最初に川に入って泳ぎ始めたのは、キャプテンの明だった。力強いクロールで途中の速い流れもつっきって、楽々と向う岸にたどりついた。
明は、大きな岩の中ほど、三メートルぐらいの所まですばやくよじ登った。真っ黒に日焼けした体は、腕や胸に筋肉が盛り上がっていてたくましい。
対岸のみんなが注目する中、明は勢いよく頭から川に飛び込んだ。大きく水しぶきがはね上がる。
明はすぐに浮き上がると、水の流れに身体をまかせながらこちらにむかって笑顔で手を振ってみせた。
それを見て、他の六年生たちがいっせいに続いた。きれいなクロールでいく者、力まかせにバチャバチャと犬かきで泳ぐ子。泳ぎ方はさまざまだったが、みんな、なんとか向う岸にたどりついた。
対岸についた六年生たちは、我先にと岩からの飛び込みを始めた。明と同じ場所から飛び込む者もいたが、大半はそれより少しでも高い所から飛ぼうとしている。
でも、中には水面すれすれから、こわごわと飛び込んでいる者もいた。
その時、明が岩のてっぺんまでよじ登ると、一回ひねりをして飛び込んで見せた。
それからは、みんながいろいろな技をきそって、飛び込むようになった。
両手を鳥のように大きく広げて飛び込む、左右に足を開いての飛び込み、……。
だんだん技がエスカレートしていく。
「おーい、あぶないから、曲芸はやめろ」
とうとう下から監督がストップをかけた。
六年生たちは普通に飛び込むのではつまらないのか、岩を離れて下流のほうへ泳いでいった。
「おーい、次はお前たちだぞ」
監督にうながされて、五年生たちが泳ぎ始めた。
こちらも、ほとんどがなんとか対岸へはたどりついた。
でも、飛び込まないで岩にしがみついている者が多い。中には、向こう岸まで泳ぐのさえあきらめて、途中で引き返す子さえいた。
そんな中で、芳樹の兄の正樹も泳ぎ出した。いつも慎重な正樹らしいていねいな平泳ぎで、ゆっくりだが確実に向こう側へ渡り切った。
でも、やっぱり岩につかまっているだけで、飛び込みをやろうとはしない。
「なんだあ、だらしねえなあ」
「男なら、思いきって飛び込んでみろよ」
監督やコーチたちが、川の中から大声で挑発した。大人たちも水に入って、みんながおぼれたり流されたりしないように油断なく見張っている。
その声に発奮したのか、向こう岸にいた五年生たちが、岩によじ登りだした。正樹も、へっぴり腰ながら、一番後から続いていく。
「よーし、いけーっ」
監督のかけ声に合わせて、五年生たちも岩の上から飛び込み始めた。
今日は、芳樹たちの少年野球チーム、ヤングリーブスのバーベキュー大会。夏の厳しい練習のごほうびにと、道志川の河原へ連れてきてもらっていた。
いよいよ、芳樹たち三年生の番になった。五、六年生以外に来ていたのは、上に兄弟がいる子だけだったので、四年は誰もいなく三年も他には良平ひとりだった。そう、それとニ年の隼人も来ていた。
「ほら、次は三年の番だろ」
監督はそういって、二人をけしかけた。
でも、良平は初めからあきらめているのか、ニヤニヤしているだけで泳ごうとしない。
芳樹は、行く手をはばむ中ほどの速い流れを、じっとながめていた。そこだけが、幾筋にも白く波立ちながら流れている。
向こう岸までは、たった15メートルほどしかなかった。 スイミングスクールに通っていたころは、25メートルプールを楽に往復できた芳樹には、問題になる距離ではない。
(でも、波が、……)
いつまでたっても、ふんぎりがつかなかった。
「ギブアップかあ?」
ようやく監督もあきらめたらしく、対岸の五年生たちの方に向きなおった。
芳樹は、何気ないそぶりでその場を離れていった。
いつのまにか良平は、下流の流れがよどんでいる場所で、隼人と何かを探していた。
「良ちゃーん、何か取れる?」
わざと大声を出しながら、芳樹はそちらへ走っていった。
よどみには、草色をした小さな魚が、群れをなして泳いでいた。芳樹はつとめてさっきのことは忘れるようにして、良平たちと魚を追い始めた。
「よっちゃーん」
突然、うしろから声をかけられた。
