現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

村中李衣「ラッパ ― ようこの場合」小さいベット所収

2017-10-12 17:49:02 | 作品論
 小学校四年生のようこは、右ひざの手術で入院しています。
 おかあさんは妹が今年生まれ、おとうさんは九州に単身赴任中なので、なかなかお見舞いに来られません。
 同じ部屋の赤ちゃんのえみはよく泣きます。
 えみのベッドは、えみのママが毎日必ず新しいおもちゃを持ってくるので、おもちゃだらけです。
 ようこのベッドには、きりんの<ながなが>がいるだけです。
 看護婦たちの会話から、ようこは自分がもう歩けないものと思い込みます。
 しかし、太りすぎのために後から入院してきた順子ねえちゃんが、その誤解を解いてくれます。
 歩けないのは、ようこではなくえみだったのです。
 やけになったえみのママは、酒に酔って無断でえみを連れ出します。
 ようこは、順子ねえちゃんと一緒に病院を抜け出して、えみを探しに行きます。
 えみの好きなラッパを吹いて、なんとか二人を探し出して、無事に病院に連れ帰ります。
 こうして、三人の入院生活はまた始まりました。
 他者を理解することで、ようこは自分を見つめなおします。
 そのことで、今まで逃避していた自分の病気と向き合えるようになったのです。
 作者は、ある時は厳しく、ある時は暖かく子どもたちを見つめています。

 
小さいベッド (偕成社の創作(21))
クリエーター情報なし
偕成社
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神宮輝夫「子どもの文学の新周期 1945ー1960」日本児童文学の流れ所収

2017-10-12 17:47:26 | 参考文献
 2005年に、国際子ども図書館で行われた、第二回児童文学連続講座の講義録の冒頭の章です。
 講師は、1945年から1960年までを、日本の児童文学史の新しい周期として検討するよう提案しています。
 一般的に、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)は、講師も述べているように、1959年に佐藤さとる「だれも知らない小さな国」といぬいとみこ「木かげの家の小人たち」の二つの長編小人ファンタジーでスタートしたと言われています(講師は、リアリズム作品のスタートして、1960年の山中恒「赤毛のポチ」もあげています)。
 そのため、戦後の1945年から1959年までは、あたかも空白期のように取り扱わることが多いです(実際には、今も読まれている竹山道雄「ビルマの竪琴」、壺井栄「二十四の瞳」、石井桃子「ノンちゃん雲に乗る」(その記事を参照してください)といった大ベストセラーが三つもあるのですが、児童文学史上ではいずれも正当な扱いは受けていません。私のこのブログも、この時期は原則として対象外です)。
 講師は、この時期には、上記の三作品以外にも、優れた児童文学上の業績はたくさんあり、「現代児童文学」との関連も含めてもっと研究する必要があるとしています。
 講師が指摘している、この時期の主な業績は、以下の通りです。

1.翻訳の新しい風、
  新訳、古典翻訳の両方において、優れた業績(新しい作家の本が翻訳されたり、従来は英語やドイツ語からの翻訳が多かったのが母国語(例えば、アンデルセン童話はデンマーク語、「ピノッキオ」はイタリア語)からの翻訳がされたり、新しい研究による翻訳がされたりしました)がありました。

2.創作の新しい風
  推理、ユーモア、ナンセンス、ウィット、幼年ものなどの新しい面白さが追及されました。

3.長編と物語
  農山村の子どもたちの小説や童話、少年たちの冒険物語などをあげています。

4.ユーモア小説の開花
  戦中に下火になったユーモア小説が復活したとしています。

5.新しい時代に向かって
  「現代児童文学」への助走として、アンソロジーや同人誌に、従来の作家だけでなく、「現代児童文学」で活躍する新しい作家たち(前川康男、長崎源之助、大石真、いぬいとみこなど)が登場したとしています。

 以上により、講師は、「子どもの文学という形式を通じて自己を表現しよう」とする「現代児童文学」の流れだけでなく、「明治以来、書き続けられてきた子どもの文学は、基本的には、大人が、成長する子どもに向かって、成長に資するあらゆることを伝えようと努めた」とするこの時期までの児童文学の主流だった流れ、それに「ユーモア小説や少女小説など」などの流れを含めた複数の流れで、創作、研究、評論することを提案しています。
 講師の提案はしごくもっともなのですが、いくつか疑問もあります。
 講師は、このような断絶が起きた理由として、まず第一に「戦争直後でしたから紙不足は深刻で、ほとんどが仙花紙という非常に粗悪な紙で印刷もインクが上手く紙にのらない本がたくさん出ました。そういった作りの悪い本は、傷みがはやく、すぐにだめになってしまうおそれがあります。しばらくして、出版不況と戦後の熱狂が終わるとともに、あまり本が売れない状況が続く中で、自然に、戦後10年ほどの間に出た本は忘れられていきました。」という外的要因をあげています(これには全く異論はありません)。
 次に、「もう一つは、この文学観の変化にあります。子どもの文学という形式を通じて自己を表現しようとした作家たちにとって、在来の作品に見られる大人と子どものいる社会は、彼らには無縁だったのです。」としています。
 このことも事実ではありますが、意識してか無意識かわかりませんが、この文学観の変化に大きく寄与した二つの文学運動について全く触れていないのは納得がいきません。
 ひとつは講師自身も参加している早大童話会による「少年文学宣言」(1953年。正しくは、「少年文学の旗の下に」(その記事を参照してください))によって端を発した「童話伝統批判」の中で、この時期の児童文学の主流である「メルヘン」、「生活童話」、「無国籍童話」、「少年少女読物」のそれぞれの利点を認めつつもその限界を述べて、新しい児童文学(「現代児童文学」といっていいでしょう)の必要性が主張されました。
 もうひとつは、「子どもの本はおもしろく、はっきりわかりやすく」が、世界的な児童文学の基準だと主張とした「子どもと文学」(1960年。その記事を参照してください)ですが、そこではこの時期の児童文学作品は歯牙にもかけられていなくまったく無視されています。
 こうした二つの文学運動が互いに批判したり混じり合ったりして、「現代児童文学」の流れは出来上がっています。
 少なくとも、講師が提案されている二番目の流れ(「明治以来、書き続けられてきた子どもの文学は、基本的には、大人が、成長する子どもに向かって、成長に資するあらゆることを伝えようと努めた」)については、講師なりの「童話伝統批判」に対する総括がないと、素直には受け入れられません。
 三番目の流れは、現在の言葉で言えば「エンターテインメント」児童文学の流れと言うことになり、講師が提案するようにその流れを整理することは必要です。
 しかし、この流れに属するエンターテインメント作品は、ほとんどが消費財として扱われているので、時間とともに散逸していて、研究することは労多くして成果が少ないようで、研究する人がほとんどいないのが現状です。


世界児童文学案内 (1963年) (児童文学セミナー)
クリエーター情報なし
理論社

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