1965年7月の「教育科学国語教育」に掲載された評論です。
同誌上に掲載された「西郷竹彦報告」について書いたもので、誌上シンポジウムのようなものだったようです。
著者がこの本のまえがきで書いているように、主報告が掲載されていないのでわかりにくいのですが、「(文学)形象の相関関係で読め」と言う提案に対してはそれは当然のことだが、今まで理論化されなかった「文学形象の読みとりの理論」だとしています。
著者は、書き手の立場から、「形象は文体に限定され、文体はまた形象によって限定される」と述べていますが、私自身も創作において同様なことを経験しています。
また、西郷提案では、ドーデ―「最後の授業」の分析について、いままでの「祖国愛」や「国語愛」というテーマではない(明確には書いていないのですが、西郷提案の分析によれば「(侵略によって祖国や国語を失った)民衆への愛」だと思われます)ことをあきらかにしたとしています。
ただし、「最後の授業」の主人公は行動をしないので「子どもにも読める大人の文学」であるとして、同様のテーマ・シチュエーションの(子どもが行動する)児童文学が、「文学教育」に必要だとしています。
おおむね著者の意見は肯定できるのですが、ひとつ気になったのは、「文学教育」を一種のプロパガンダだとして、教師自身の解釈は強調されるべきだとしていることです。
この意見の背景を推定すると、当時の教育現場では革新系の教師が圧倒的に多く、この雑誌の読者もそういった人々が多いことがあるように思われます。
著者は、一方では、児童文学が「道徳教育」の一環として教訓的になることを厳しく批判しています。
ところが、自分と同方向の思想を持つ児童文学については、それがプロパガンダとして利用されることを容認することは、非常にアンフェアで危険なことと思いました。
同誌上に掲載された「西郷竹彦報告」について書いたもので、誌上シンポジウムのようなものだったようです。
著者がこの本のまえがきで書いているように、主報告が掲載されていないのでわかりにくいのですが、「(文学)形象の相関関係で読め」と言う提案に対してはそれは当然のことだが、今まで理論化されなかった「文学形象の読みとりの理論」だとしています。
著者は、書き手の立場から、「形象は文体に限定され、文体はまた形象によって限定される」と述べていますが、私自身も創作において同様なことを経験しています。
また、西郷提案では、ドーデ―「最後の授業」の分析について、いままでの「祖国愛」や「国語愛」というテーマではない(明確には書いていないのですが、西郷提案の分析によれば「(侵略によって祖国や国語を失った)民衆への愛」だと思われます)ことをあきらかにしたとしています。
ただし、「最後の授業」の主人公は行動をしないので「子どもにも読める大人の文学」であるとして、同様のテーマ・シチュエーションの(子どもが行動する)児童文学が、「文学教育」に必要だとしています。
おおむね著者の意見は肯定できるのですが、ひとつ気になったのは、「文学教育」を一種のプロパガンダだとして、教師自身の解釈は強調されるべきだとしていることです。
この意見の背景を推定すると、当時の教育現場では革新系の教師が圧倒的に多く、この雑誌の読者もそういった人々が多いことがあるように思われます。
著者は、一方では、児童文学が「道徳教育」の一環として教訓的になることを厳しく批判しています。
ところが、自分と同方向の思想を持つ児童文学については、それがプロパガンダとして利用されることを容認することは、非常にアンフェアで危険なことと思いました。
児童文学の旗 (1970年) (児童文学評論シリーズ) | |
クリエーター情報なし | |
理論社 |