。
「マサ、行くぞ」
 6回の守備の時に監督がいった。
「ニシ、交替だ」
 守備位置にむかいかけていた西田くんが、くやしそうな表情をうかべてもどってきた。
 あわててベンチからグラブを拾い上げると、ライトにむかって走り出した。ようやく、毎朝の特訓の成果を示すチャンスがやってきた。
 あれからは、一日もかかさずに守備練習を続けている。芳樹との素振りもだんだん数が増えて、てのひらにはマメができて固くなっていた。
 今日の二回戦は、先週と違って6対1と大量リードしている。打順も、西田くんが打ち終わったばかりだった。最終回に、正樹まで打席がまわってくることはないだろう。もしかすると、これは監督の温情での出場なのかもしれない。
 でも、そんなことはどうでもいい。
 お情けだろうがなんだろうが、なんとかこの機会を生かしたい。
(ライトに打球が飛んでこないかなあ)
 正樹は、守備位置で心からそう願っていた。こんな気持ちになったのは、試合に出るようになってから初めてのことだ。今までは、逆に自分のところに打球が飛んでこないことを祈っていたのだ。
「バッチ、こーい」
 大きくかけ声をかけながら、いつのまにか、前よりも野球が好きになっている自分に気づいていた。

 

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ネットカフェにも朝は来る

2020-09-06 17:13:50 | 作品

 駅前のネットカフェは、朝早くからかなり騒々しい。終電を逃してネットカフェに泊まったお客たちが、始発が走り出す時間になると帰り支度を始めるからだ。

「うーん、…」
 明日美は、狭いブースの中で寝返りをうった。今日も、朝の騒音で彼女の浅い眠りは覚まされてしまった。言ってみれば、彼女にとってのこの騒音は、最低のモーニングコールといったところだ。
 彼女が寝ていたのは、もちろんベッドではない。個室ブース備え付けのリクライニングチェアで、寝ていたのだ。毎晩、特に週末は、泊りの客がたくさんいるので、この店のリクライニングチェアは、飛行機のファーストクラスの席みたいなフルフラットとまではいかないが、かなり後ろに倒せた。だから、明日美は身体を丸めて横になることができるのだ。
でも、彼女は十四歳にしては体が大きい方なので、ここのチェアは少し狭かった。
 こうして、いつもの浅い眠りは次第に終わりを告げて、今日も明日美の長い一日が始まる。夢ばかり見ていたせいか、長時間寝たのに明日美の頭はぼんやりとしたままだった。
 ブースの広さは、たたみ一畳ぐらいしかない。
備品は、テレビチューナー付きパソコンを載せたテーブルとリクライニングチェアがあるだけだ。ただ、明日美は長期滞在者なので、身の回りの品もブースのしきりのまわりに置いている。といっても、ボストンバックとデイバックがひとつずつあるだけだったけれど。彼女の持ち物は他の長期滞在者の人たちと比べて少ない方だから、そんなにギチギチではなかった。

 ブースのドアが軽くノックされた。
 明日美がドアの鍵を開けると、両そでが擦り切れたダウンベストを着た姉の今日香が顔をのぞかせた。マスクをしてサングラスもかけているので表情はよくわからないが、今日香もよく眠れなかったに違いない。彼女も、少し離れた奥の方のブースで夜を過ごしたのだ。
 今日香は、四つ年上の十八歳だ。でも、明日美より小柄だし、まったく化粧っ気がないので、ずっと幼く見える。安っぽいサングラスは、年相応に見せるための精一杯の扮装だった。
「おはよう」
 明日美が声をかけると、
「眠いね」
 今日香はボソッと答えた。
「うん、いくら寝ても寝足りないみたい」
 明日香が答えると、
「まあ、ここじゃあ、しかたないけど」
「うん」
「じゃあ、行ってくるね」
 今日香は片手を軽く上げて、すぐに姿を消した。こんな早朝から、近くのコンビニでバイトなのだ。中卒の今日香が、やっと見つけた仕事だった。これから夕方まで、十時間以上も働かねばならない。

