現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

オープンテスト

2020-09-07 09:25:33 | 作品

「おかあさん、ごはん、まだあ」

 今日もくたくたになるまで野球の練習があったので、正樹はおなかがペコペコだった。
 もうすぐ六年生になる春休み。本格的なシーズン開幕をひかえて、チームの練習はますます厳しさをくわえていた。
 真っ黒になったユニフォームを、洗濯機にドサッと放り込んで、風呂場に駆けこんだ。
 頭から熱いシャワーをあびると、ようやくすっきりしてきた。

 風呂場から出ると、テレビの横の電話がなりだした。
「はい」
「あっ、正樹くん」
 電話に出ると、いきなりなれなれしい感じで名前を呼ばれた。
 でも、聞き覚えのない声だ。
「はい、そうですが」
 正樹が答えると、相手の声の調子はうれしそうに甲高くなった。電話の相手は、E進学塾の人だった。隣のS市にある教室の塾長だという。
「すごーい成績でしたねえ。ノーマークだったので、びっくりしましたよ」
「えーっと、なんのことですか?」
 正樹が訳がわからずに聞き返すと、
「えっ、何って? もちろん、このあいだのオープンテストの結果ですよ」
 塾長によると、正樹の成績は信じられないくらいいいんだそうだ。全国6万7364人の中で87位。S市の教室では、二番目の好成績だそうだ。400点満点で383点。もっとも満点を取った子が、全国で7人もいたといっていたけれど。
「そうですか」
 ほめられているのだから、まんざら悪い気分はしない。
「それで、特待生の資格が得られましたから、無料で入塾できます」
 塾長は、少しあらたまった調子でいった。
「はあ?」
 全国で百位以内の子は、授業料免除だという。そういえば、テストのパンフレットにそんなことが書いてあったような気もする。
「ですから、ただで授業が受けられるのです」
 塾長は、念を押すように付け加えた。
「でも、まだ入るときめたわけじゃないし」
 正樹がそういうと、
「えー、そんなあ。せっかくの特待生の資格がもったいないですよ。今、行ってる塾の費用がいらなくなるでしょ」
 思いがけない反応に、塾長は少しあせったような声を出していた。
「べつに、どこも塾なんか行っていないし」
 正樹がそういうと、
「まさか、本当に? それで、この成績、……」
 塾長は、ますますびっくりしたようでしばらく黙っていた。
「おうちの方と、代わってもらえないかな?」
やがて、一段とていねいな口調でいった。
「はい」
 正樹は、台所のおかあさんに子機を持っていった。
「おかあさん、E進学塾の人から電話」
先ほどからけげんそうな顔でやりとりを聞いていたおかあさんは、エプロンで手をふいてから子機を受け取った。

「どうしたの、おにいちゃん?」
 玄関にいた弟の芳樹が、食堂に入ってきた。
「うん、塾から電話なんだ」
「ふーん」
「先に二人で食べてて。芳樹は手を良く洗うのよ」
 おかあさんが、受話器を手でふさぎながら小声でいった。
「はーい」
 芳樹は大声で返事して、すぐに洗面所へいった。
芳樹は、いつものように玄関でグローブをみがいていたのだ。自分の部屋は散らかし放題のくせに、野球の道具だけはすごく大事に手入れしている。すっかり色がはげてしまった正樹のとは違って、芳樹のグローブはいつでもピカピカだった。

夕ごはんを食べながら、正樹はおかあさんの様子をうがっていた。思いがけず長い電話になっている。
 でも、初めはかたかったおかあさんの表情が、だんだん笑顔に変わっていた。
 そんな正樹に引き換え、芳樹の方はまわりのことはぜんぜん気にせずに、ご飯を食べながらBS放送のプロ野球を熱心に見ている。本当に野球が好きな奴で、チームに入れるのは二年生からなのに、特別に三年前の一年生のときからチームに入れてもらっている。
 今日もボールが見えなくなるまで、家の塀にぶつけてゴロを取る練習をしていた。
 それにひきかえ、正樹がチームに入ったのは、少々不純な動機からだった。
実は、その前までかよっていたスイミングを、どうしてもやめたかったのだ。
スイミングには、一年のころからかよっているけれど、ちっとも上達しなかった。一緒に入った友達たちは、四級や五級にあがって、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライを続けて泳ぐ個人メドレーなんかをやっている。
ところが、正樹は、まだ八級で小さな子たちとポチャポチャやっていた。おまけに、そのころ教えてもらっていたコーチと相性が悪くて、怒られてばかりだった。おかげで、スイミングの日のたびに、朝から気分が悪かった。
 そこで、両親と取り引きをすることにした。スイミングをやめるかわりに、野球チームに入るってわけだ。
 そのため、チームに入ったのは、五年生になったときからだった。同学年のチームメートの中では、一番遅かった。
「正樹は、もう一年早く入っていたらなあ」
って、監督によくいわれる。そうすれば、チームの中心選手になれたというのだ。
 うちのチームでは、なるべく六年生を試合に使うようにしている。だから、正樹をなんとかレギュラーにしてやろうと、つきっきりで教えてくれるコーチもいるほどだ。
正樹は、本当は野球や水泳なんかするよりは、家で本を読んでいる方がずっと好きだ。ねっからの本の虫だった。本を読んでいると、すっかりその世界に入ってしまう。何もかもわからなくなって、時間がたつのを忘れてしまうのだった。学校の往き帰りにも本を読みながら歩いていて、近所のおじいさんに「若葉町の二宮金次郎」なんて呼ばれたこともある。