振り向くと、裕香が河原に立っていた。黄色のタンクトップに赤いショートパンツで、ニコニコ笑いながら手を振っている。
「やっぱり、ついて来ちゃった」
裕香の兄は、さっき最初に岩から飛び込んだキャプテンの明だった。
「今、来たの?」
芳樹がおそるおそるたずねると、
「うん、おかあさんと」
たしかに、河原では裕香のおかあさんがエプロンをつけて、他の人たちと一緒にバーベキューの準備を始めていた。
(泳がなかったところは、裕香ちゃんには見られなかったみたいだな)
芳樹はそう思って、ホッとしていた。
「あっ、大きな犬がいる!」
突然、裕香が大声で叫んだ。裕香が指差す上流の方を見ると、こげ茶色の長い毛をした大きな犬が泳いでいた。グングンとスピードをあげて、対岸を目指していく。
芳樹は急いで河原に上がると、裕香と一緒にそばまで行ってみた。
向こう岸の近くに、ピンク色のゴムボールが浮かんでいる。犬はあっという間に川を泳ぎ渡ると、ボールをくわえてすぐに戻ってきた。
こちら岸に上がってブルブルッと体をふるわせたので、まわりに水しぶきが大きく飛び散った。
「うわーっ!」
裕香は、水がかからないようにすばやく逃げた。逃げ遅れた芳樹には、もろに水がかかってしまった。
飼い主らしい茶髪のおにいさんは、犬の口からボールを取ると、今度はもっと上流に向かって思いっきり投げた。犬は、すぐにまた川の中に飛び込んでいった。
ボールは、あの飛び込み岩の近くまで飛んでいって、そこにひっかかってしまった。
犬は川の中ほどにつくと、そこから上流に向かって泳ごうとし始めた。
でも、流れが一番速いところなので、なかなか前に進めない。けんめいに前足を動かして、文字どおり犬かきで進もうとしている。
でも、ちょうど流れの力とつりあったのか、まるで止まってしまったように見えていた。
「ジュリー、もっと向こうへ渡ってから泳げったら」
おにいさんは、少しいらいらした声で怒鳴っていた。
(やっぱり、あそこは流れがきついんだ)
芳樹は、あらためて白く波立っているあたりを見つめた。
「芳樹、来い。だいじょうぶだから」
突然、対岸から声がかかった。五年生たちの飛び込みを見ていた監督だ。ほかのコーチたちは、少し下流の流れのゆるやかな所で、飛び込みにあきてビーチボールで遊んでいる六年生たちのそばにいる。
(しまった、見つかっちゃった)
芳樹は聞こえないふりをして、また良平のいるよどみに戻ろうとした。
と、そのとき、
「よっちゃん、行ってみたら。スイミングにいってたでしょ。よっちゃんなら、絶対渡れるよ」
裕香にまでいわれてしまった。
向こう岸の監督、こちら側の裕香。二人にはさまれて、芳樹は身動きが取れなくなった。
「監督、行きまーす」
そういったのは、芳樹ではなかった。一緒についてきていたニ年生の隼人だった。
「おっ、隼人か。いいぞお」
隼人はすぐにザバザバと川へ入ると、きれいなクロールで泳ぎ出した。そういえば、隼人は、チームに入るときにやめた芳樹と違って、まだスイミングを続けている。
隼人は中ほどで少し下流に流されたものの、無事に対岸にたどりついた。
「いいぞ、隼人。よくやった」
監督も満足そうだ。
「隼人くん、すごーい!」
裕香もそう叫ぶと、隼人にむかって手を振っている。隼人もそれにこたえるように、得意そうな顔をしてVサインをしてみせていた。
「行きますっ!」
思わず、芳樹はそういってしまった。すぐに後悔したけれど、もう後には引けない。隣では、裕香が(尊敬のまなざし)でこちらを見ている。
内心のドキドキを隠して、芳樹は少し上流へ移動してから川の中へ入っていった。さっきの隼人の泳ぎを見て、少し下流に流されることを計算に入れたのだ。
腰ぐらいの深さになったとき、芳樹はやっと泳ぎ出した。流れの中は、さっきのよどみよりも水が冷たかった。
スイミングをやめる直前に習いはじめたクロールをしているつもりだったけれど、プールの時のようにはうまくいかない。やたら腕を振り回したので、水がバチャバチャとはねかえっている。
それでも、ようやく中ほどまでさしかかった。問題の速い流れだ。
(あっ!)