明日美ももう起きることにしたが、今日香と違って外出するわけではないので、着替える必要はない。一日中、いや一年中、上下のスウェットのままだった。
 明日美は、色違いの同じようなスウェットの上下を二着持っていて、一週間交代で着替えている。一週間着たスウェットは、下着などと一緒に近所のコインランドリーで洗濯していた。どちらのスウェットも、もう長い間着ているのですっかり色落ちしている。
 でも、今日香以外の誰に見せるわけではないので、全然気にならなかった。さすがに穴があいたら新しいスウェットを買おうとは思っていたが、よっぽど丈夫な素材でできているのか、まだまだ大丈夫そうだった。
ネットカフェの中は、一年中エアコンで快適な温度にコントロールされていた。だから、明日美が持ち込んでいる衣服は、今日香と比べても驚くほど少なかった。
 明日実のブースの前を、人が歩いていく音が聞こえてきた。
でも、誰もブースの中には入ってこられないから安心だった。このネットカフェでは、明日美たちのような長期滞在者のブースは鍵がかけられる。フロントにキーを預ければ、いつでも外出できた。
もっとも、明日実が外出するのは、ネットカフェの入っているビルから50メートル先にあるコインランドリーだけだった。明日美の方がはるかに時間の余裕があるので、いつも今日香の分も一緒に洗濯をしてあげている。
そんな、一週間に一度の外出の時も、コインランドリーの洗濯機をセットすると、明日実は急いでネットカフェの自分のブースを戻っていた。誰か知っている人に会うのも怖かったし、古ぼけたスウェット姿を人に見られるのも嫌だった。とても、コインランドリーの中で出来上がりを待っていられなかった。

「あーあ」
 明日美は、大きく伸びをしながらチェアから立ち上がった。同じ姿勢を長時間保っていたので、体の節々が痛い。明日美は、昼夜逆転しないように、日中はなるべく起きていて、夜は11時には寝るようにしている。
すぐにブースを出て、眠気覚ましのコーヒーを飲みに、店内のドリンクバーへ向かった。迷路のように何度も曲がりくねった細い通路を歩いていくと、両側には細かく仕切られたブースが続いている。こんなに狭いところにたくさんの人がいて、もし火事でも起こったら逃げられるのだろうかと、初めのころはビクビクしていた。
でも、長く暮らしていると、いまさらそんな心配をしても仕方がないので、それ以上は考えないことにしている。
 ドリンクバーには、明日美たちと同様にこのネットカフェで寝起きしている住人たちが、すでに集まってきていた。長く居るメンバーたちは、すっかり顔を覚えてしまっていた。
 でも、お互いにあいさつを交わしたりはしない。まったくの没交渉だった。へたに仲良くなってプライベートな事を聞かれるのは嫌だった。
 ここのドリンクバーには、エスプレッソマシンの他に、コーラやジュースなどのソフトドリンクの機械や、ソフトクリームマシンまでがあった。前にはコーンスープや味噌汁もあったのだが、残念ながら機械が変わってからはなくなってしまっていた。
 明日美は、いつものようにホットカプチーノのボタンを押した。
 プシューと勢いよく水蒸気を吐き出しながら、褐色のコーヒーと乳白色のミルクがカップに注がれていく。
 明日美は、さらに備え付けのミルクと砂糖をたっぷり入れて、甘い甘いカプチーノを作る。
 これだけが、毎日の明日美の朝食だった。

実は、明日美たちの母親も、この同じネットカフェにいた。
 二人が幼いころに離婚した母親は、病院の看護助手の仕事をして、一人で二人の娘たちを育てていた。三年前までは、狭いながらも普通のアパートで、母娘三人で暮らしていたのだ。
 そのころ、明日実はまだ小学生で、普通に学校へ通う日々だった。
 もともと引っ込み思案なところがある彼女は、クラスではまったく目立たない存在だった。
 それでも、学校の往き帰りにおしゃべりしたり、時には放課後や休日に一緒に遊んだりできる友達も何人かはいた。
 姉の今日香は中学生で、成績はそれほど良くなかったし、経済的な理由で塾へも通えなかったが、地元の公立高校を目指して勉強をしていた。
 明日実も、漠然とだったが、将来は姉と同じような道を進むのだと思っていた。
 そう、彼女たち三人の家庭は、どこにでもありそうな普通の家族だったのだ。
 母親の仕事は夜勤も含む不規則なものだったので、姉妹は幼いころから家事を交代でこなしていた。
 炊事、洗濯、掃除、……。
 母親は、家にいる時は、夜勤の睡眠不足を補うように寝ていることが多かったので、二人でできるだけ家事はこなして、なるべく母親に負担がかからないようにしていた。
 明日実が幼いころは今日香が、今日香の勉強が忙しくなってからは明日実が、中心になって家事を負担していた。