「はあ、本人とよく相談して、こちらからご連絡します」
 最後に、おかあさんは電話にお辞儀をするようにして、ようやく受話器を置いた。
「どうだったの?」
 正樹は、食卓に戻ってきたおかあさんにたずねた。
「十万人に一人の金のたまごなんだって」
 おかあさんは、電話に出る前とはうってかわって興奮気味だった。
「おそらくどこの塾にもいっていない子では、全国で一番っていってたわよ」
 そんなことをいわれても、ぜんぜんピンとこなかった。たしかに学校の成績は、算数、国語、理科、社会のすべての項目が、ぜんぶ「よくできる」だった。
 でも、他の子と成績を比較したことなんてない。だから、正樹は自分がそんなに勉強ができるとは思っていなかった。
「このまま順調にいけば、日本中のどこの私立や国立の中学を受験しても、合格まちがいなしなんですって」
 おかあさんの声は、すっかり上ずってしまっている。
 今までに、一度も受験なんてことは、家で話したことがない。それなのに、急にそんなことをいわれてもこまってしまう。
 たしかにクラスでも女の子の中には、私立を受けようとしている子がけっこういるようだ。そんな子たちは、四年生ぐらいから塾へ行っている。
 一方、正樹の学校では、受験する男の子はごく少数しかいない。
もちろん、男の子たちでも、近所の塾に通っている子はいる。でも、それは、学校の予習復習を中心としたもので、受験を目的にしているわけではない。
「特待生で費用も無料だっていうし、ためしにちょっと行ってみない?」
 おかあさんは、すっかりその気になってしまっている。
「何曜日なの?」
 うんざりした気分でたずねた。
「毎週、月、水、金の週三日ですって。もちろん、受験が近づいたらもっと増えるっていっていたけれど」
 電話しながら、いつのまにかメモを取っていたようだ。おかあさんは、それを見ながらいった。
「じゃあ、だめだ。ヤングリーブスの自主トレがあるもの」
 少しホッとした気分でそう答えた。
「でも、自主トレは別にいかなくてもいいんでしょ。週末の正式な練習や試合には、今までどおり出られるんだし」
 おかあさんはそういって、ねばってくる。
「だめだよ。自主トレっていったって、監督やコーチも来てくれるんだよ。そこで、きちんと練習しなかったら、うまくなれないんだよ」
 正樹は少し声をはりあげて、おかあさんの要求をつっぱねた。
「うーん、そうなのお」
 おかあさんは、なかなかあきらめきれないみたいだった。

 正樹がE進学塾のオープンテストを受けにいったのは、先々週の日曜日だ。たまたまその日は、監督たちの都合が悪くて、少年野球の練習が休みだった。
 同じクラスの宮ちゃんに頼まれて、正樹は一緒にテストを受けにいくことになっていた。
「マサちゃん、頼むよ。一人だけだと心細くって」
 前の日に、そう泣きつかれたのだ。宮ちゃんは、おかあさんに無理やりいかされることになってしまっていた。
「しょうがないなあ」
 無料だというので、正樹は付き添いのようにして一緒に受けに行くことになった。
 E進学塾は、駅前にある大きなビルだった。入り口のガラスのドアにも、まわりの壁にも、今年の合格者の名前がズラリと貼ってある。
 筑波大付属31名、開成54名、麻布37名、 ……。
 威勢のいい大きな数字がおどっている。
 ビルの中にもまわりにも、試験を受けに来た子どもたちと、付き添いの親たちであふれていた。
「うわーっ、すごいなあ」
 そんなみんなの熱気に、正樹たちはびっくりしてしまった。
おかげで、宮ちゃんはすっかり緊張している。
 でも、「付き添い」の正樹の方は、気楽なものだった。
 テストは、学年別にいくつもの教室に別れて行われた。
 E進学塾に通っている子たちも、参加しているようだ。教室に入ってからも、グループになって楽しそうにおしゃべりしている。
 それにひきかえ、緊張した面持ちでポツンとすわっている子たちもいる。テストだけを受けに来た子たちなのだろう。これじゃあ、宮ちゃんがビビッているのも無理はない。
 テストが始まった。問題は学校のとは違って、クイズのようなものばかりで、初めは少し面食らった。
 でも、こつがわかれば何ということはなかった。
 正樹は、問題をどんどんといていった。やっているうちに、正樹はだんだん夢中になっているのがわかった。もしかすると、正樹はこうした試験勉強にむいているのかもしれない。
けっきょく、どの科目も、制限時間前に楽々と終えることができた。
 しかし、まさかこんなにいい成績だとは思わなかった。
(宮ちゃんには秘密にしなくちゃなあ)
特待生のことを話したら、きっとすごくうらやましがるにちがいない。あまりできなかったので、おかあさんにしかられたっていっていたから。
(こんなことなら、オープンテストなんか受けなければよかったなあ)
と、正樹は思っていた。