と、思った瞬間に波立った水が顔にかかり、それをゴボッと飲んで何がなんだかわからなくなってしまった。
「芳樹、そっちじゃないぞお!」
急に上流に向かって泳ぎ出した芳樹を見て、監督があわてたように叫んでいる。
でも、夢中で腕をふりまわしていた芳樹には、どこか遠いところからのように聞こえた。
芳樹はけんめいに泳いでいた。だけど、ちっとも前に進まない。いや、むしろ少しずつ下流へ流されているくらいだ。そして、しだいに浮力をなくした身体が、だんだん水の中に沈んでいった。
「ああっ!」
誰かが叫んだ。力つきた芳樹が、完全に流され始めたからだ。
「おーい、芳樹をひろってくれえー!」
監督は、下流の方で、ビーチボールで遊んでいた六年生たちに大声で頼んだ。芳樹は、ちょうどそちらにめがけて流されていくところのようだった。
「OK!」
流されてきた芳樹をがっちりとつかまえてくれたのは、キャプテンの明だった。そのまま芳樹をひきずるようにして河原にあがっていった。
「だいじょうぶかあ」
監督も、すぐにこちらに渡ってきた。
「だ、だいじょうぶです」
河原にうずくまった芳樹は、歯をガチガチさせながら答えた。水を飲んでしまったせいか、気分が悪かった。
「だいじょうぶ?」
気がつくと、裕香のピンクのビーチサンダルが目の前にあった。
その晩、芳樹は寝る前におかあさんにいった。
「また、スイミングに入ってもいい?」
「えっ、どうして?」
おかあさんは、少しびっくりしているようだった。チームに入ってからも、せめて四種目すべての泳ぎ方ができるようになるまで、もう少し続けるようにいわれていたのに、やめるっていい出したのは、芳樹の方だったからだ。そのときは、少年野球にスイミング、両方やったら遊ぶ時間がなくなってしまうと、芳樹は思ったのだ。
でも、今はそんなことはいってられない。
「どうしてもっ!」
そういって、芳樹はタオルケットを頭からかぶった。
あれから、バーベキュー大会はさんざんだった。楽しみにしていたスイカ割りも、気分が悪くて寝ていたので参加できなかった。裕香や隼人たちの楽しそうなわらい声が、横になっていた芳樹にも聞こえていた。
おなかいっぱい食べようと思っていた焼肉や焼きそばも、ほとんど食べられなかった。いつもはおいしそうなにおいが、その時はムカムカしたのだ。
「じゃあ、明日、スイミングにいってみる?」
おかあさんは少しあきれていたようだったが、最後にそういってくれた。
「うん」
「じゃあ、ゆっくり寝るのよ」
おかあさんはそういって、部屋の電気を消して出ていった。
芳樹がタオルケットから顔を出すと、うす暗い闇の中に隼人の得意そうなVサインが浮かんできた。
次の土曜日、明け方近くになって、芳樹は急に目が覚めた。
ザザザザーッ。
雨戸に、激しく雨が降りかかる音がする。
ガンガンガン。
雨がひさしをたたく大きな音もする。
昨日の夕方からふり出した雨は、台風の接近とともにひどくなっているようだ。しばらく静かになったと思ったら、次の瞬間、よりいっそう激しくなる。
あたりはまだ暗く、天井にはオレンジ色の常夜灯がぼんやりとついている。
ピカーッ。
一瞬、あたりが明るくなった。
次の瞬間、ガラガラガラーンと、激しくカミナリが鳴った。
(うわーっ!)
あわててタオルケットを頭からかぶった。
芳樹は、小さなころからカミナリが大の苦手だ。ゴロゴロって、遠くでなっているのを聞いただけでもいやなのに、今のはかなり近かった。しかも、今日はカミナリだけでなく、台風の強い風と雨もいっしょなのだ。とても、たまったもんじゃない。
ピカーッ。
……。
ガラガラガラーン。
芳樹は、タオルケットの中で震えていた。
その朝、芳樹は六時に目を覚ました。
「正樹、芳樹、起きる時間よ」
部屋のドアをあけて、おかあさんがどなっている。今日は試合の予定だったから、早く起きなければならなかった。
外では、雨はまだ激しく降り続いている。いや、むしろひどくなっているようだ。これでは、せっかく早起きしたのに、野球なんかとてもできそうにない。
「うわーっ!」
雨戸を開けようとしたら、すごい勢いで雨がふきこんでしまった。芳樹は、あわててサッシの窓を閉めた。
「うーん」
二段ベッドの上では、にいちゃんがまだねぼけている。芳樹と違って神経が図太いから、台風なんて関係なくぐっすり眠れたみたいだ。
「まだ雨が降ってるよ」
芳樹が声をかけると、
「うーん、じゃあ、まだ寝てよっと」
といったかと思ったら、またすぐに寝込んでしまった。本当にすごいやつだ。