 そんな貧しいながらも平穏な生活を送っていた三人の生活に変化が起きたのは、四年ぐらい前からだった。
夜勤の多い重労働の仕事と二人の子育てに疲れはてた母親が、しだいに精神のバランスを失ってしまったのだ。時に激しく感情を爆発させたかと思うと、うつろな目をして何日も黙り込んでしまう。常習化していたアルコールの大量摂取も、そういった気分障害を発症した原因のひとつだったかもしれない。
「おかあさん、もうお酒を飲まないで」
 明日実と今日香は、何度も母親に頼んだ。
しかし、いったん依存症に陥ると、なかなか酒を飲むのを止められなかった。夜勤明けの休みの日などは、目を覚ますとすぐに酒に手を出すようになってしまった。
それでも、病院へ出勤する前は、何とか飲酒はしないようにしていた。
しかし、しだいに誘惑に負けてつい深酒をしてしまい、だんだん仕事も休みがちになり、ついには勤めていた病院をくびになった。
その後もいろいろな病院を転々としていたのだが、どこでも無断欠勤などで問題を起こすようになり、だんだんまともに働かなくなり、一家の収入は激減してしまった。
 まだそのころは、今日香もバイトができる年齢には達していなかったので、家計を助けることはできなかった。
 とうとう家賃や公共料金まで滞納するようになり、そのために電気やガスといったライフラインも止められてしまった。
 その時、家にはまだお米などの食材が少しだけはあったのだが、明日美たち一家はもう食事ができなかった。なにしろ電気もガスもきていないので、ご飯すら炊けなかったからだ。
 そして、今日香は、高校進学も断念しなければならなくなった。
 社会の片隅でつつましく生きてきた明日美たちの家庭は、こうして完全に崩壊してしまった。

 ビジネスホテルやドヤ街を転々とした後で、最終的に三人が流れ着いた先が、この駅前のネットカフェだ。この店の一日の料金は二千四百円だったけれど、明日美たちのような長期滞在だと千九百円に割引される。一ヶ月分を計算すると割高なようにも感じられるが、ここだったら公共料金は払わなくていいし、テレビ付きパソコンもエアコンもトイレもシャワーもドリンクバーも完備している。家具を買う必要もないし、インターネットも、ゲームも、漫画も、雑誌も、やり放題見放題だった。
 といっても、
「こんな変なところには長居してはいけない」
と、今日香は明日美にいつも言っている。
 しかし、敷金などの最初に払うまとまったお金や保証人などがネックになって、二人だけではアパートが借りられなかった。頼んで日払いにしてもらっている今日香のバイト代だけでは、毎日カツカツにしか生活できなかった。明日美は、中学を卒業していなかったからまだ働けなかった。
 母親は、時々派遣で看護助手の仕事をしているようだったが、アルコール依存症がまだ治っていなくて、酔うと暴力をふるうことがあるため、もう一緒には暮らせなかった。
 住民票をネットカフェのあるビルの住所に移しているので、明日美たちは郵便も受け取ることができた。めったにかかってはこないが、電話も取り次いでもらえる。通信料金が高いので、二人ともスマホもガラケーも持っていなかった。
ここにいればとりあえず普段の生活には不便はないので、母娘三人が別々のブースでもう二年半も暮らしている。

今でこそ明日美は一日中ネットカフェの中にいるが、去年の夏まではとぎれとぎれだったけれど学校へ通っていた。初めのころは、ビジネスホテルなどから元の学校へ通っていた。ここに来てからは、現住所をネットカフェの所在地に移したので、近くの小学校に転入できたのだ。
その後、出席日数が怪しかったが、中学校へも進学できた。ブースの中で、学校側の好意で用意してもらったお古のセーラー服に着替えて、通学していた。
 しかし、もう半年ぐらい、明日美は学校に通っていなかった。あのまま学校にいたら、明日美は来月からはもう中学三年生になる。
 学校に通っていたころ、明日美は、ネットカフェで暮らしていることを、小学校や中学校のクラスメートには秘密にしていた。もちろん、先生たちはどこから通っているか知っていたが、内密にしてもらえていた。
でも、中学生になったころから、そういった二重生活に疲れて、明日実はしだいに学校をさぼるようになってしまった。クラスメートにどこで暮らしているのが知られるのが怖くて、誰とも突っ込んだ話はできなかった。そのせいもあって、親しい友だちはできなかった。
それに、姉と同様に自分も高校へは進めないだろうと思っていたから、授業にも集中することができなかった。授業中も、休み時間もポツンと一人で過ごすことが多かった。
ネットカフェで暮らすようになってから、明日実がだんだん何事にもあきらめの気持ちを持つようになっていたのも、学校へ行かなくなったことに影響したかもしれない。