 ヤングリーブスのメンバーが、試合前のウォーミングアップをやっている。ヤングリーブスは、正樹たちが入っている野球チームだ。
「こんちわーっ」
「よろしくお願いしまーす」
 練習試合の対戦相手、リトルダンディーズがグラウンドに現れた。
 今日の試合で、正樹は先発出場する。
 でも、守備位置はライトで打順は8番だ。俗にライパチと呼ばれる9番目のレギュラーポジションだった。昨年暮れの新チーム結成以来、かろうじてそのポジションを保っていた。
 しかし、最近は五年生の西田くんに、レギュラーの位置を激しく追い上げられている。
 Aチームの練習試合に先だって、五年生以下のBチーム同士の試合が始まった。
 ヤングリーブスのマウンド上にいるのは、弟の芳樹。まだ新四年生なのに、五年生たちを押しのけて、Bチームのエースピッチャーをまかされている。
 一球目。
四年生とは思えないような伸びのある速球が、ピシリと外角低めに決まった。
「いいぞ、芳樹。それならAでも投げられそうだぞ」
 監督の機嫌の良さそうな声が、グラウンドにひびきわたった。

 レギュラー同士によるAチームの試合が始まった。
 二回の表、正樹に最初の打席がまわってきていた。
 リトルダンディーズのピッチャーが、三球目を投げ込んできた。
 どまん中の直球。
 でも、思わず見送ってしまった。
「ストライーック」
 カウントは2ストライク、1ボール。早くも追い込まれてしまった。
「なんで、打っていかないんだ」
 ベンチでは、監督がこわい顔をしてどなっている。
そして、
(積極的に打っていけ)
のサインが出た。
 正樹は、
(わかった)
の合図に、ヘルメットをコツンとたたいた。
 ピッチャーはすばやく次の球を投げ込んできた。
 力いっぱいスウィング。
 でも、ボールはとんでもなく高い球だった。
 からぶりの三振。そのはずみに、バランスをくずしてしりもちをついてしまった。ヘルメットまで大きくふっとんで、コロコロころがっていく。
 両チームのベンチや観客の間から、小さな笑い声が起きた。
「マサ、おまえなあ。見送るのと打つ球が逆なんだよ。これじゃあ、レギュラーあぶないぞ」
 すごすごとベンチに引き上げていくと、監督はあきれたような声をだしていた。

「公立中学に進むと、その後がけっこう大変なんですってよ」
 塾の説明会から帰ったおかあさんは、興奮気味に話し出した。聞くだけでもと思って、正樹に内緒で行ってきたようだ。今日は、よそゆきの服を着て、きれいにお化粧している。
 おかあさんは、山ほどもらってきた資料を前に、熱心に特待生になることをすすめはじめた。および腰だったこの前とは、ぜんぜんいきおいが違う。どうやら、塾ですっかり洗脳されてしまったようだ。
「野球があるから、最後のキャロル杯が終わる11月までは無理だよ」
「でも、最初は平日だけでいいんですってよ。マサちゃんなら、シーズンが終わってからラストスパートしてもだいじょうぶだって。麻布でも、開成でも、日本中の好きな中学に入れるのよ」
「だって、そうしたら自主トレには出られなくなるじゃない」
「でも、自主トレは別にいかなくてもいいんでしょ。正式な練習や試合にはでられるんだし」
(ぜんぜんわかってないなあ)
と、正樹は思った。 
 ヤングリーブスでは、平日は子どもたちだけで「自主トレ」をやっている。
 でも、ランニングやキャッチボールが終わる五時すぎからは、監督やコーチたちも交替に仕事を早く済ませて顔を出してくれていた。そして、ノックやフリーバッティングを、みっちりとやってくれるのだ。
 練習場所にしている校庭にはナイター設備はないので、暗くなってからは校舎よりにみんなが集まった。職員室からもれてくる光をたよりに、ベースランニングやすぶりをじっくりと見てもらえるのだ。
 週末には大会や練習試合が多いので、基本練習をみっちりとやる場はここしかない。塾へ通うようになると、その自主トレに参加できなくなる。今でもあぶないレギュラーの座は、完全にあきらめなければならなくなるだろう。
 いくらおかあさんに塾をすすめられても、正樹はとうとう最後まで、
「うん」
と、いわなかった。

