現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

谷川俊太郎「ことばあそびうた」

2017-09-24 08:54:31 | 作品論
 わからない。
 ただわからない。
 詩人の持つ言語感覚がわからない。
 とにかく、自分にはこういう「ことばあそび」を楽しむセンスがないのだろうと思いました。
 瀬川康男の絵も、詩に劣らずよくわからない。
 これでは作品論になっていないことは、重々承知していますが、とにかく一度読んでみてください。
 一読、一見の価値があることだけは保証します。

ことばあそびうた (日本傑作絵本シリーズ)
クリエーター情報なし
福音館書店
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長崎夏海「ぴらぴら」

2017-09-24 08:51:07 | 作品論
 小学校低学年の主人公の女の子は、隣のクラスに転校してきた不思議な女の子と友だちになります。
 話したこともないのに、超能力で、主人公の名前も、住んでいる団地の号棟も知っているのです。
 女の子は三回も引越ししていて、仲良くなれる子はすぐわかるので、友だちになろうというのです。
 学校からの帰り道、主人公は女の子と寄り道して、二人のお気に入りの場所へ行きます。
 主人公のお気に入りは、新しいアパートを建てている工事現場です。
 女の子は、そこで紫水晶のような石のかけらを二つ見つけて、「大きい方」を主人公にくれます。
 女の子のお気に入りの場所は、佐藤さんの家です(といっても、知り合いではありません)。
 そこで、女の子は、子猫たちと親猫を、主人公に紹介してくれます。
 次の朝、迎えに来てくれた女の子は、水晶のおかげで見られた夢(草原でライオンやきりんと仲良くなります)を教えてくれます。
 主人公は、休み時間に、校庭で、女の子がクラスの子たちに問い詰められているところに出くわします。
 女の子が嘘をついてばかりいるというのです。
 主人公は、女の子をかばおうとしますが、うまく言えません。
 そして、だんだん女の子の言っていたことも信じられなくなってきます。
 その夜、主人公はおねえちゃんと喧嘩した時に、かんじんなことを言うことの大切さと、女の子と一緒だった時の自分の気持ちは嘘ではなかったことに気づき、女の子のことを信じようと思います。
 その晩、水晶のおかげか、主人公は、海の中を魚になってぐいぐい泳ぐ夢をみます。
 翌朝、女の子の家へ迎えに行って、夢の話をします。
 すると、女の子もその夢の中にいて、サンゴ礁の中から、「ぴらぴらあ」と泳ぐ主人公を見ていたというのです。
 そして、今度は一緒に「ぴらぴらあ」と泳ぐことを約束して、二人は両手をぴらぴらさせながら学校へ向かいます。
 児童文学研究者の宮川健郎は、「児童文学 新しい潮流」(その記事を参照してください)において、「「ぴらぴら」は、子どもたちの「元気」や「自由」を象徴しているように思える。」と書いていますが、全く同感です。
 低学年の女の子たちが仲良くなっていく様子を、上記のような魅力的なエピソードを連発しながら、短い紙数の中で見事にまとめあげています。
 初めは、一人で見た夢を、次は二人で見て、今度は一緒に泳ごうという変化が、二人の仲良し度合の深まりを象徴しています。
 文章も簡潔でリズムがあって、無駄な描写を廃した児童文学(特に幼年文学)の王道を行く、「アクション」と「ダイアローグ」でスピーディなストーリー展開を描いていて、幼い読者でも作品世界に引き込まれるでしょう。
 作者とコンビを組むことが多い、佐藤真紀子の簡潔で力強い挿絵が、作品世界を支えています。 

ぴらぴら
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草土文化
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グードルン・パウゼヴァング「価値ある人とそうでない人」そこに僕らは居合わせた所収

2017-09-23 09:21:33 | 作品論
 戦時中のナチスドイツは、人種による優劣を主張していました。
 主人公の十四、五歳の女の子は、一番優秀とされる北方人種であることを望んでいましたが、担任の先生に、ドイツ人で一番劣等とされる東方人種(もちろんユダヤ人はさらにその下で、ドイツ人の仲間と認められていません)の典型だと、みんなの前で宣言されて、衝撃を受けます。
 しかし、ヒトラーも北方人種でないことを知り、ナチスの人種による差別に疑いを抱くようになります。
 日本人は一般に単一民族だと主張されていますが、日本には中国人、朝鮮人などの人びとも暮らしていますし、アイヌなどの少数民族の人びともいます。
 日本には人種差別はない(あるいは少ない)とされていますが、上記の人びとに対する優越意識、差別意識は厳然として存在します。
 これらの意識は根深い所で生き続けていて、私自身にも少なからずあることを告白しなければなりません。

そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶
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みすず書房
 
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よもぎ律子「遊太」児童文学 新しい潮流所収

2017-09-23 09:18:15 | 作品論
 東北電力「夢見る子供童話賞PartⅡ」で児童文学部門大賞を受賞し、「遊太」(1994年)に収められている短編を、編者の宮川健郎が転載しました。
 父親に喫煙をとがめられてほおをぶたれて、家出した主人公の12歳の男の子が、「粗大ごみ」置き場の洋服ダンスの中で、コオロギと名乗る不思議な少女と出会う話です。
 二人は、そのまま一晩中、新興住宅地のまわりの山野をさまよい歩きます。
 主人公は、その後、家に戻ったようで、一対のコオロギ(雌コオロギは洋服ダンスで見つけたとしています)を飼いだします。
 その一方で、あの少女とも町ですれ違います。
 編者は、この作品は「死と再生」を描いているとし、「「母胎」を思わせるたんすから、山道へ ― これは、まるで、「胎内くぐり(修験道などにおける儀礼のひとつ)」ではないか。」としています。
 しかし、なぜ主人公の家出を、「再生」しなければならないほどの「死」と、編者が考えるのかがよくわかりません。
 ささやかな非行(家出後に缶ビールも飲んでいますから、常習的なのかもしれませんが)、父との軋轢、父の転勤により友達ができない、頭も顔をなみなどが、非行や家出の背景として断片的に語られていますが、すごく表面的な書き方で、読者には主人公の心情が伝わってきません。
 さらに、家出後の少年は、コオロギを飼いだしたこと以外は書かれていませんから、どのように「再生」したかもまるでわかりません。
 また、編者は、少女が、コオロギの化身なのか、実在する女の子なのを、あいまいにしている描き方をとらえて、宮沢賢治の「風の又三郎」を引き合いに出して(ごたいそうな感じですが)、この「イメージの二重性」の間でゆれうごく主人公の気持ちを、「思春期にさしかかった少年の心そのものである。」としています。
 実際には、主人公の心の動きは作品にはほとんど描かれていないので、これもまた編者のかいかぶりにすぎないように思いました。
 ただし、編者が指摘しているように、ラストで主人公とすれ違う時に少女が乗っていたのが、初出では「ミニバイク」だったのを単行本では「自転車」に変更している「児童文学」的改悪(運転免許のことを配慮したのでしょう)については、全く同感です。
 総じて、作品の完成度は同人誌レベルに近く、この本に載っている他の作品とは差がありすぎるように思いました。

遊太
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エスクァイアマガジンジャパン
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あまんきみこ「かくれんぼ」児童文学 新しい潮流所収