芳樹は、もうとても寝ていられない。しかたないので、パジャマを脱ぎ始めた。
「うん、わかった」
電話は良平からだった。今日の試合は、やっぱり中止だった。厚木市の大会に参加することになっていたけれど、この天気じゃもちろん無理だ。
芳樹は、冷蔵庫の横に磁石でとめてあるチームの連絡網をとってきた。そして、それを見ながら、次の順番の隼人に電話をかけようとした。
ルルルー。
そのとき、先に電話がなってしまった。
「もしもし」
出てみると、五年生の拓ちゃんからだ。今度は、にいちゃんへの連絡の電話だった。
「にいちゃん、電話」
まだベッドの中でぐずぐずしていたにいちゃんに、子機を持っていってやった。
チームの連絡網は、上級生と下級生で別れている。試合の時などに、別々の予定になる事があるからだ。
練習試合の時は、時間を変えて下級生のBチーム同士の試合を組んでくれることが多い。
でも、今日は大会なので、試合には六年生と五年生だけが出る。芳樹たち下級生には、まるで出番がなかった。大会の時は、下級生は参加しないで居残りで練習することが多い。
ただ、芳樹と隼人だけは、いつも試合について来るように監督から頼まれていた。試合の時の芳樹と隼人の役割は、ボールボーイと一塁や三塁のベースコーチをやることだ。
ボールボーイというのは、主審の人にいつもきれいなボールを補充するのが役目だ。ファールチップなどで、ボールがバックネットへとんでいった時は、二人で争うように取りにいっている。ひろったボールは、きれいにタオルでよくふいておいた。そして、じっと試合の様子を見ている。バッターの交代とか、ファールなど、プレーが止まった時にすばやくダッシュして、審判にボールを渡しに行くのだ。主審のそばまでいって、帽子を脱いでペコリとあいさつしてからボールを渡す。
べ-スコーチというのは、攻撃のときにコーチスボックスに立って指示を出す役目だ。
芳樹たちがベースコーチにたった時には、一球ごとに、
「ピッチ(ピッチャーのこと)、ボールが入らないよ」
「バッチ(バッターのこと)、しっかり打っていこう」
と、大声でヤジったり、声援したりしている。
ヒットや四球でランナーが出れば、
「リー、リー、リー」
「まわれ、まわれ」
と、上級生たちよりも大きな声で、ハキハキと指示を出していた。
「芳樹と隼人のおかげで、うちのチームは、ボールボーイとベースコーチだけは、どこのチームにも負けない」
監督はそういって、いつも二人のことをほめてくれていた。
がけ崩れでつぶされてしまった家が、テレビに映っていた。すごい土砂で、あたり一面グチャグチャになっている。今朝のテレビは、どこのチャンネルでも台風の被害のニュースで持ちきりだった。
「がけ崩れがあった山梨県のF村からの中継でした」
アナウンサーがレポートしている。
「山本くん、だいじょうぶかなあ」
芳樹は、台所で朝ごはんを作っているおかあさんにたずねた。前に同じクラスだった山本くんは、F村の学校に転校していたからだ。
山本くんは、一年生の時だけ、芳樹と同じクラスだった。学年でも飛びぬけて小柄な子で、なかなか学校になじめなくて最初から休みがちだった。そして、二年生になる時に、とうとう転校していってしまったのだ。
それが、今年になって、ひょっこりクラスあてに写真入りの手紙が届いた。
(今はF村に山村留学しています)
って、書いてあった。そういえば、山本くんの家は、今でも近所にある。一人で山村留学するなんて、さびしくはないのだろうか。
でも、写真の山本くんは、前と同じように小柄だったけれど、大きな木をバックに楽しそうにわらっていた。
「だいじょうぶよ。山本くんの学校も夏休みでしょ。だったら、きっとおうちに帰っているはずだから」
おかあさんが、そういってくれた。
テレビの画面がきりかわった。
「あっ!」
思わず芳樹はさけんでしまった。
なんと、川の中州に取り残された人たちが映っていたのだ。キャンプをしにきていて取り残されてしまったんだという。二、三十人もいる。
警察や消防の人たちが、けんめいに救助しようとしていた。
ドドドドドーッ。
すごい勢いで濁った水が流れてくる。水かさがどんどんまして、立っている人たちの足元が完全に水に隠れた。
中には子どもたちもいた。大人たちは、小さな子をかかえて水にぬれないようにしている。傘やシートをかぶって、じっとたちすくんでいた。
救助の人たちが、ロケットのように対岸にロープを打ち込んで、助けようとしている。
でも、中々反対側の木に引っかからないで、ロープが流されてしまっていた。
(がんばれーっ)
芳樹は、テレビの画面に向かって声援を送った。