 明日美のきちんとした食事は、原則一日一回だった。それを姉が帰ってくる夕方に一緒に食べていた。基本的には、朝食と昼食は抜きだった。
 そんな明日美だったが、たまに夕食の食べ物が残ると、朝にもう一食を食べることもできた。今日はラッキーにも食パンが少し残っていたので、明日美はカプチーノとともにそれを口にすることができた。普段は、どうしても空腹が耐えられない時には、明日美は無料のドリンクバーに通って飢えをしのいでいた。おなかをごまかすのには、お茶類よりも甘いジュースや炭酸飲料の方が有効だった。
紅茶やコーヒーにもたっぷり砂糖を入れていた。
ソフトクリームも甘くていいのだが、食べすぎるとおなかが冷えてしまうので、一日一回に決めていた。
 毎日一食にもかかわらず、明日美はほとんど痩せていなかった。いやむしろ太ったぐらいだ。運動不足と糖類の取りすぎが原因だろう。明日美自身もなんだかむくんだ感じがしていて、彼女の栄養状態は最悪だった。
 インターネット、テレビ、ゲーム、雑誌、漫画、…。ネットカフェには、暇つぶしに適したエンターテインメントがあふれている。
 しかし、明日美はそのどれにも飽きてしまっていた。そのため、一日が死ぬほど長く感じられた。
 現在の明日美の唯一の楽しみは、小学校一年生から五年生まで通っていた、かつての地元の小学校のホームページを見ることだった。個人情報の流出に配慮してか、子どもたちの写真などはなかったが、明日美にとっては懐かしい校舎の写真やみんなで唄った校歌の歌詞などが載っていた。
 それらをぼんやりとながめていると、まだ幸せだったころが思い出されて、ほんのちょっぴり心が和まされた。アパートを出てからの学校には、それぞれ短期間しか通えなかったので、あまり想い出はなかった。

気が遠くなるほど時間がたったように明日美には思えたころ、ようやく今日香がバイトから帰ってくる。
「ただいま」
「おかえり」
長時間のバイトのせいか、今日香は疲れきった顔をしていた。
「じゃあ、着替えてくるね」
 すぐに姿を消した今日香は、しばらくして明日美と同じようなスウェット姿で戻ってきた。
 これから、明日美待望の夕食が始まるのだ。
 明日美のブースで、二人は肩を寄せ合うようにして夕食を食べ始めた。今日香のブースの方は、四方を雑多な彼女の持ち物で取り囲まれているので、二人で入る余裕はなかった。
 食事のメインは、今日香の勤め先のコンビニで消費期限を過ぎたサンドイッチやおにぎりや惣菜などだった。それらは、コンビニの本部の規則では廃棄しなければいけないのだが、店長の好意によって捨てたことにして内緒でもらうことができた。時々は、明日美の栄養を心配して、魚の缶詰や魚肉ソーセージ、牛乳などのタンパク質源も、今日香が近くのディスカウントストアで買ってくることもあった。
 今日香の方は、一日中体を動かさなければならないので、やはりコンビニの廃棄品などを休憩時間に食べているのだが、明日美にとっては本当に唯一のまともな食事だった。
 二人はゆっくりゆっくりとつつましい晩餐を、小声でささやきあいながら食べている。
「今日はどうだった?」
「うん、いつもと変わらないけど、天気がいいから食べ物の売れ行きがよくて、あんまり廃棄が出なかった」
 今日香が持ってきてくれた夕食は、サンドウィッチが一つとおにぎりが二つ、それにほうれん草のゴマ和えだけだった。二人はそれを分けあって、少しずつ食べていた。
 二人の毎月の収入は、今日香のバイト代の十万円程度と、母親が時々気まぐれにくれる数万円だけだった。
 母親からお金をもらうのは明日美の役目だったが、本当はそれが嫌で嫌でたまらなかった。母親のブースからは、いつもプーンとアルコールのにおいがしていた。ネットカフェでは飲酒は禁止されているのだが、母親は密かに飲んでいるのかもしれない。このままでは、母親のアルコール依存症はいつまでも治らないだろう。
 どんなに嫌でも、母親からお金をもらわなくてはならなかった。その数万円がないと、このネットカフェからも出ていかなければならないのだ。そのお金を足しても、毎日精算が要求されている二人分のネットカフェ代を払うと、あとはいくらも残らなかった。
 二人の願いは、明日の住む所と食事を心配しなくてもいい暮らしをしたいことだけだった。