2017-09-22 10:28:01 | 作品論
  雑誌「びわの実学校」(1985年6月)に掲載され、「だあれもいない?」(1990年、ひろすけ童話賞受賞)に収められていて、編者の宮川健郎が転載しました。
 毎週日曜日(おかあさんはデパートに勤めていてお休みは水曜日、とうさんは入院中、主人公の面倒を見てくれたおばあちゃんは亡くなっています)に、小学校低学年ぐらいに思える主人公の女の子が、保育園に通う妹の面倒を見ています。
 でも、その日は、友だちとカブトムシを捕りに行く約束をしてしまっています。
 とうとう主人公は、室内でのかくれんぼを装って、妹を家に残して出かけてしまいます。
 でも、何をしても妹のことが思い出されて、行く途中で引き返します。
 家に戻ると、妹はまだかくれんぼを続けています。
 主人公は、良心の呵責に耐えかねて妹を抱きしめます。
 でも、妹は、七人の青いみじかいきものをきた女の子たちと、かくれんぼをしていたから楽しかったと言います。
 それは、いつも妹が保育園ごっこをして遊んでいる、おばあちゃんの形見の七つのこけしのようでした。
 編者は、「かくれんぼ」は、「喪失」の空白感が「再会」の喜びへと逆転する遊びとして、児童文学の中にも描かれているとして、坪田譲治(あまんきみこの先生です)「母ちゃん」(1931年)を引用して解説しています。
 また、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)が描くようになった離婚や家庭崩壊を描いた作品も、「鬼になった子どもと、そこから去ってしまう親によるおわらない「かくれんぼ」と読むこともできるだろう。」として、今江祥智「優しさごっこ」を引用しています。
 また、「「委棄された子ども」という児童文学ゆえに拘束された視点があるのではないか」という柴村紀代(児童文学作家で研究者でもあります)の次のような意見を引用しています。
「親にいかなる理由があろうとも「子どもは捨てられたのだ」という観点に立つ限り、親子の相互理解にはたどりつかない。
 児童文学で離婚、親の家出を扱う場合、それはほとんど子どもの視点で語られる。
 子どもの側から見れば、離婚も親の家出も、自分を委棄し、置き去りにする不条理な状況としか見えない。書き手の視点が、子どもの側にある限り、それは「かわいそうな子」であり、「理不尽な親」であり、その状況を乗り越えて行くのは「けなげな子ども」というパターンになる。」
 編者は、高田桂子「ざわめきやまない」を例に挙げながら、肯定にとらえているようですが、柴村の意見にはいくつかの誤謬があるように思えます。
 まず、「書き手の視点が、子どもの側にある限り」という言葉を否定的な文脈で使っていますが、「子どもの側に立たない」児童文学など、そもそも全く価値がありません。
 「現代児童文学」はいろいろと紆余曲折はありましたし、いろいろな主張もありましたが、「子どもの論理」「子どもの側に立つ」という点では終始一貫していたように思います。
 それは、常に抑圧される側だった「子ども」の歴史を振り返れば、児童文学の書き手に求められる最低限の要件なのです。
 もちろん、離婚や親の家出には親の方にもいろいろな事情があるでしょうが、それも含めて「子どもの側に立って」その事象をとらえることが必要です。
 それは、柴村が決めつけている「かわいそうな子」とか、「けなげな子」というパターンで描くことではなく、親の事情を含めて子どもの視点でとらえてそれを「けなげな子」ではない方法で乗り越えるべきでしょう。
 その乗り越え方法も、柴村が言う「親子の相互理解」だけでなく、親自体が乗り越えるべき対象の場合は「精神的な親殺し」が必要なケースもあると思われます。
 さて、編者は、この作品では、「「わたし」のなかには、置き去りにされた「子ども」(主人公にはかくれんぼを装って母に置き去りにされておばあちゃんになぐさめられた記憶があります)がいると同時に、重荷(毎日曜日に面倒を見なければならない妹のことです)をおろして出かけようとする「母」がいる。「わたし」のなかで、「子ども」と「母」がせめぎあい、結局、「わたし」は、かぶと虫とりの途中で、引き返してくる。この「せめぎあい」が私たちを切なくさせるのだが、私たちの切なさを、そっと救ってくれるのが、あまんきみこのファンタジーだ。」としています。
 私も、無駄のない有効な伏線のはりかた、簡潔だけど詩的な描写、作品全体をおおうおばあちゃん、かあさん、わたしと脈々と引き継がれている「母性」とでも呼ぶべき安心感など、あまん作品の特長がよく表れた作品だと思います。
 それも後天的に習得した創作技巧ではなく、古田足日が今西作品を評した時に使った「童話的資質」(関連する記事を参照してください)という言葉を、ここでも使いたくなってしまいます(そうすると、それから先は思考停止になってしまうのですが)。
 細かなことなのですが、編者が使った「あまんきみこのファンタジー」という言葉が気になりました。
 「ファンタジー」という言葉は、児童文学関係者の中でも使い方がまちまちなのですが、私は「子どもと文学」で石井桃子が紹介したリリアン・スミスの「児童文学論」における「目に見えるようにすること」という定義の信奉者(「だれも知らない小さな国」の佐藤さとるも彼の「ファンタジーの世界」の中で同様の意見を述べています)なので、あまんきみこのメルフェンに近い不思議な世界を呼ぶのに「ファンタジー」という言葉を使うのには抵抗があります。
 もっとも、私が理想的なファンタジーと考えているのは、ケネス・グレアム「楽しい川辺」、トールキン「指輪物語」、フィリパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」、リチャード・アダムス「ウォーターシップダウンのうさぎたち」などですので、かなり偏りがあるかもしれません。

だあれもいない? (子どもの文学傑作選)
クリエーター情報なし
講談社
  
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日本児童文学者協会編「児童文学の魅力 いま読む100冊日本編」