ザザザザーッ。
気のせいか、家にふりつける雨も強くなったような気がした。
ひどい雨だった。
ザザザザッ。
水たまりに白い波をたてて、雨はようしゃなく芳樹たちをおそってくる。上からだけでなく、前からもうしろからも横からも、雨はふりかかってきていた。強い風が吹いた瞬間などは、下からさえも雨が押し寄せてくるようだ。
車からスーパーの入り口までは、たったの20メートルぐらいしかない。
おかあさんとにいちゃんと一緒に、芳樹はけんめいに建物の中にかけこんだ。それでも、そのわずかの間に、三人ともすっかりビショビショになってしまった。
「すごかったわねえ」
おかあさんはバッグの中からタオルを取り出しながら、なぜか感心したようにいっていった。
「ビショビショだあ」
にいちゃんもすっかりぬれてしまったひざのあたりをタオルでふきながら、なんだかうれしそうにしている。
(へんな親子だなあ)
と、芳樹は横目で二人を見ながら思った。
少し小降りになったのを見はからって、三人でスーパーに買い物にやってきた。
でも、途中でまた雨がひどくなってしまっていた。
スーパーの中は、台風の影響とお盆休みのせいか、すごくすいていた。係りの人たちも、いつもよりずっと少ない。おかげで、試食が食べやすかった。
芳樹は、にいちゃんと競うようにしてスーパー中をかけまわった。マグロ、ソーセージ、焼肉など、なんでも食べ放題だった。
「はずかしいから、いいかげんにして」
とうとう、おかあさんに叱られてしまった。
冷蔵庫がからっぽになりかけていたので、おかあさんは山ほど買い物した。
牛乳、卵、ひき肉、野菜、おさしみ、焼き鳥、納豆、豆腐、……。
「ねえ、アイスクリームも買ってよ」
芳樹がそういうと、
「いいわよ。五個買うと割引だから、二人で選んできてよ」
芳樹は、にいちゃんとアイスクリーム売り場に急いだ。
アイスはどれも百円だったけれど、五個買うと、一個分がただになる。さんざんまよったあげく、チョココーンとあずきもなかを二つずつ、それに雪見大福を一つ買った。
スーパーからの帰りの道では、下水溝からゴボゴボと雨水があふれ始めている。低いところには大きな水たまりができていて、通りかかった車がザーッと大きくはねかえしていた。いつもはけっこう乱暴な運転をするおかあさんも、今日だけはゆっくりと車をはしらせていた。
翌朝は、昨日とはうってかわってすごくいい天気だった。外を見ると、まだ七時になったばかりだというのに、もうかんかん照りだ。こういうのを「台風一過」っていうんだって、テレビでアナウンサーが話している。この言葉を初めて聞いたとき、「台風一家」というやくざの組があるのかと思ったなんてくだらない冗談をいって笑っていた。
「にいちゃん、監督さんからよ」
二人ともパジャマのままでテレビを見ていたら、おかあさんが子機をもってやってきた。
「……。はい、わかりました」
にいちゃんは電話を切ると、おかあさんにいった。
「今日、急に試合だって。お昼のおにぎりもいるって」
「えっ、どうしたの? 今日はお休みじゃなかったの? おにぎりのごはん、あったかしら?」
おかあさんは、少しあわてているようだった。
「うん、大会が台風で伸び伸びになっちゃってるから、どうしても今日やらないと、だめなんだって」
にいちゃんは、そこで芳樹の方にむきなおっていった。
「そうだ、よっちゃん。お前も、絶対に連れて来いってさ」
「えーっ、なんでえ?」
今度は、芳樹があわてる番だ。今日は、おとうさんとプールへ行く約束だった。「打倒隼人」の猛特訓をしなくっちゃ。
「なんか、人数が足りなくなるかもしれないんだって。もしかすると、お前も試合に出られるかもな」
「そんなあ」
この間の川を横断したときの前のように、心臓がドキドキしてきた。
「ひい、ふう、みー、……」
へんな数えかたで、監督が人数を確認している。
「……、なな、やー。あれ、へんだな。足りないなあ」
六年と五年だけでなく、四年生や三年の芳樹や良平までが借り出されていた。
それでも、まだ足りないみたいだ。お盆休みで、帰省したり家族旅行にいっちゃったりした人たちが、たくさんいるらしい。
今日の試合は、厚木市主催のトーナメント。もし、人数が足りないと不戦敗になって、先に進めなくなってしまう。六年生たちは、せっかく優勝を目指してがんばっていたのに。
「いち、にー、さん、……」
監督は、今度は普通のやり方でもう一度数え直そうとしている。
ブブブーン。
と、その時だ。校門から、すごいいきおいでRV車が入ってきた。
ギギギーッ!