 ある朝、明日美が自分のブースから出ると、隣のブースの前に荷物が積まれていた。
 隣にいるのも若い女性で、妊娠しているのでおなかが大きかった。同棲していた男がおなかの子どもを認知してくれなくて別れたので、行き場がなくてここにたどり着いたのだ。いよいよ出産が間近になり、そういった女性たちをサポートしてくれるNPOの世話で、やっとネットカフェから施設に移ることができた。
 しかし、彼女は、経済的な余裕がまったくないので、生まれてくる子どもを一人で育てる自信はなくて、出産してすぐに養子に出すことを希望していた
 かといって、そんなに簡単に養子先が見つかるわけではない。
 生まれてくる子どもは、乳児院で新しい親が決まるのを待つことになる。
 明日美がその場に立ち止まって見ていると、ブースからいよいよおなかが大きくなった女性が出てきた。
「さよなら」
 その女性は、小さな声で明日美に言った。
「さよなら」
 明日美も小声で答えた。彼女は半年近くも明日美のブースの隣に「住んでいた」のだが、二人が言葉を交わすのはそれが最初で最後だった。
 彼女の姿が見えなくなると、すぐにネットカフェのスタッフがやってきてブースの清掃を始めた。ビジネスの効率のために、長期滞在エリアのブースは、ひとつでも空けておくことはできない。
 明日美が自分のブースに戻っていると、昼前には早くも新しい人が隣のブースに入ったようだった。

 明日美のブースのドアが軽くノックされた。
(誰だろう)
 今日香やネットカフェの従業員なら、外から声をかけてくる。 
明日美が、恐る恐る鍵を外してドアに細い隙間を開けると、知らない若い女の人が立っていた。
「初めまして、あたし、愛媛から来た山本優樹菜です」
 女の人は、満面に笑みをたたえている。すっかり無気力になっている明日美たちとは違って、すごく元気そうな人だった。でも、悪い人じゃなさそうだ。
 明日実はちょっと安心して、もう少しだけドアを開いた。
「坂東明日美です」
 明日美もボソッと答えた。他のブースの人に声をかけられたことがなかったので、まだ少々面食らっていた。
「あら、明日美ちゃん、若いのねえ。中学生?」
「いえ、もう卒業しました」
 明日美はあわててそう答えた。フロントでは見て見ぬふりをしてくれているが、中学生だということがばれると、ここからも追い出されてしまうかもしれない。
「ふーん」
 優樹菜は、少し疑わしそうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻って、大きなミカンを二つ差し出した。
「あたし、愛媛から今朝来たばかりなの。これ地元の名産だから、引越しのあいさつ代わりというところね」
 明日美は、コクンとうなずいてミカンを受け取った。夕食の時に、今日香と一つずつ食べようと思っていた。
「ちょっと、あたしんのところに来ない?」
 優樹菜がそう言ったので、明日美はコクントうなずいてブースを出た。今日香以外のブースに行くのは初めての事だった。

 ドリンクバーでそれぞれの飲み物を取った後で、明日美は優樹菜のブースへ行った。明日美たちのところとは違って、隅にキャリングケースがひとつあるだけなので、二人で入っても十分余裕があった。
優樹菜は、明日美にリクライニングシートをすすめると、自分はキャリングケースの上に腰を下ろした。
 優樹菜は現在十九歳で、地元の愛媛にある福祉系の大学に通っている。
 彼女の家も離婚による母子家庭で、小さいころから貧しかった。
大学にやる余裕はとてもないと母親に言われていたけれど、優樹菜はどうしても大学で勉強して、祖父母の代から続くこの貧困の連鎖から抜け出したかった。
母親からの仕送りはぜんぜん期待できなかったので、学費や生活費をすべて自分で稼がなければならない。
 でも、地元では賃金がすごく安いので、奨学金とふだんのバイトでは、生活費だけでいっぱいいっぱいだった。そのため、長い休みになると、賃金の高いバイトのある東京へ学資を稼ぎにやってきている。東京ではいつもこのネットカフェを使っていたので、ここではもう常連になっていた。
 でも、優樹菜はほとんど仕事へ行っているし、帰ってからは自分のブースで寝るだけだったから、今まで明日美とは出会ったことがなかった。
「夜行バスで13時間もかかったの。もうくたくたよ」
 そう言いながらも、優樹菜はエネルギーにあふれていた。明日からは、三つの仕事を掛け持ちしてガンガン働く予定だった。それも、賃金の高い工事現場や深夜の仕事ばかりを選んでいる。