2017-09-21 09:30:39 | 参考文献
 日本児童文学者協会が、1998年5月に出版した日本の児童文学の読書ガイドです。
 別の記事で紹介した「児童文学の魅力 いま読む100冊世界編」の姉妹本です。
 巻末の佐藤宗子の文章にもあるように、編集委員の一人が途中で清水真砂子から山下明生(作家)にから変わったなどの理由で三年後にやっと出版されましたが、編集委員の交代はいい方向に働いているかもしれません。
 この本も、海外編と同様に大人の読者を対象とした本です。
 編集委員は、山下以外は世界編と同じ、上野瞭、佐藤宗子、砂田弘、宮川健郎の五人です。
 もともと現代日本児童文学を専門とするメンバーに、清水(英米児童文学が専門)の代わりに山下が入ったので、内容には世界編より期待が持てそうです。
 文頭に、神宮輝夫が「まえがき」と称して、戦後の現代児童文学を振り返る文章を寄せています。
 彼がどういう関係でこの本にかかわっていたのかが不明なのですが、なぜ彼にまえがきを書かせたのでしょうか。
 編集委員が責任を持ってまえがきを書くべきだったと思います。
 この本にも、1979年1月15日発行の同じ日本児童文学者協会による「日本児童文学100選」という先行する同種の本があります。
 その本の編集委員は、同時に出た「世界児童文学100選」と同じで、安藤美紀夫、上野瞭、渋谷清視、神宮輝夫、砂田弘の五人でした。
 巻頭に「100冊の選考と戦後日本児童文学」という編集委員による座談会を設けて、選考過程や選に漏れた作品の紹介も行われて彼らの価値基準がわかります。
 座談会の題名にもあるように、前の本は戦後児童文学に限定しているので、宮沢賢治、新見南吉、小川未明、坪田譲治などの、日本児童文学史において重要な作品が対象になっていません。
 これは、「世界児童文学100選」が20世紀はおろか、19世紀の作品も古典として紹介しているに対して著しくバランスを欠いていると言わざるを得ません。
 こういった構成になったのは、渋谷を除くとガチガチの現代児童文学論者ばかりが編集委員になったせいかもしれません。
 また、選ばれた百冊は長編ばかりで、短編集は別途「短編集20選」として分けて掲載しています。
 それと比較すると、19年後に出たこの本は、もう少しバランスのとれたものになっています。
 巻末の佐藤の「日本の100冊を選ぶにあたって」という文章によると、「第一に、中心になる百冊は、「現代児童文学」出発以降今日にいたるまでの作品から選ぶ(注:彼らは「現代児童文学」の出発を1959年と考えているので、1957年10月に出版された石井桃子の「山のトムさん」だけはこの定義に当てはまりません)。短編も、短編集というかたちで考える。従って刊行後日の浅いものでもこれに収録されるものはある。第二に、それ以前の作品については、作品や作家で見出しをたてることを避け、近代の流れとして統一したブックガイドを別に付ける。第三に、リスト作成の過程で浮かびあがった比較的新しい作家の作品群に多少の見直しをし、八十年代以降の動向を補足するべく、百冊とは多少かたちを変え、十八作品を紹介する。」と、古い作品も新しい作品も紹介するような工夫がなされています。
 今回選ばれた100冊の中には、「日本児童文学100選」にも選ばれていた本が35冊、「短編集20選」に選ばれている本が4冊と、合計39冊です。
 今回選ばれなかった作品は、「二十四の瞳」のように現代児童文学以前の作品や今回一人一作になったので複数選ばれていた作家の作品が、主に割愛されています。
 しかし、後藤竜二や長崎源之助のように、作品は違っても「日本児童文学100選」で選ばれていた作家が23人もいますので、「日本児童文学100選」で選ばれた、特に1960年代以降の作家の作品はかなりの割合で今回も紹介されています。
 それでも、新たに紹介された作家は39人もいますし、これから読む18冊を合わせると合計57人にもなるので、新たなブックガイドとして有効なものになっています。
 これは、今回の編集委員たちが、海外の児童文学と違って新しい日本の児童文学には精通しているためだと思われます。
 また、宮川が「現代児童文学としての「童話」」というブックガイドで、宮沢賢治、新見南吉、小川未明、坪田譲治などの作品と現代児童文学との関係と読書案内を要領よくまとめています。
 この本では、世界編で行った各界の著名人に対するアンケートをしなかったのもよかったと思います。
 各作品の紹介文は、お互いに日本児童文学者協会などで面識があるせいか、やや仲間ぼめ的なものもあって物足りない場合もありました。
 巻末の年表は、「日本児童文学100選」にはなかったものなので、読者の参考になります。
 最後に、世界編と同様に、こういった労力のかかる本の作成は、多忙な編集委員たちにすべてを任せるのではなく、プロの編集者がきちんと仕事をしないと、今回のようにずるずると発行が遅れてしまいタイムリーな発行ができないなと思いました。
 