はげしいブレーキの音を立てて車が止まると、中からサングラスをかけた女の人がさっと飛び出してきた。隼人のママだ。そのうしろから、ダブダブのユニフォームを着た隼人も降りてきた。
「おー、来た、来た」
監督がだきかかえるようにして、隼人をむかえている。どうやら、ニ年生の隼人までが試合に出なければならないようだ。
芳樹は河川敷のグランドのすみに、一人でうずくまっていた。来るまでの間に、すっかり車に酔ってしまったのだ。
すぐ目の前の堤防の向こうを、茶色くにごった水がすごい勢いで流れている。
「山の方でももう雨はやんだから、だんだん減ってくるだろう」
って、監督はいっていた。
でも、こうして目の前で見ると、河原まであふれてきそうでこわくなってしまう。
「いくぞお」
「おうっ」
すぐうしろでは、ほかのメンバーが声をかけあいながら、試合前のキャッチボールを始めている。
むこうから、小さなピンクのスニーカーがかけてきた。つま先が泥で少し汚れている。
「よっちゃん、だいじょうぶ?」
裕香だった。また、かっこ悪いところを見せてしまった。
「もう、だいじょうぶ」
芳樹は無理して立ちあがったが、まだ少しフラフラする。
「車に酔わないおまじない、教えてあげよっか?」
裕香は芳樹に手をかしながら、なんだかうれしそうな声を出している。
「えーとね。手のひらにまん中に、人差し指でひらがなの「の」って字を書くでしょ。そうして、そこを指で強くおすの」
そういいながら、裕香は自分でやってみせている。
「それを、「り」と「も」と「の」でもやるの。最後に、手のひらにフーッと息を吹きかけておしまい。すごおくきくんだよ。やってあげようか?」
裕香に、左の手のひらに「の」の字を書かれながら、
(今さらそんなのやっても、ぜんぜん遅いよ)
と、芳樹は心の中でつぶやいていた。
芳樹は裕香からはなれると、フラフラしながらみんなのそばまで近づいていった。
「ぼくも、入れてよ」
隼人とキャッチボールをしていた良平に声をかけた。
「うん、でも、もうだいじょうぶなのかあ?」
良平が心配そうに聞いてくれた。
「うん、だいじょうぶ」
芳樹はそういって、グローブをかまえた。
「いくぞ」
隼人が、声をかける
「お、お」
へなへなした声しか出なかった。
隼人は、手加減なしに思いっきりボールを投げてきた。
バチーン。
なんとか落とさずにキャッチできた。
「いくぞおっ」
まだムカムカしている気分をふりはらうように、気合いをかけた。
「おおっ」
隼人が元気に答える。
芳樹が力いっぱい投げたボールは、隼人をそれてとんでもない方向へいってしまった。
「良平、レガースを直せー!」
ベンチで、監督がどなっている。
見ると、良平のレガース(すねあて)がゆるんでしまっている。右と左が、それぞれそっぽを向いていた。
「タイムッ」
審判が、良平の方にかがみこんだ。手を貸して、レガースを付け直してくれた。
「レガースをどうやってつけるのかも、知らないんだからなあ」
監督が苦笑いしながら、隣にすわっているスコアラーに大きな声で話している。この人は、明と裕香のおとうさんだ。
今日は、キャッチャーは、レギュラーも控えの選手もいなかった。それで、三年生ながらキャッチングがよくて肩も強い良平が抜擢されていた。もちろん、良平もAチームには初めての出場だった。
練習投球が終わった。良平がセカンドに送球した。少し山なりだったけれど、きちんとノーバウンドで届いた。監督が見込んだことだけのことはある。
「がっちりいこーう」
良平がみんなに声をかけた。なかなか堂にいっている。まったく初めてなのに、見よう見まねでおぼえていたのだろう。
「うーん、良平は、きたえればいいキャッチャーになりそうだな」
ベンチで、監督が満足そうにうなずいていた。
「バッチ、こーい」
芳樹は、やけくそ気味の大声でセンターからどなった。こっちも、もちろんAチームは初出場だ。
内野だけは、砂を入れてなんとか整備されていた。
でも、芳樹たち外野手の足元は、グッチャグチャだった。昨日までの雨で、すっかりぬかるんでいる。走るとすべりそうでこわかった。
チラッとライトの方を見ると、隼人がいつになく心細そうに守っている。隼人は、五年生以下だけで組むBチームでさえ、ほとんど試合に出たことがなかった。
「ライト、もっと声を出せ」
ファーストのキャプテンの明が、隼人に声をかける。
それでも、隼人は固まったように声が出せなかった。
「隼人、ファイト」
芳樹も、横から声をかけてやった。
「うん。バッチ、こーい」
小さかったけれど、ようやく隼人からも声が出た。
「よーし」
明が振り返って、隼人に合図した。
大きなフライが、隼人の頭上をおそってきた。