 明日美と話しているうちにだんだん自分で興奮してきたのか、優樹菜は見ず知らずの明日美に将来の夢を語り出した。
「卒業したら、年収三百万以上は稼げる仕事に就きたいの」
「大学を卒業したら、そんなすごい仕事があるの?」
 中学にも通えないでいる明日美には、大学など遠い夢だった。ましてや三百万円などという大金は、いつも百円足りるか足りないかで今日香と二人で苦労しているので、想像もできなかった。
「ううん。福祉系の仕事がいいんだけど、そんなに稼げる仕事に地元でつけるかどうかはわからないんだ。愛媛では高齢者が減ってきていて、今まで地元の主力産業だった介護施設の就職も厳しくなっているって、先輩が言ってたのよ。入居者が亡くなって空きができても、最近は新しい応募者がいないんだって」
「…?」
 まわりにお年寄りがいない明日美には、よくわからなかった。
「うちの近くでも、どの商店もお年寄りの年金だけが頼りだったんだけど、そういうお客さえめっきり減って、店を閉めるところも増えてきているの。町の中心の商店街でも、建物を壊して更地になるところが増えているし」
「そうなんだ」
 東京生まれの明日美には、優樹菜のする地方の町の話がピンとこなかった。
「地方はどこも大変なのよ。だから、地元の介護の企業も、愛媛に見切りをつけて東京進出を図っているんだって。先輩たちも働く場所がなくなったから、その会社のつてでどんどん東京へ出て行っているのよ。将来、その会社が東京で施設をオープンしたら移籍するって裏約束で」
「優樹菜さんはどうするの?」
「私も地元で就職がダメだったら、東京に出てくるしかないかもね。本当はおかあさんが心配だから地元に残りたいんだけど。もし残っても、地元では若い女の子たちがいなくなったせいで、生まれてくる子どもたちももうほとんどいないから、将来は町自体が消滅してしまうかもしれないし」
「ふーん、それでみんな東京に来るのかなあ」
「まあ、おかあさんには、自分に余裕があったら仕送りすればいいんだけど。でも、東京では家賃が高いでしょ。暮らしていけるかなあ? それに、地元と違って知っている人がいないから、男の人との出会いもあるのかわかんないし。将来、結婚できるんだろうかと思うと、不安だらけなんだけどね」
 優樹菜はそう言って、さびしそうな笑顔を浮かべた。
「……」
 明日美が黙っていると、優樹菜が自分を奮い立たせるようにして、
「でも、今は頑張るしかないのよ」
と言った。
「私も学校へ戻りたい」
 つられたように明日美もポツリとつぶやいた。
「やっぱり、中学生なのね」
 優樹菜に言われて、明日美はコクンとうなずいた。

 その日の夕食の時に、明日美は、優樹菜の話や自分もここを出て学校に戻りたいことなどを、姉に話した。
 今日香は、何も言わずに箸を止めて、そんな明日美の顔をじっと見つめていた。
 二人は、それ以上明日美の希望については話し合わずに、食事を続けた。
「おやすみ」
 今日香がブースから出て行ってからも、明日美は昼間の優樹菜の話を考え続けていた。

 翌朝、今日香はいつものように明日美のブースに顔を見せた。いつもの古いダウンベストではなく、今日香が持っている中では一番ましな服を着ている。
「おはよう」
 明日美が声をかけると、
「今日、バイトを休むから」
と、今日香は言った。
「どうしたの? 身体の具合でも悪いの?」
「ちょっと出かけてくる」
「どこへ?」
「うん、…」
 今日香は答えずに、そのままブースのドアを閉めて、どこかへいってしまった。明日美は、思い詰めたような顔をしていた姉が心配だったが、何もすることができなかった。

 午後になって、思ったよりも早く今日香は戻ってきた。
 ブースに入ると、今日香は黙ったまま、明日美にパンフレットを渡した。通信制高校のパンフだった。
「ここに通って、卒業したら福祉関係の専門学校にいきたい。それから、あなたも学校に戻してあげたい」
「…」
 明日美は、今まで姉がそんなことを言ったことがなかったから、びっくりして何も言えなかった。
 実は、今日香は、バイトを休んでもっとお金を稼げる仕事を見つけに行ったのだ。
 それは、ネットで見つけたデリバリーヘルスという風俗の仕事だった。ブースのパソコンで調べたネット情報によると、日給は三万円以上で今のバイトの5倍近くももらえる。ワンルームマンションの寮も完備しているので、ここを出て明日美と一緒に住めるかもしれなかった。
 しかし、今日香は、さんざん迷ったあげく、そのデリバリーヘルスの事務所へは行かなかった。やっぱり男の人の相手をする風俗の仕事は怖かった。しかも、どうやらその事務所はたんなる待機所で、女の人たちは一人でお客の待つホテルの部屋に行かなければいけないようなのだ。密室で男の人と二人きりになるなんて、恐ろしくて想像もしたくなかった。
 代わりに今日香が行ったのは、やはりネットで見つけた「JKリフレ」というお店だった。そこは、男の人とは店内のカウンター越しに話しをするだけでいいようだった。それならずっと安全そうに思えた。
 でも、そのお店の給料の情報は、ネットではよくわからなかった。

