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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

村中季衣「力(りき)」たまごやきとウィンナーと所収

2017-10-03 08:53:47 | 作品論
 この作品も、家庭崩壊を描いています。
 主人公の小学校中学年の男の子の父親は、祖母(父親の母)の介護を母親にまかせっきりにして、女の家で暮らしています。
 「力(りき)」というのは、父親が泥棒除け(主人公以外に家には男がいないので)にと、勝手に連れてきた秋田犬の名前です。
 祖母は、嫁である母親にはつらくあたりますが、主人公は猫かわいがりしています(はっきり書かれていませんが、祖母は今で言えば認知症にかかっていて、主人公を子どもの頃の父親だと思い込んでいるようです)。
 祖母が死んだ(父親は葬式も通夜も母親にまかせっきりです)翌朝、ようやく家に帰ってきた父親に力(りき)がかみつきます。
 そのままほおっておけば、力(りき)は父親をかみ殺せたようなのですが、いつも世話をしている母親がとめたために牙をぬきます。
 その隙に、父親は鉄パイプで力(りき)をなぐり殺してしまいます。
 主人公は、血にまみれた力(りき)の死骸を抱きしめて、死ぬ時に力(りき)が出したのとそっくりの鳴き声でウォォーンと叫び続けます。
 それでも自分勝手なことを言い続ける父親に向かって、母親は顔をおおっていた手をはなして、「帰ってください。」と言いました。
 それは、母子による父親への決別の宣言だったのでしょう。
 そして、力「りき」の死は、彼らの精神的な死(身勝手な父親による精神的な虐待による)の身代わりだったのでしょう。
 この作品は、いい意味でも悪い意味でも、非常に文学的な作品です。
 家庭崩壊、老人介護などの深刻な問題を、象徴的な表現を多用して描いています。
 この本が出版された1992年ごろは、児童文学の出版バブルがまだ続いていて、非常に多様な作品が出版されていました。
 その中には、この作品のような小説的手法を使った作品もたくさん含まれています。
 児童文学評論家や研究者は、このような作品の出現を児童文学の「一般文学への越境」と呼んでいます。
 他の記事にも書きましたが、この現象は児童文学が新しい読者(若い世代を中心にした女性)を獲得するのには寄与しますが、その一方で児童文学にとってコアな読者である小学生高学年の子どもたち(特に男の子たち)の児童書離れを引き起こしました(それ以外にも理由はあるのですが、詳しくは関連する記事を参照してください)。
 また、皮肉にも、そうした作品を書いた多くの作家(特に女性)は実際に越境してしまって、本質的な意味では児童文学の世界に帰ってこない作家もたくさんいます(多くは片手間には児童書も出版しています)。
 念のために書いておくと、この作品の作者である村中李衣は、一般文学へは越境していかずに、児童文学やそれを使った療法の分野でその後も大きな成果をあげています。

たまごやきとウインナーと (偕成社コレクション)
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偕成社
 
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池井戸潤「オレたち花のバブル組」

2017-10-02 08:52:33 | 参考文献
 2013年に驚異的な視聴率を記録した「半沢直樹」の後半部分の原作です。
 テレビドラマと原作がどのように違うのかが興味があって読みました。
 ドラマは主役の堺雅人をはじめとした演技陣の、歌舞伎のようにみえをきる大げさな芝居が評判でしたが、原作も少なくとも主役の半沢はかなりスーパーマン的で、顧客や上司に対するセリフも社会人の常識では考えられないほど挑発的なので、ドラマはそれを視覚的に誇張しただけなんだなと妙に納得しました。
 小説が映画化されるとあらすじ的になってしまい、ディテールの面白さが失われることが多い(例えばアカデミー賞を取ったトマス・ハリス原作の「羊たちの沈黙」の映画化ですら、それを感じました)のですが、テレビドラマは放映時間を合計すればけっこう長いので、かなり忠実に描けて小説の映像化には向いているのかもしれません。

オレたち花のバブル組 (文春文庫)
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文藝春秋
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村中季衣「キャッツアイにて」たまごやきとウィンナーと所収

2017-10-02 08:50:32 | 作品論
 この作品でも、家庭崩壊に立ち向かおうとする子どもが描かれています。
 小学生の女の子の主人公は、父親の不倫相手の女性(会社の同僚)と喫茶店で対決します。
 といっても、直接的な言い方で糾弾するのではなく、兄の指示通りに「にいちゃんが見たんです」という言葉を繰り返すだけです。
 相手もずっと黙っているので、行き詰った主人公は、相手が身に着けていたワニのアクセサリを見て思い出した自分のワニのぬいぐるみのことを、とっさに話します。
 それは、家族の想い出につながるものでした。
 相手の女性は、その話を聞いて、「よく、わかったわ」と言って、席を立ちます。
 全体的に、非常にあいまいな形で書かれているので、最後の女性のセリフが、主人公の気持ちをくんで不倫をやめるということなのかどうかは不明です。
 1991年に書かれた作品なので、児童文学で親の不倫を扱うのはまだデリケートな時代だったのかもしれません。
 それはそうだとしても、やはり不満は残ります。
 まず、子どもたちが糾弾すべき相手は、不倫相手の女性じゃなくて、自分たちを裏切った父親であるべきではないでしょうか。
 不倫相手を幸せな家庭を壊そうとする外敵ととらえただけでは、その相手を排除しても、父親は免責されたままで、相手を代えてまた同じようなことが繰り返されるだけです。
 また、女性については、父親の会社の同僚として表面的に知っているだけなので、彼女がどのような事情や思いを抱えて父親と付き合っているかは、読者だけでなく主人公たちも分からないはずです。
 さらに、主人公の兄が、自分で女性と対決させずに、妹にやらせたことも大きな不満でした(もし、私が同じ立場ならば、絶対に一人で(特にこれ以上傷つけたくない妹には知らせずに)女性や父親と対決します)。
 こうした問題は、より本質的な当事者である男性たちを引っ張り出さないと解決にはつながりません。
 以上のようにいろいろな問題はあるのですが、親の不倫による家庭崩壊(現在では当時よりももっと日常的になっているでしょう)を題材にした先駆的な作品であったことは評価できると思います。

たまごやきとウインナーと (偕成社コレクション)
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