 その日の夕食の時だった。
「バッティングセンターに行きたいんだけど」
 正樹は、ためらいがちにおとうさんにいった。
「えっ、今から?」
 おとうさんはしばらく迷っているようだったが、
「よし、わかった」
というと、すでにテーブルに出してあった缶ビールを冷蔵庫に戻した。車を運転するためだ。
 今日は、おとうさんも昼間の試合を見に来ていた。だから、三振の次の打席で、チャンスに代打を出されてしまったのを覚えていてくれたらしい。代わって打席に立った西田くんは、三塁線を痛烈に破るタイムリーツーベースをはなっていた。
「ぼくも行く」
 アニメを見ていた芳樹が、すぐに割り込んできた。
「よっちゃんは今日はいいよ」
 おとうさんがあわててそういうと、
「おにいちゃんばっかなんて、そんなのずるいよ」
と、ふくれっつらをした。 
「ちぇっ、しょうがないなあ。また、おとうさんのこづかいがぜんぶふっとんじゃう」
 おとうさんは、あきらめ顔だった。
 夕食を食べ終わってから、すぐにおとうさんの運転でバッティングセンターに向かった。自転車だとすごく時間がかかるけれど、車で行けば十分もかからない。
 ここのバッティングセンターには、高尾バッティングスタジアムなんて、大げさな名前がついている。
 でも、本当は、六打席しかないおんぼろのバッティングセンターだ。左利きの正樹が使える左右両打席があるマシンは、たったひとつしかない。
 ここのバッティングセンターは、コイン式で一個三百円だ。一回に打てるのは約二十五球。どんどんボールがくるから、五分もしないで終わってしまう。二人でやったら、すぐに五千円ぐらいは飛んでしまうことになる。
「いらっしゃいませ」
 正樹たちが中に入っていくと、スピーカーから声がした。一番奥の小さな小屋に、整髪料でテカテカした髪の毛をオールバックにしているおじさんがいて、いつも小さなテレビを見ていた。
 おとうさんは、そのそばにある両替機にいってコインを買っている。
 先に来ていたお客さんは、三人しかいなかった。
 カキーン。
 カキーン。
 みんな気持ちよさそうにボールを打っている。
(ラッキー!)
 左打席のあるマシンは、ちょうどあいていた。正樹は、かさ立てに無造作につっこんであるたくさんの金属バットの中から自分にあった長さのバットを選んで、ネットをくぐって打席に入った。
「入れるよ」
 外のコイン挿入口のところで、おとうさんが声をかけた。
「いいよ」
 正樹は、バットをかまえてマシンにむかった。
 その日、芳樹は四、五回で飽きてしまってやめていたけれど、正樹は十回も打たしてもらった。
 しかし、それでもバッティングの調子は、とうとうあがってこなかった。

