当時の「日本児童文学」の編集長の砂田弘が、自らも優れた幼年文学を書いている古田足日に聞く形で、1985年半ばの幼年文学の現状について概観しています。
その後の「幼年文学」の評論(関連する記事を参照してください)と比較すると、同業者たちに遠慮せずに現状の混迷(堕落)を批判しています。
例えば、当時の人気作家の角野栄子の人気幼年童話シリーズに対して、彼女の高学年向きの作品を評価しつつもこれらの幼年童話は「手抜き」だと批判し、当時の大ヒット作の矢玉四郎の「はれときどきぶた」もブラックユーモアや心をひらかせるものとして認めつつも「残念なことにそれらが浅い」と指摘しています。
また、神沢利子、山下明正、安房直子といった当時の幼年文学の大家たちの近作についても、文体もキチンとしているしテーマも安定しているとしつつ、「悪い意味で新鮮味に乏しい」「悪く言うと今までの作品の二番煎じ」と批判しています。
さらに、当時二十冊以上出ていた人気シリーズの寺村輝夫「ぼくは王さま」についても、現在の子どもたちの関心とは遊離してきていると指摘しています。
こうしたことができるのは、当時の児童文学界の権威者だった二人だったからかもしれませんが、彼らが評論家であるだけでなく実作者(特に古田は、幼年文学においても、「おしいれのぼうけん」、「大きい1年生と小さい2年生」、「ロボット・カミイ」などの優れた作品があります)としての豊かな経験があったからでしょう。
こうした既存作家の低調な作品が、新人たちに「幼年文学なんてこんなもの」と誤解させていることや、新人たちの「自分を表現したいという」要求が「本を出すという要求に自分の中ですりかわってしまった」ことなども、これらの安易な幼年文学を生み出している原因と指摘としています。
さらに、大量の(しかも質の低い)挿絵への依存や、話し言葉への安易な傾斜(幼年文学が子どもたちが出会う最初の書き言葉であることへの作者たちの無理解)なども指摘しています。
これらの危惧は、現代児童文学がスタートした直後の1960年代から、神宮輝夫や安藤美紀夫たちによって指摘されていて(それらの記事を参照してください)、一般的には「子どもと文学」(その記事を参照してください)の掲げた「おもしろく、はっきりわかりやすく」というスローガンが一人歩きしていった弊害だと認識されています。
これらの問題(既成作家と新人作家によるステロタイプの量産)は、現在では幼年文学だけでなく、児童文学全体に当てはまるようになってしまっています。
これは、幼年文学が、児童文学においてもっともプリミティブな存在であることと、読者である子どもたちの文学および書き言葉に対する受容力の低下を考えると、歴史の必然だったのでしょう。
さらに商業主義の問題にも触れて、「買い手の側に「俗流童心主義」があって、それに乗っかった作品群が生産されている」としています。
今後の可能性としては、後藤竜二「一年一組いちばんワル」(その後シリーズ化されてマンネリ化しますが)、伴弘子や伊沢由美子作品(題名不明、おそらく雑誌「日本児童文学」に掲載された作品だと思われます)などを引き合いに出して、新しい幼児・幼年観の確立の芽生えとして、子どもたちが他者を発見していく姿をあげていますが、一方で展望(出口)が提示されないままでは、たんなる生活童話に留まってしまう可能性があることも指摘しています。
以上のような批判は、「少年文学宣言」(その記事を参照してください)の流れをくむ正統派(?)の「現代児童文学者」の観点としては至極まっとうですが、初めて読書の楽しみを知るという「幼年文学」の側面を考えると、やや厳しすぎるかなという気もしました(現在はもっとひどいので)。
「現代児童文学」という文学運動は、1960年代ぐらいまでは評論と実作が両輪として機能していましたが、1970年代からはかなり遊離し始め、このインタビューが行われたころはかなり分離していたと思われます(おそらくこのインタビューも、そのころの幼年文学の書き手で真面目に読んでいた人はごく一部でしょう)。
日本児童文学 2017年 08 月号 [雑誌] | |
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