この作品でも、家庭崩壊に立ち向かおうとする子どもが描かれています。
小学生の女の子の主人公は、父親の不倫相手の女性(会社の同僚)と喫茶店で対決します。
といっても、直接的な言い方で糾弾するのではなく、兄の指示通りに「にいちゃんが見たんです」という言葉を繰り返すだけです。
相手もずっと黙っているので、行き詰った主人公は、相手が身に着けていたワニのアクセサリを見て思い出した自分のワニのぬいぐるみのことを、とっさに話します。
それは、家族の想い出につながるものでした。
相手の女性は、その話を聞いて、「よく、わかったわ」と言って、席を立ちます。
全体的に、非常にあいまいな形で書かれているので、最後の女性のセリフが、主人公の気持ちをくんで不倫をやめるということなのかどうかは不明です。
1991年に書かれた作品なので、児童文学で親の不倫を扱うのはまだデリケートな時代だったのかもしれません。
それはそうだとしても、やはり不満は残ります。
まず、子どもたちが糾弾すべき相手は、不倫相手の女性じゃなくて、自分たちを裏切った父親であるべきではないでしょうか。
不倫相手を幸せな家庭を壊そうとする外敵ととらえただけでは、その相手を排除しても、父親は免責されたままで、相手を代えてまた同じようなことが繰り返されるだけです。
また、女性については、父親の会社の同僚として表面的に知っているだけなので、彼女がどのような事情や思いを抱えて父親と付き合っているかは、読者だけでなく主人公たちも分からないはずです。
さらに、主人公の兄が、自分で女性と対決させずに、妹にやらせたことも大きな不満でした(もし、私が同じ立場ならば、絶対に一人で(特にこれ以上傷つけたくない妹には知らせずに)女性や父親と対決します)。
こうした問題は、より本質的な当事者である男性たちを引っ張り出さないと解決にはつながりません。
以上のようにいろいろな問題はあるのですが、親の不倫による家庭崩壊(現在では当時よりももっと日常的になっているでしょう)を題材にした先駆的な作品であったことは評価できると思います。
小学生の女の子の主人公は、父親の不倫相手の女性(会社の同僚)と喫茶店で対決します。
といっても、直接的な言い方で糾弾するのではなく、兄の指示通りに「にいちゃんが見たんです」という言葉を繰り返すだけです。
相手もずっと黙っているので、行き詰った主人公は、相手が身に着けていたワニのアクセサリを見て思い出した自分のワニのぬいぐるみのことを、とっさに話します。
それは、家族の想い出につながるものでした。
相手の女性は、その話を聞いて、「よく、わかったわ」と言って、席を立ちます。
全体的に、非常にあいまいな形で書かれているので、最後の女性のセリフが、主人公の気持ちをくんで不倫をやめるということなのかどうかは不明です。
1991年に書かれた作品なので、児童文学で親の不倫を扱うのはまだデリケートな時代だったのかもしれません。
それはそうだとしても、やはり不満は残ります。
まず、子どもたちが糾弾すべき相手は、不倫相手の女性じゃなくて、自分たちを裏切った父親であるべきではないでしょうか。
不倫相手を幸せな家庭を壊そうとする外敵ととらえただけでは、その相手を排除しても、父親は免責されたままで、相手を代えてまた同じようなことが繰り返されるだけです。
また、女性については、父親の会社の同僚として表面的に知っているだけなので、彼女がどのような事情や思いを抱えて父親と付き合っているかは、読者だけでなく主人公たちも分からないはずです。
さらに、主人公の兄が、自分で女性と対決させずに、妹にやらせたことも大きな不満でした(もし、私が同じ立場ならば、絶対に一人で(特にこれ以上傷つけたくない妹には知らせずに)女性や父親と対決します)。
こうした問題は、より本質的な当事者である男性たちを引っ張り出さないと解決にはつながりません。
以上のようにいろいろな問題はあるのですが、親の不倫による家庭崩壊(現在では当時よりももっと日常的になっているでしょう)を題材にした先駆的な作品であったことは評価できると思います。
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