 特待生への説明会は、成績優秀者の表彰という名目で行われた。
 当日、E進学塾の塾長室に来ていたのは、正樹ともう一人。浅黒い顔をした背の高い男の子だった。特待生になるような秀才というよりは、サッカーアニメのキャプテンのようなスポーツマンタイプの子だ。
 でも、その成績はなんと400点満点。つまり全国トップの七人のうちの一人だったのだ。
 やせて背の高いめがねをかけた塾長から、二人は表彰状と小さな盾をもらった。
 正樹の盾には、
(石川正樹、全国87位)
と、金文字で彫り込まれている。
「それでは、入っていただけるかどうかは後でお聞きするとして、まず教室にご案内します」
 塾長について、二人は教室に向かった。
 この塾では、6年生はSS、S、A、B、C、D、E、Fと、8クラスもあった。もちろん成績別だ。教室の入り口には、そこの生徒が合格可能な私立中学の名前がはってある。
 でも、F組だけには何もはってなかった。
「F組、英語でFalse、つまり落第組です。3ヶ月続けてこのクラスになると、自動的に退会してもらいます」
 塾長は、ニコリともしないでそう説明した。
「でも、お二人にはまったく関係ありませんけどね」
 正樹が表情をかたくしたのに気づくと、塾長はあわてたように付け加えた。トップの子は、そんな二人を面白そうにニヤニヤして見ている。
(筑波大付属、学芸大付属、麻布、開成、……)
 SS組の入り口には、正樹でも聞いたことがあるような有名中学の名前がはってあった。
 塾長がドアを開くと、十数人いた生徒のうち数人がこちらを振り向いた。
 でも、すぐにまた熱心にノートに何かを書き込みはじめた。どうやら、算数の演習問題かなにかをやっているようだ。
「席は成績順に前の真ん中から並べてあります」
 塾長が声をひそめて説明した。
 最前列の真ん中に、ひとつだけ誰もすわっていない立派な席が設けてある。ひじかけのついた皮ばりの、まるで王様がすわるような椅子だ。
「あれが、特待生の席です。リクライニングにもできるんですよ。背もたれの上の部分には、名札を入れるようになっています。だから、あの席にはその名前の人だけしかすわれません。あそこにすわることを目標に、みんなががんばっているのです」
 特待生席にすわったら、
(まるでパンダか何かの見世物になったようで落ち着かないだろうな)
と、正樹は思った。
「今までは、この教室ではいつも一人いるかいないかだったのです。まさか同時に二人も出るなんて、とても名誉なことです。もうひとつの椅子は、すぐに用意させていますから」
 塾長はうれしそうにそう付け加えた。
 事務室まで戻ると、塾長はロッカーから黄色いジャケットを取り出してきた。胸には獅子をかたどった塾のエンブレムがついている。
「塾に来ている間は、このイエロージャケットを着てもらいます」
 塾長は、自慢そうにこちらにジャケットをさしだした。
「えーっ!」
 正樹はびっくりして、思わず声を出してしまった。
(ますます、客寄せパンダだ)
 でも、トップの子は、すでに知っていたのか、まったく平気な顔をしている。塾長からジャケットを受け取ると、あっさりとそでをとおした。まるであつらえたように、ジャケットはトップの子にぴったりだった。きっと正樹だと、かなりブカブカに違いない。
「似合いますねえ」
 塾長が、うれしそうな声を出した。
「これも、すぐにもう一着取り寄せますから」
「夏でも、これを着なくてはいけないんですか?」
(暑苦しそうだな)
と、思ったのだ。
塾長はまさかという顔をして、
「夏用には、ちゃんとエンブレムの着いた黄色いポロシャツも用意してありますよ」
と、正樹が入塾に傾いてきたとでも思ったのか、うれしそうに答えた。
「ただし、みなさんは、毎回、特に出席なさらなくてもいいんです」
 塾長が、奇妙なことをいいだした。
 正樹がけげんそうな顔をしていると、塾長は特待生の条件について説明した。
 要は、条件はたった一つ。それは、毎月の終わりにテストを受けること。そして、E進学塾全体で、今回のように百番以内にとどまっていることだけだ。
 でも、 これは、けっこうきつい条件だった。
 E進学塾は、全国に100教室以上あって、生徒は何万人もいる。それに、どうしても、都会の教室の方が生徒も多く、レベルも高いからだ。
 しかも、いつもオープンテストになっている。だから、今回の正樹のように、外部から受ける子もいた。そういえば、このトップの子も、塾生ではないようだ。
「もし、百位以下に落ちたら?」
 その子が初めて口を開いた。
「それは、あらためて普通の生徒になってもらいます」
 塾長は、当然という感じで答えていた。
 でも、トップの子は平然としてまたニヤニヤしていた。
(さすがに一番の子は余裕があるなあ)
と、正樹は思った。
 すべての説明が終わって、塾長は玄関まで二人を送ってきた。
「こんちわあ」
「ちわー」
 通ってくる塾生たちが塾長にあいさつしながら、チラチラとこちらに視線を送ってくる。どうやら二人が特待生だと、気づいているみたいだ。
「ところで、日当はいくらですか?」
 突然、トップの子がいった。
(日当?)
 びっくりしてトップの子の顔をみつめた。
 でも、塾長は、特に驚いたようでもないようだ。ただまわりの人たちに聞こえないように、声をひそめて答えた。
「本当はご両親にお話するのですが、原則としてひとつの講義あたり千円でお願いしています」
 どうやら、出席するだけで特待生にお金をくれるらしいのだ。
(一講義あたり千円だって?)
 一日に二講義あるから、両方出れば二千円。週三回行ったとしたら、
(フエー、六千円にもなってしまう。)
 そんなお金があれば好きなだけバッティングセンターへ行けるなと、頭の中でチラッと思った。
「S進学教室は、お祝い金が五万円で、日当は三千円でしたよ」
 トップの子は、ニコリともしないでいった。
「えっ、……、まあ、……。じゃあ、その件は、後ほど個別にお話しましょう。私もそれまでに本部と相談しておきますから」
 塾長は急にあせった表情を浮かべて、正樹の様子をうかがいながら答えた。
(ははあ)
 もしかすると、トップの子だけ日当を上増しにしようというのかもしれない。
 でも、正樹はそのままだまっていた。まだ塾に入るかどうかは決めていなかったので、トップの子が日当をいくらもらおうが、正樹には関係なかったからだ。
「それじゃあ、今日はご苦労様でした」
 塾長は、二人に向かって頭を下げた。
「どうもありがとうございました」
 正樹も、ペコリとおじぎをした。
 でも、トップの子はさっさと先に歩き出していた。正樹は、トップの子と少し距離をとって、駅に向かって歩き出した。

