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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

古田足日「未来と現実 ― 新しい児童文学の創造」児童文学の旗所収

2017-11-03 13:49:27 | 参考文献
 1960年3月に信濃教育に掲載された評論です。
 他の記事にも書きましたが、この時期は、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)はまだ混迷期にあって、前年に出版された、後に「現代児童文学」の出発点とされる佐藤さとる「だれも知らない小さな国」といぬいとみこ「木かげの家の小人たち」の評価も定まっていませんでした。
 また、石井桃子がファンタジー論を書いた「子どもと文学」もまだ出版されておらず、それに影響を受けた著者のファンタジーに関する考えもまた定まっていません。
 しかし、ここにおいても、その当時のリアリズム作品(例えば「山が泣いている」)が現象の模写にとどまり、それらがかつての生活童話のような矮小な世界に陥ることを憂えています。
 その現状を打破する方策として、著者が打ち出したのはイマジネーションを発揮して現実を立体的に見ていくことでした(後に、その役目をファンタジーに期待するようになります)。
 他の記事にも書きましたが、その当時著者が「現代児童文学」で本当に書きたかったものは、階級闘争(基地闘争、ダム闘争、高校進学問題など)とその勝利です。
 そのためには、現状を克明に描写するだけでなく、未来をリアリティをもって描き出せるようなイマジネーションが必要でした。
 また、それらを一般大衆(特殊な例を除いて、子どもたちは一般大衆そのものです)に読んでもらえるようなエネルギー(例として、「水滸伝」や「西遊記」をあげています)も必要です。
 壮大な想像力(イマジネーション)とエネルギー(読者自身のエネルギーをかきたてるようなスケールの大きな面白さということでしょう)の統一に、著者は理想の児童文学の姿を見ています。

児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ)
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小野不由美「残穢」

2017-11-02 10:20:00 | 参考文献
 ホラー作家(小野自身か?)が、熱心な読者が住むマンションでの怪異現象の秘密を追求していく話です。
 原因を調べていくうちに怪異現象が家や土地に取りつき、さらにそこに住んだ人や物に感染して拡散していった様子が描かれていきます。
 話が未来方向へ進むだけでなく過去(最終的には明治時代にまで)へも遡り、空間的にも都内から各地(最終的には福岡県)にまで広がりを見せます。
 この感染力が無限大に強いと怪異現象だらけになって逆に嘘っぽくて怖くなくなってしまうのですが、感染力は代を重ねると減退するし、感染しても怪異現象が発現しない場合もあるという設定が絶妙です。
 また、どこまでが真実で、どこからがフィクションなのかが分からないように書かれている点がみそで、擬ノンフィクションの手法が成功していると思いました。
 児童文学の世界でも、社会問題などをテーマに作品に書くときには、この擬ノンフィクションの手法は使えそうで、前に収集した子どもをめぐる社会問題をテーマにしたシノプシス群を実際に作品化するときには、ぜひ使ってみたいと思っています。

残穢
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古田足日「現代のファンタジーを=児童文学時評‘68」児童文学の旗所収

2017-11-01 18:17:27 | 参考文献
 「学校図書館」1968年7月号から9月号にかけて掲載された児童文学時評です。

7月号
 中級対象の空想物語について批評しています。
 対象にあげられた数作のうちで、歴史に淘汰されずに生き残ったのは、あまんきみこ「車のいろは空のいろ」だけです。
 著者もこの中では一番と認めつつも、古い童話形式であることを理由に、この作品も批判しています。
 この批判の仕方は、メルヘンをファンタジーでないと言っているだけで、少しも本質的な批評にはなっていません。
 その後、著者は、童話的資質に恵まれた作家(当然あまんきみこも含まれます)の童話作品は評価するようになりますが、この時点ではまだ現代児童文学の散文性にこだわっていました。
 この時に著者が認めていた空想的な物語は、その作品世界がその世界におけるリアリズムに貫かれている作品、つまりファンタジーだけでした。
 それは、その手法が社会的な問題を、当時のリアリズム作品(例えば「山が泣いている」)のような現状の模写にとどまらすに、完結した形で表現することができると考えていたからでした。

8月号
 鳥越信の主張する「未来を先取りする」リアリズム作品(ここでは日常的世界で展開する物語を意味しています)に対して、著者は現実にはそれを書くことは不可能で(それが書けるくらいなら、作家よりむしろ政治家になるべきだと言っています)、ファンタジーならばより自由に表現できるとしています。

9月号
 空想世界を扱った作品(ボストン「まぼろしの子どもたち」、佐藤さとる「海へ行った赤んぼ大将」、北川幸比古「宇平くんの大発明」)を評して、それぞれ、古典的、古典と現代の融合、現代的としています。
 古典的と評した作品の方がよりファンタジーとしての完成度が高い(空想世界のリアリティが高い)ことは認めつつも、素材としては現代の子どもたちを取り巻く問題を扱った社会的なファンタジー(つまり真の意味での古典と現代の融合でしょう)の登場を期待しています。

 
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藤田のぼる「六十年代児童文学が書いたこと」日本児童文学2013年5-6月号所収

2017-11-01 16:31:33 | 参考文献
 「現代児童文学史ノート」のその三です。
 今回も全体を網羅しようとしすぎていて、六十年代の主な作家や作品の紹介にとどまり、児童文学史の初学者にとってはそういった事実の羅列も有益なのでしょうが、著者がこれらの動きをどう考えているかの考察があまりにも少なくて物足りませんでした。
 紹介されている作家や作品は以下のとおりです。
 現代児童文学をスタートさせた若い(あるいは女性の)作家たち(佐藤さとる、いぬいとみこ、山中恒、松谷みよ子、寺村輝夫、古田足日、神沢利子など)よりも年齢は上だが作家としての出発は後発のグループとして、前川康男(「ヤン」、「魔神の海」)、今西祐行(「肥後の石工」など)、竹崎夕斐、長崎源之助、大石真(「チョコレート戦争」(その記事を参照してください)、「教室205号」(その記事を参照してください)など)をあげて、その理由として、彼らが戦前に童話伝統の影響を受けていることと、従軍体験がありその清算に時間がかかったからだとしています。
 そして彼らの特徴として、「リアリズムの深化と影ともいうべきものを日本の児童文学のもたらした」としています。
 もう一つの後発グループを地方在住の作家として、川村たかし(「新十津川物語」など)、北村けんじ、赤座憲久、しかた・しん、かつおきんや、はまみつををあげて、彼らの作家デビューが遅れた理由として、地方の作家たちがグループを作っていて先輩作家たちと交流があったので、なかなか童話伝統から抜け出せなかったのだろうとしています。
 彼らの特徴としては、風土性、生活者の視点、抒情性をあげています。
 「出発世代」の60年代の代表作としては、いぬいとみこの「うみねこの空」、「みどりの川のぎんしょきしょき」、古田足日の「宿題ひきうけ株式会社」(その記事を参照してください)、神沢利子の「くまの子ウーフ」(その記事を参照してください)を紹介しています。
 最後に、さらに若い世代の書き手として、小暮正夫(「ドブネズミ色の街」)、後藤竜二(「天使で大地はいっぱいだ」)、小沢正(「目をさませトラゴロウ」)、山元護久、三田村信行の名前をあげています。

日本児童文学 2013年 06月号 [雑誌]
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