 今日香は、思い切って開店前のお店のドアを開けた。
 中には、背の高い若い男が一人いるだけだった。それほど怖そうな人じゃないので、今日香はホッとしていた。
「入店希望?」
 男は愛想よく言った。
「あのー、…」
 今日香は、恐る恐る仕事の内容について尋ねた。
 仕事自体は、ネット情報通りに男の人とおしゃべりするだけだった。
「給料は?」
「時給千円。後は指名がつけば三十分単位で一本千円」
 それじゃ、今のバイトとそんなに変わらない。今日香は、自分が客から指名されることなど想像もできなかった。
 今日香が黙っていると、
「ここは接触サービスがないからね。給料が不満なら、風俗へ行ったら。おねえさん、十八になってるんでしょ」
 男は急に今日香に興味を失ったようで、ぞんざいにそう言った。
「ここは風俗じゃないんですか?」
「なんだ、そんなことも知らないの。ところで、あんた高校生? ここは、女の子が全員現役女子高生なのが売りなんだから。ねえ、生徒証を見せてよ」
 男にそう言われて、今日香はあわてて店を飛び出した。

「でも、なんとかあなただけでも学校へ行かれるようにするから」
 今日香は、風俗のことなどを話した後で、明日美に言った。
「本当に、ここを出られるの?」 
 明日美がたずねた。学校へ戻るにしても、前のようにネットカフェから登校するのは嫌だった。それでは、なんにも変わらない。
「うーん、…」
 今日香も、困ったように黙り込んだ。
学校へ通うのにも、ここを出るのにも、かなりまとまったお金が必要だ。今日バイトを休んだために、今日香の所持金は五千円をきっている。明日美の方ときたら、非常用に持っている千円札が一枚と小銭だけだった。これでは、今日の二人分のネットカフェ代、三千八百円を払うのがやっとだった。
「やっぱり風俗しかないよね。これから、デリバリーヘルスの事務所へ行ってみる」
「だめ、そんなところ」
 明日美は、つい大声を出してしまった。
「でも、それしか方法がないよ」
「だめだったら、…」
 二人は、我を忘れて大声で言い争っていた。

 いきなりブースのドアが強くノックされた。
 二人が騒いでいたのでお店の人が注意しにきたのかと、おそるおそるドアを開けると、外には優樹菜が立っていた。隣が騒々しかったので、優樹菜は仮眠から起こされてしまったのだ。彼女は、夕方からの仕事に備えて休んでいるところだった。
「風俗はだめ」
 優樹菜は、狭いブースの中に無理矢理入ってくると、ズバッと言った。
 三人が同時に入ると、ブースの中はギチギチだったので、三人は立ったままだった。
「でも、…」
 今日香が反論しようとすると、
「風俗は、本当に最後の最後の最終手段よ。まだ他にも方法があるから」
「…」
 優樹菜に強く言われて、今日香は黙ってしまった。
「明日の朝、区役所へ行こう」
「区役所?」
 今日香が繰り返すと、
「そう、区役所。何とか窓口で交渉して、あなたたちの住むところを見つけてあげる」
「えっ、ここを出られるの?」
 明日実はネットカフェを出られると聞いて、思わず口を挟んだ。毎日毎日ここで暮らすのは、もううんざりしていた。
「無駄よ。役所に相談したら、きっと二人バラバラの施設に入れられてしまうから」
 今日香は、前に役所の窓口へ行ったことがあったのだ。その時は、さんざんあちこちの部署をたらい回しにされたあげくに、二人がそれぞれ別の未成年者を収容する施設に入れられそうになった。これ以上家族がバラバラにされることには耐えられない。