 トゥルルルー。
 発車をつげる電子音が鳴っている。正樹はけんめいに階段を駆け上がった。
 プシューッ。
 惜しくも目の前でドアがしまってしまった。ライトイエローの車体が、正樹を取り残して走り出していく。
「やあ、残念だったね」
 振り向くと、あのトップの子がいた。反対方向の電車を待っているようだ。
「うーん、次は十分後かあ」
 電光掲示板を見ながらいった。
「ところで、どうするの? Eに入るの?」
 トップの子がたずねてきた。
「どうしようかなあと、迷っているんだ。少年野球の練習とも重なっちゃうし」
 正樹は、正直に自分の気持ちを話した。
「なーんだ、そんなの。籍だけ置いておけばいいんだよ。行かれる時に顔を出すだけで、けっこういいこづかいになるし」
 トップの子は、ケロリとした顔でそんなことをいってのけた。
「そんなあ」
 正樹は、すっかりびっくりしてしまった。
「俺なんか、Sだろ、Zだろ。それにTでも特待やってるし。Eで四つ目だぜ。ぜんぶあわせれば、月に10万円はかたいな」
「すげえ。それじゃあ、まるでプロみたいじゃない」
 正樹が驚いていうと、 
「そう、おれはプロの受験生なんだよ。野球だって、サッカーだって同じじゃないか。特技を生かすのがなんで悪いんだよ。それに塾の方じゃ、合格実績を伸ばして、それを目玉に普通の生徒をたくさん集めたいだけなんだから」
 確かにあのクイズのような問題で競うのなら、勉強というよりはゲームに近い。だったら、いってみれば特殊技能を競い合わせているだけなのかもしれない。
「塾の入り口に有名中の合格者数がはってあったろ。あれ、全部の塾で発表している数を足してみな。実際の合格者数よりずっと多くなるから。みんな、おれみたいなかけ持ちの特待生がいるからさ」
「えーっ?!」
 それじゃ、まるで詐欺みたいだ。
 ちょうどその時、反対側のホームに電車が滑り込んできた。
「じゃあな。君ももっと気楽に考えて、まずはお金をもらっておいて、嫌になったらその時やめればいいじゃない」
 トップの子はそういうと、さっさと電車に乗り込んでしまった。

 いよいよ市の春季大会が、明日にせまった。ヤングリーブスのメンバーは、試合の備えて最後の調整に余念がない。
 外野と内野に別れて、守備練習をしていた。正樹は他の外野手にまじって、校舎側で監督がノックするフライを受けていた。
「オーライ」
 センターの良平ががっちりと打球をキャッチした。
 次は、正樹の番だ。
 カーン。
 フラフラっと、当たりそこねのフライが前方にあがった。正樹は、帽子を飛ばしてけんめいに前進した。
 追いついたと思った瞬間、ポロリとボールを落としてしまった。これで、今日は三度目の落球だ。
「何やってんだ、マサは。いつも一歩目が遅いんだよ。だから取る時に余裕がないんだ。注意されてることを、どこで聞いてるんだあ」
 カーン。
 次の打球は、左側へ切れていくむずかしいフライだった。
 でも、西田くんはすばやくまわり込んでナイスキャッチ。
「いいぞ、ニシ」
 監督が機嫌良さそうな声でいった。
 シートバッティングが始まった。レギュラーから、打順どおりに打っていく練習だ。
 1番、良平、2番、……。
 さすがに3番の康太や4番の祐介は、いいあたりのライナーを連発している。祐介の打球が、ライトを守っている正樹の頭上を軽々と超えていった。
「あぶないから追うなあ!」
 監督が大声で叫んだ。正樹は追いかけるのを途中であきらめた。ボールは校庭の端のフェンスを超えて、学校の自然観察林へ入ってしまった。
 正樹は、打順どおりの八番目にバッターボックスに入った。
「おねがいしまーす」
 ヘルメットをぬいで、バッティング投手をやっている監督にペコリと頭を下げた。
 1球目、2球目、……。
 なかなかいいあたりが出ない。空振りやファールチップばかりだ。たまに前に飛んでも、ボテボテのピッチャーゴロや内野へのポップフライ。
「ラストスリー!」
 しびれを切らした監督が、早めに切り上げようとした。
 でも、最後の3球が終わっても、いいあたりはでなかった。
「ありがとうございました」
 ラストボールを空振りして、バッターボックスをはずそうとした。
「マサ、いいのか?」
「えっ?」
「お前は、ほんとにねばりがないんだなあ。素直に人のいうことばかり聞いてちゃ、だめなんだよ」
 監督が、苦笑いしながらこちらを見ている。
「もう一球、お願いします!」
 正樹は、大声で叫んだ。
「よーし」
 でも、次の球もボテボテのゴロ。
「もう一球!」
 カーン。
 ようやくライナー性の当たりが、内野の頭を超していった。
「ありがとうございました」
 またヘルメットをぬいで監督にあいさつすると、ライトの守備位置に戻っていった。
 次は9番の健太。
 健太のバッティングは、正樹よりはだいぶましだ。
 それに続いて、補欠の一番手、西田くんがバッターボックスに入った。
 カーーン。
 西田くんは、今日も鋭い打球を連発していた。

「今から、今日のオーダーを発表する。1番ショート、良平、……」
 監督が、メンバー表をゆっくりとよみあげはじめた。ヤングリーブスのメンバーは、そのまわりに円陣をつくってこしをおろしている。
 日曜日の早朝練習でのミーティング。いよいよ今日から、市の少年野球大会、春季トーナメントが始まる。
「……、8番、ライト、ニシ」
 みんなが、一瞬、
(オヤッ?)
という感じの表情になった。
「9番、セカンド、ケンタ。以上のメンバーでいく」
 メンバー表をよみおわると、監督はグルリとみんなの顔をみまわした。レギュラーにえらばれた選手たちは、無言で小さくうなずいている。他のみんなも、公式試合にむけての緊張感が高まってきていた。 
 その中で、正樹だけは、自分のまわりがポッカリとその雰囲気からとりのこされてしまったように感じていた。
発表された先発メンバーの中に、正樹の名前はなかった。とうとうレギュラーポジションのライトを、西田くんに取られてしまったのだ。
 一度負けてしまえばそれっきりのトーナメント戦。練習試合とは違って、ベストメンバーでのぞまなければならない。実力があれば、六年生だろうが、五年生だろうが、区別はできなかった。たとえその結果、六年生で正樹だけがレギュラー落ちしたとしても。
「他のみんなも、どんどん途中から出すからな」
 監督は、正樹の方を見るようにしてそう付け加えた。