「オーライ」
隼人は、はじかれたようにけんめいに下がっていく。
でも、ボールは軽々とその上を超えていった。
隼人は、けんめいにボールを追いかけていく。
と、思ったら、たちまちぬかるみに足を取られてころんでしまった。あわてて立ち上がったけれど、ユニフォームにはべっとりと泥がついていた。
芳樹も、練習どおりに中継プレーの位置へ急いだ。
なんとか追いついた隼人は、ボールを拾おうとしたけれど、焦っているのか何度も取りそこねている。
「隼人、こっち」
やっとボールを取った隼人に、芳樹はグローブを差し出しながら叫んだ。
しかし、隼人の送球は大きく右にそれてしまった。
今度は、芳樹がけんめいにボールを追いかける。
と、思ったら、今度は芳樹がすべってころんでしまった。芳樹のユニフォームも、泥だらけになった。
ようやくボールに追いついた時、バッターはとっくにホームインしてしまっていた。
相手チームのベンチは大騒ぎだ。
「ハーイ!」
ホームランを打った選手のヘルメットをたたいたりハイタッチをしたりと、まるでお祭りのようにはしゃいでいる。
「ちぇっ」
芳樹は、やまなりのボールを内野に返した。
「ホームランになっちゃったねえ」
ようやくそばまで戻ってきた隼人が、声をかけてきた。顔に泥がはねていて、まだらになっている。
「隼人、顔が汚れてるぞ」
芳樹が注意してやると、隼人はユニフォームの袖口で顔をふいた。
「ドンマイ、隼人、芳樹、気にするなあ」
向こうから、監督が大声で叫んでいる。
「ドンマイ、ドンマイ」
ファーストの明も、振り返って声をかけてくれた。
「しまっていこーっ」
キャッチャーの良平は、マスクをはずして大声で叫んだ。
芳樹と隼人が守備位置について、試合が再開された。
三回の表、八番バッターの芳樹に打順がまわってきた。
「よっちゃーん、ホームラン」
裕香の声が聞こえくる。
(よーしっ、絶対にうってやるぞ)
と、芳樹はかたく心にちかった。
一球目。芳樹は思いっきりバットをふった。
でも、とんでもない高いボールだった。みごとなからぶりで、一回転。芳樹は、いきおいあまってしりもちをついてしまった。
観客席から、大きなわらい声が起こる。
「芳樹、いい球だけだぞ」
監督も、苦わらいをしている。
芳樹は、しりもちのはずみで脱げてしまったヘルメットを、拾い上げてかぶった。そして、バッターボックスに入り直した。
「よし、来い」
芳樹は、またピッチャーをにらみつけた。
(あっ!)
二球目は大きく内角にそれて、芳樹の左腕へ。デッドボールだ。腕にガーンと衝撃がきて、鼻の奥がツーンとした。ボールが当ったところが、すごく痛かった。涙が、猛烈な勢いでこみあげてくる。
と、その時、
「よっちゃーん、がんばって」
また、裕香の声が聞こえた。
「よっちゃん、ファイト」
隼人の声もする。
芳樹は、なんとか泣くのをがまんして、一塁へむかった。
「芳樹、だいじょうぶか」
一塁ベースコーチをやっていた明が、芳樹の左腕に、痛み止めのスプレーをシューシューとかけながら声をかけた。チラッと観客の方を見ると、裕香が心配そうにこちらを見ていた。
「だいじょうぶです」
芳樹はけんめいにうなずいた。
ラストバッターの隼人が打席に入った。試合再開だ。
「リーリーリー」
芳樹はベースを離れて、少しリードを取った。
(いけない、サインを見るの忘れた)
いつもランナーに出たら、監督のサインを見るようにいわれている。
芳樹が、ベンチの監督の方を見た瞬間だった。
「芳樹、バック!」
明の大声が聞こえた。あわててベースに戻ろうとした。
でも、一瞬早く、一塁手にタッチされてしまった。
「アウトッ」
審判が右手を上げて叫んだ。芳樹は、牽制球でタッチアウトにされてしまったのだ。
「あーあ」
コーチスボックスで、明ががっかりしてためいきをついている。
相手の一塁手は、芳樹を見ながら笑っている。
「ナイス、ケン(牽制球)」
一塁手は、ピッチャーに声をかけながらボールを返した。
芳樹は、しょんぼりとベンチに引き上げていった。
「ドンマイ、ドンマイ」
うしろから、明がはげましてくれた。
ヘルメットをぬいで、バットをバット立てにさした。
「芳樹、サインはベースについて見るんだよ」
ベンチにもどると、監督がやさしく声をかけてくれた。
「はい、すみませんでした」
芳樹は監督にペコリと頭を下げて、ベンチのすみにいった。コップを持って、ジャーの蛇口をひねった。良く冷えた麦茶が、勢い良く出てきた。芳樹は一口飲んでから、グランドをながめた。
(あーあ、せっかく塁に出られたのに、また裕香ちゃんの前でかっこ悪いところを見せちゃった)
「芳樹、ちょっと、こっちにおいで」
監督が呼んでいる。