「ねえ、あなたいくつ?」
 優樹菜が、今日香にたずねた。
「十八」
 今日香が、小声で答えると、
「なら、大丈夫よ。仕事もしてるんでしょ。あなたが所帯主になって、区営住宅に入れるんじゃないかな」
「でも、お金が、…」
「大丈夫よ。区営住宅は敷金も礼金もいらないし、収入が少なければ家賃も減免されるから。保証人が心配なら、そうしたことをしてくれるNPOもあるみたいだし」
 優樹菜は、母親と暮らしていた時に、地元の町営住宅に住んでいたので、そうした事情に詳しかった。
「えっ、本当?」
 今日香が聞き返すと、
「とにかくダメ元よ。やってみなければわからないって。ネットカフェなんかにいたら、けっきょく割高なんだから。長期割引っていっても、私みたいに数週間だけならいいけれど」
 優樹菜が、励ますように二人の顔を見ながら言った。
「でも、優樹菜さん、明日も仕事があるんじゃないの?」
 明日美がたずねると、
「大丈夫。朝の八時には戻ってくるから」
 優樹菜は、夕方の五時から十二時までが居酒屋のホールのバイトで、続けて夜中の一時から七時まではコンビニの深夜バイトをしている。それに、割のいい夜間の工事現場の仕事も、他のバイトが休みの日に不定期にやっていた。
「今日みたいに、帰ってから寝なくても平気なの?」
 明日美が言うと、
「一日ぐらい寝なくたって大丈夫、若いんだから」
 優樹菜は、そう言って笑って見せた。

 優樹菜は二人を安心させるために楽観的に言っていたが、組織が縦割りになっている役所との交渉は、一日じゃすまないかもしれない。そうしたら、何日も粘り強く交渉しなければならないだろう。かといって、後を二人だけにまかせるのは心許ない気が、優樹菜はしていた。
「そうねえ。長期戦に備えて、もっと援軍がいるかもね。ちょっと待ってて」
 優樹菜はそう言いながら、ブースを出ていった。
 しばらくして、優樹菜が戻ってきた。若い男の人が一緒だったので、明日美と今日香は緊張した。
「深川くん。二人とも知ってるでしょ」
 たしかに顔に見覚えがあった。ネットカフェのバイトの一人だった。
「彼も私と同じ十九歳で大学生なの」
「よろしく」
 深川さんはペコッと頭を下げた。笑うと親しみやすそうな顔になったので、二人は少し安心した。
「あたしが行かれない日には、彼が一緒に役所へ行ってくれることになったから」
「えっ!」
 二人が驚いていると、
「優樹菜さんって、強引なんだから」
と、深川さんはぼやいていた。
「なんたって、二人はお店のお得意様なんだから、このくらい、サービス、サービス」
 優樹菜にそう言われて、深川さんは苦笑いしていた。

「長期戦といえば、あなた明日もバイト休んで大丈夫?」
 優樹菜は、今度は今日香にむかってたずねた。
「…」
 今日香が不安そうな顔をしていると、
「電話、電話。まずはバイト先と交渉よ」
 二人がケータイを持ってないことを知ると、優樹菜は自分のスマホを出して、今日香に聞いた番号にかけた。
「もしもし、…」
 コンビニの店長に、電話に出てもらうように頼んでいる。
 交渉結果は上々だった。店長は、今日香のシフトを、役所へ行く時間が取れるように調整してくれた。どうやら、これでクビになることは免れたようだ。もともと店長が、今日香の身の上に同情的だったせいもあったかもしれない。
「でも、バイトに行かないと、明日からのネットカフェ代が足りないんだけど、…」
 今日香が恐る恐る言うと、
「ねえ、深川くん、役所との交渉がまとまるまで、代金を待ってくれるように、店長にOKを取ってくれない」
「…」
 優樹菜に強い口調で言われて、深川さんは目を白黒とさせていたが、やがてしぶしぶうなずいた。
 コンビニの店長や深川さんに対する優樹菜のきびきびした交渉経過と、その幸先の良い結果に、明日美と今日香は、これからの区役所との交渉にも、少しは希望が持てるかもしれないなという気がしてきていた。

 

 

 

 

 

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天使にラブ・ソングを…

2020-09-05 09:47:01 | 映画

1992年公開のアメリカ映画です。

 ギャングの愛人の歌手が殺人現場を目撃し、警察によって修道院に匿われることになったことから巻き起こるドタバタ・コメディです。

 ストーリー自体は他愛のないものですが、主人公が指導した修道女たちの合唱シーンが素晴らしく、全世界、特に本国アメリカで大ヒットしました。

 主演のウーピー・ゴールドバーグは、この作品のヒットで全米の人気スターの地位を不動のものにしました。

 

 

 

 

 

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