「ベンチ前!」
 キャプテンの祐介の声とともに、みんなが一列になった。正樹はいつものレギュラーの位置からはずれて、はじの方に並んだ。正樹の位置には、西田くんがはりきってならんでいる。
「集合!」
 両チームのメンバーが、ダッシュでホームプレートをはさんで整列していく。
「おねがいしまーす」
 審判の号令に合わせたあいさつで、一回戦の試合が始まった。
 後攻のヤングリーブスが、守備位置にちっていく。いつもの正樹のポジションであるライトへは、西田くんがかけていった。
「しまっていこうぜ」
 マウンドでは、キャプテンの祐介がうしろを振り返って、みんなに大声を出している。
「がっちりいこー!」
 正樹は他の下級生たちと一緒に、ベンチから声援をおくった。
 芳樹もすぐそばにいる。メンバー発表の時に、チラッとだけこちらを見たけれど、それきりで何もいってこなかった。
 でも、ふがいない兄貴のことを、恥ずかしく思っているかもしれない。
(やっぱり野球なんかもうやめてしまって、どこかの塾の特待生にでもなろうかなあ?)
 そうすれば、あの塾長がいっていたように、開成でも、麻布でも、どこでも好きな中学に入れるかもしれない。
(ぼくは、野球よりも勉強の方が向いているのかなあ?)
 チームに声援を送りながら、正樹はそんなことをぼんやり考えていた。

ライナー性のあたりが、右前方に飛んできた。正樹は、けんめいにボールに飛びついた。
 でも、グラブを出すのが遅れて大きくはじいてしまった。
「正樹、上体をあんまり突っ込むな。あわてなくても間に合うから」
 ノックしてくれたおとうさんがいった。
「もう一回」
 ボールを返しながら、大声で叫んだ。
 今度は、正面に高いフライが来た。これは、がっちりとキャッチできた。すばやく中継の芳樹に送球。
 ところが、送球が左に大きくそれてしまった。芳樹のグラブをかすめるようにして、ボールは公園の外まで飛び出していった。
「力が入り過ぎなんだよ。こんな近くでそんな投げ方するなよ」
 芳樹はブツブツ文句をいいながら、ボールをひろいにいっている。
「ごめん、ごめん」
 正樹は、もう一度スローイングのフォームを確認しながら、芳樹にあやまった。
 今日から学校へ行く前に、近所の公園で、おとうさんに頼んで守備の特訓をしてもらうことになった。
 昨日の試合では接戦での勝利だったせいか、とうとう正樹には出番が来なかった。せめて守備だけでも監督の信頼を勝ち得て、なんとか試合に出たかった。
 特訓は、毎朝7時30分から、登校班が集合する7時50分までやることになっている。そのために、おかあさんにも7時15分までには朝食を準備してくれるように頼んであった。
 キャッチボールからはじめて、途中からはゴロやフライのノックもしてもらった。 
 例によって、練習には芳樹もいっしょについてきていた。キャッチボールの相手やノックの中継役をやってくれている。
「おーい、みんなあ、時間よお」
 公園の外から、おかあさんが声をかけてきた。
「よし、今日はここまでにしよう」
 おとうさんは、バットをクルクルまわしながら歩き出した。
「ほい」
 おいついてきた芳樹が、ボールをこちらにトスしてきた。
「ほい」
 正樹が投げ返す。
「ほい」
 芳樹が、またボールを戻す。
 二人で軽くボールを投げ合いながら、家に戻り始めた。

「いーち」
 ブン。
「にーい」
 ブン
 夕方、家の前で、正樹は、芳樹と二人で、バットの素振りをやっていた。これも、毎日100回以上はやろうと決めていた。
 こんな時、いっしょにやれる弟がいると何かと便利だ。一人だとなまけそうになるけれど、二人だとはげましあってできる。おまけに、芳樹はもともと正樹よりも熱心なのだ。こんなかっこうの練習相手はいない。
「じゅーう」
 ブン。
「じゅーいち」
 ブン。
 良く見てみると、芳樹のスウィングは正樹よりも鋭い。コンパクトなフォームから、なめらかにバットが出ている。
 それにくらべて、正樹のスウィングはぶれが大きい。テークバックが大きすぎるのかもしれない。正樹は意識して、フォームをコンパクトにするようにこころがけた。
「じゅーご」
 ブン。
「じゅーろく」
 ブン。
 だんだんスウィングが、なめらかになっていく。これも、芳樹と一緒に素振りをしているおかげだ。
「マサちゃん」
 うしろから声をかけてきたのは、宮ちゃんだった。ショルダーバックをななめにしょって、自転車にまたがっている。
「やあ、どこに行くの?」
 素振りの手をとめて振り返った。
 でも、芳樹はそのまま同じペースで続けている。
「E進学塾。やっぱり、おかあさんが入りなさいって」
「ふーん」
「でも、下から二番目のE組だから、よっぽどがんばんないと志望校の合格はむずかしいけどね。マサちゃんは、オープンテストの成績がよかったんだろ?」
「うん、まあ、……」
 特待生のことは、宮ちゃんには内緒にしてあった。
「じゃあ、遅れちゃうから」
 宮ちゃんはそういって、自転車で走り出した。
「にじゅーご」
 ブン。
「にじゅーろく」
 ブン。
 正樹は遠ざかっていく宮ちゃんを見送りながら、また芳樹との素振りを始めた。