そばにいくと、
「ここにすわれ」
といって、スコアラーとの間に、すわらせてくれた。
「どうだ。コーチスボックスで見ているのと、実際にやるのとは、大違いだろう?」
芳樹がコクンとうなずくと、
「まあ、だんだんに覚えていけばいいからな。芳樹はきっといい選手になれるから」
監督がそういって、はげましてくれた。
四回の守りの時だった。センターの守備位置からホームの方をながめると、遠くの方に黒雲が出ている。
(あれっ、また天気が悪くなるのかな)
と、思っていたら、その黒雲がみるみるひろがってきた。なんだか、見ているだけで、胸がドキドキなって、気分が悪くなってくる感じだ。
この回も、どんどんランナーが出て、相手の攻撃が長くなっている。その間にも、黒雲がぐんぐん近づいてきた。
ザザッ、ザザザザザーッ。
ようやくツーアウトを取った時、とうとう強い雨が降ってきた。あっという間に、黒雲が真上までひろがってきたのだ。
「タイムッ!」
とうとう主審が宣言した。
「引き上げろーっ」
監督が、大きくこちらに手招きしている。
みんなは、一目散にベンチを目指してかけていった。芳樹も隼人とならぶようにして、全速力でベンチに向かった。
でも、守備位置が遠くだったから、ベンチに着いたのは一番最後になってしまった。もう帽子もユニフォームも、びしょびしょだ。
ザザザッ、ザザザッ。
すごい勢いの雨だった。グランド中を、あっという間に水浸しにしてしまった。あちこちに、大きな水たまりができている。そこに、バシャバシャと雨がはねかえっていた。
でも、昨日の台風のときとはちがって風は強くなかったので、地面に向かってまっすぐ雨が降っている感じだ。だから、ベンチの中にいればぬれる心配はなかった。
それでも、あたりは、真っ昼間なのにすっかり薄暗くなっている。まるでもう夕方になったみたいだ。頭の上には分厚い真っ黒な雲がたちこめている。
でも、どうやら通り雨のようだった。南の方には、もう青空が見えている。そのあたりは、お日様さえさしているようだ。すでに、かなり明るくなっていた。
観客たちは、車ににげこんだり、本部のテントまで避難したりしていた。ベンチのそばに広げられた、ビーチパラソルの下で雨宿りしている人たちもいる。
ふと気がつくと、大人たちにギュウギュウ詰めにされながら、裕香もビーチパラソルの下にいた。芳樹はじっとそちらを見つめていた。
(あっ!)
芳樹が見ているのに、裕香も気づいたようだ。こちらを向いてニッコリしながら、小さくVサインを送ってきた。芳樹も、隣の隼人に気づかれないようにして、そっとVサインを送り返した。
思ったとおりに、雨は十分もしないうちにあがった。
すぐに、強い日差しが戻ってきた。気のせいか、前よりも陽の光が強いように感じられた。あたりが、キラキラと光っている。空気が雨に洗われて、きれいになったせいかもしれない。そういえば、遠くの山々もはっきりと見えるようになった。
「じゃあ、整備してから始めますから」
審判が、ベンチまでやってきて監督にいった。
「すみませーん、みなさん、手伝ってくださーい」
監督が、また集まってきていた観客に頼んでいた。
何人かのおとうさんたちが、トンボ(土をならす道具)を手にグラウンドへ走っていく。相手チームの方からも、大人の人たちが出てきた。
審判の人たちは、ピッチャーマウンドとホームベースあたりに砂を入れている。それを、トンボでよくならしていく。
その間、芳樹たちはファールグラウンドで軽くキャッチボールして、ウォーミングアップをしていた。
「それじゃあ、試合を再開します」
大きな水たまりなどが整備されてから、審判が両ベンチに声をかけた。
芳樹は隼人ならんで走りながら、センターの守備位置に戻った。
その後も、試合は一方的に相手チームのペースで進んでいた。すでに大差をつけられていて、何点取られたのかわからないくらいだ。もしかすると、次の回あたりでコールド負けになってしまうかもしれない。
また、四球でランナーが一塁に出てしまった。
「ピッチ、ファイトー」
芳樹は、けんめいにピッチャーに声援を送った。芳樹のユニフォームは、さっきころんだせいで前も後ろも泥だらけだ。
「ピッチ、ファイトー」
隼人も、ライトからまねして声をかけている。こちらのユニフォームも、負けないくらい汚れている。
でも、隼人は、さっきまでよりも大きな声が出ていた。
「うわーっ!」
「すごーい!」
ふと気がつくと、両チームのベンチや応援のみんなが、何か大騒ぎしている。
「よっちゃーん!」
裕香がこちらにむかって大きく手を振って、芳樹のうしろの方を指し示していた。
(なんだろう?)
顔だけ動かして振りむくと、空いっぱいに大きな虹がかかっていた。