1967年5月の「日本文学」に掲載された評論です。
他の記事でも触れた「西郷提案」(それ自体は記載されていないので、著者を通してしか内容はわかりません)をもとに、石井桃子たちの「子どもと文学」(その記事を参照してください)を批判しています。
まず、「子どもと文学」が「子どもの本の筋は、モノレールのように一方向へ進まなければならない」と主張しているのに対して、ここにおいて「事件の筋」と「形象相関の展開の筋」がごっちゃになっているとして、「形象相関の展開の筋」は一方向へ進まなければならないが、「事件の筋」は錯綜してかまわないとしています。
それはその通りなのですが、「子どもと文学」は幼年文学や絵本を念頭に置いて論じているので、ここでは「事件の筋」も一方向の方が望ましいと思われます。
また、「子どもと文学」が「子どもの本は目に見えるように書かれなければいけない」と主張しているのに対して、文学では目に見えるもの以外も描かなければならないしています。
これもまた、「子どもと文学」は幼年文学や絵本を念頭に置いて論じているので、目に見えるように書かないと幼い読者はついていけないでしょう。
これらの錯誤は、「子どもと文学」と著者では、同じ「児童文学」でも対象読者の年齢がずれている(著者の方が年齢が高い)ために生じているように思われます。
最後に、「子どもと文学」グループが新しい外国児童文学を精力的に翻訳して日本の子どもたちに紹介していることを評価しつつも、その目指す児童文学(「子どもと文学」に影響を受けて創作をしている人たちが描く「おもしろさ」を前面に出して、(筆者の言葉を借りると)「形態的にはきわめてすぐれていながら文学の本質的なものをなくした作品」も含めて)を「保守・小市民的」だと批判しています。
この批判の背景としては、著者も少し触れていますが、高度経済成長時代が始まって日本にも中間層が増え、その結果としてノンポリの「小市民」層の増大による革新勢力の運動の低迷が始まったことがあります。
このことは、一時期蜜月状態(同じ童話伝統批判をする立場の人間として)にあった「子どもと文学」グループと著者たち「少年文学宣言」(その記事を参照してください)派の間に明確な亀裂(著者の立場から見ると、「保守、小市民」対「革新」の間の)が入ったことを示しています。
ここで興味深いのは、この時点で著者が「保守」だけでなく、「小市民」も攻撃対象にしていることです。
この構図は、さらに高度経済成長が進んで中間層が拡大した70年代になると、「小市民」も革新側へ取り込もうとする動きや作品が現れます(70年安保の革新側の敗北とその後の低迷を受けて、路線変更されたと思われます)。
他の記事でも触れた「西郷提案」(それ自体は記載されていないので、著者を通してしか内容はわかりません)をもとに、石井桃子たちの「子どもと文学」(その記事を参照してください)を批判しています。
まず、「子どもと文学」が「子どもの本の筋は、モノレールのように一方向へ進まなければならない」と主張しているのに対して、ここにおいて「事件の筋」と「形象相関の展開の筋」がごっちゃになっているとして、「形象相関の展開の筋」は一方向へ進まなければならないが、「事件の筋」は錯綜してかまわないとしています。
それはその通りなのですが、「子どもと文学」は幼年文学や絵本を念頭に置いて論じているので、ここでは「事件の筋」も一方向の方が望ましいと思われます。
また、「子どもと文学」が「子どもの本は目に見えるように書かれなければいけない」と主張しているのに対して、文学では目に見えるもの以外も描かなければならないしています。
これもまた、「子どもと文学」は幼年文学や絵本を念頭に置いて論じているので、目に見えるように書かないと幼い読者はついていけないでしょう。
これらの錯誤は、「子どもと文学」と著者では、同じ「児童文学」でも対象読者の年齢がずれている(著者の方が年齢が高い)ために生じているように思われます。
最後に、「子どもと文学」グループが新しい外国児童文学を精力的に翻訳して日本の子どもたちに紹介していることを評価しつつも、その目指す児童文学(「子どもと文学」に影響を受けて創作をしている人たちが描く「おもしろさ」を前面に出して、(筆者の言葉を借りると)「形態的にはきわめてすぐれていながら文学の本質的なものをなくした作品」も含めて)を「保守・小市民的」だと批判しています。
この批判の背景としては、著者も少し触れていますが、高度経済成長時代が始まって日本にも中間層が増え、その結果としてノンポリの「小市民」層の増大による革新勢力の運動の低迷が始まったことがあります。
このことは、一時期蜜月状態(同じ童話伝統批判をする立場の人間として)にあった「子どもと文学」グループと著者たち「少年文学宣言」(その記事を参照してください)派の間に明確な亀裂(著者の立場から見ると、「保守、小市民」対「革新」の間の)が入ったことを示しています。
ここで興味深いのは、この時点で著者が「保守」だけでなく、「小市民」も攻撃対象にしていることです。
この構図は、さらに高度経済成長が進んで中間層が拡大した70年代になると、「小市民」も革新側へ取り込もうとする動きや作品が現れます(70年安保の革新側の敗北とその後の低迷を受けて、路線変更されたと思われます)。
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