 ルルルー、……、ルルルー、……。
「はい、E進学塾S教室ですが」
「あのー、石川正樹っていいますが、塾長先生をお願いします」
 タララララー、ララララー、……。
 電話の切り替えの間、ディズニーランドのイッツ・ア・スモール・ワールドのメロディーが流れてきた。
「あっ、正樹くん、決めてくれたの?」
 いきなりうれしそうな塾長の声がした。
「あのー、実は、……」
 さんざん迷った末に、特待生を断ることに決めたのだった。
 昨日の夜、正樹はそのことを、両親に話した。
「やっぱり塾へ行くのはやめるよ。今は、ヤングリーブスに集中したいんだ」
 正樹がそういったら、
「そうか。そうだよな。中途半端になっちゃうからな」
 正樹にレギュラーを取り戻させたいと思っているおとうさんは、すぐに賛成してくれた。
「うーん、もったいないような気もするけれど、……」
 おかあさんの方は、最後まで未練たっぷりだった。
「まさか、S進学教室に行くんじゃないですよね。日当が不満なら、一日三千円までならなんとかしますから。それにお祝い金も、……」
 E進学塾に入らないことを聞いて、塾長はあわてて話だした。
「いえ、そういうことではなくて、今やっている少年野球の練習に専念したいからなんです。そのためには、……」
 塾長の説明をさえぎるように、理由を話し出した。
「少年野球って、シーズンはいつまでなの?」
 他の塾へはいかないとわかって、塾長は少し落ち着いたようだ。
「11月いっぱいです。それからは、新チームに引き継がれますから」
「そうか、それならそれからでもいいですから、うちへ来てくださいよ。君ならそれから始めても、国立や開成は無理だとしても、桐朋や早実なら十分いけますから」
「でも、私立を受けるつもりもありませんし」
 小学校を卒業したら、地元の公立中学で野球を続けるつもりだった。
「そうですかあ。いやあ、もったいないなあ。でも、いつでもいいですから、もし気が変わったら電話くださいね」
 塾長は、最後まであきらめきれない様子だった。

 次の日曜日。トーナメントの二回戦が行われた。
 ヤングリーブスは、先週の一回戦を6対5で勝って、ここにこまを進めていた。接戦だったせいもあって、先週はとうとう正樹の出番はなかった。
 今日も、とうぜんのように西田くんが先発だった。西田くんは、先週の試合でも二安打をはなち、好調を保っている。
正樹は、今日もベンチで控えにまわっていた。
 でも、今日は、正樹は積極的に応援していた。
「バッチ、しっかり打っていこう」
「ピッチ、おちついていこう」
 ベンチにすわっていても、一番声を出していた。攻撃の時には、自ら進んで一塁や三塁のランナーコーチもかってでた。
「まわれ、まわれ」
 右手をグルグルまわして、ランナーに合図を送る。
「バック!」
 ピッチャーのフォームを見ていて、牽制球の時にランナーへ大声で指示を出す。塾を正式にことわって、すっかりふっきれた気分だった。
「マサ、行くぞ」
 6回の守備の時に監督がいった。
「ニシ、交替だ」
 守備位置にむかいかけていた西田くんが、くやしそうな表情をうかべてもどってきた。
 あわててベンチからグラブを拾い上げると、ライトにむかって走り出した。ようやく、毎朝の特訓の成果を示すチャンスがやってきた。
 あれからは、一日もかかさずに守備練習を続けている。芳樹との素振りもだんだん数が増えて、てのひらにはマメができて固くなっていた。
 今日の二回戦は、先週と違って6対1と大量リードしている。打順も、西田くんが打ち終わったばかりだった。最終回に、正樹まで打席がまわってくることはないだろう。もしかすると、これは監督の温情での出場なのかもしれない。
 でも、そんなことはどうでもいい。
 お情けだろうがなんだろうが、なんとかこの機会を生かしたい。
(ライトに打球が飛んでこないかなあ)
 正樹は、守備位置で心からそう願っていた。こんな気持ちになったのは、試合に出るようになってから初めてのことだ。今までは、逆に自分のところに打球が飛んでこないことを祈っていたのだ。
「バッチ、こーい」
 大きくかけ声をかけながら、いつのまにか、前よりも野球が好きになっている自分に気づいていた。

 


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