児童文学の魅力―いま読む100冊 日本編
クリエーター情報なし
文溪堂
 


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上野瞭「ぼくらのラブ・コール」児童文学 新しい潮流所収

2017-09-21 09:26:51 | 作品論
 「別冊飛ぶ教室」(1993年)に掲載されて、「グフグフグフフ ― グリーンフィールド」(1995年)に収められている短編で、編者の宮川健郎が転載しました。
 ポケット・フォンという携帯電話(当時は携帯電話が一般(当初は自動車電話からスタートした業務用でした)へも普及し始めたころでした)で、親子が愛情を確認し合わなければならないという政府の方針をめぐる近未来風刺SFです。
 スマホはおろか、携帯電話がインターネットにつながるようになる前の時代の作品なので、携帯電話をめぐる風俗がかなりとんちんかんな感じですが、ある意味ではSNSで他人との繋がりを確認しあっている現在の状況と似てないとも言えません。
 編者は、「電話児童文学」という言葉を使って、川北亮司「ひびわれ団地四号館」(1977年)(お金のかからない糸電話で話します)、川島誠「電話がなっている」(1985年)(電話がかかってきているが、出ることができません)を引用して、授業中でも電話に出ることができるこの作品を、「既存の「児童文学」を軽々と踏み越えようとする。だからこそ、「ぼくらのラブ・コール」は、電話児童文学」の現在をあらわしていっるといえるのである。」と解説しています。
 作品及び解説がもう一つピンと来ないのは、コミュニケーション・ツールが急速に変化して、それに伴って他人との繋がり方自体も大きく変わっているからでしょう。
 児童文学の中で使われて、今ではほとんど使われなくなったコミュニケーション・ツールを列挙してみると、回覧板、手紙、駅の伝言板、ポケベル、公衆電話などがあります。
 こうしたものが使われた作品を、今の子ども読者が読んでも、当時それらのツールが他人とのコミュニケーションにどのように使われていたかが実感できないので、真の意味では作品を理解できないでしょう。
 将来的には、ウェアブルコンピューターが普及すれば、ガラケーはおろかスマホすら陳腐化する時代が来るでしょう。
 SNSでも、フェイスブックやツイッターは既に飽和していますし、インスタグラムやLINEもやがては新しいツールに取って代わられるでしょう。
 そんな時、「いいね!」「既読」「既読スルー」などに思い入れを込めて作品を書いても、その頃の読者にはピンとこないでしょう。
 その一方で、人間の「承認欲求」そのものはそれほどは早く変化しないでしょうから、そちらに力点を置いて書いた方が作品の寿命は延びるでしょう。
 もっとも、児童文学作品を消費財だと割り切ってしまえば、そうした目新しい風俗にどんなに寄りかかって書いてもOKですが。

グフグフグフフ―グリーンフィールド
クリエーター情報なし
あかね書房

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日本児童文学2012 3-4月号「特集:南吉を書こう」

2017-09-20 10:35:38 | 参考文献
 日本児童文学は隔月刊の日本児童文学者協会の機関誌ですが、この号の紙面構成には大きな疑問があります。
 この号は、新見南吉の生誕百周年を記念し、南吉へのオマージュを書いた作品を募集した特集をメインにした号です。
 日本児童文学では、最近、宮沢賢治に関して同様なことをしたことがありました。
 まず、こういった特集を「日本児童文学」でやることには、根本的に疑問があります。
 本来ならば、賢治や南吉ゆかりの団体や自治体などが行うべき事業でしょう。
 あえて特集をやるならば、「日本児童文学」では、賢治や南吉の現時点での評価を検証すべきだと思います。
 また、オマージュを載せるならば、第一線のプロの書き手(会員にたくさんいます)に依頼した作品を載せてほしいものです。
 この特集に多くのページを割いたこともあり、アマチュアが書いた文章が雑誌全体を占める割合が非常に高くなって、全体的に同人誌のようになってしまいました。
 以下に、この号の全体の紙面構成を紹介します。
表紙:いわむらかずおの牛の親子の絵で特に特集とは無関係。
表紙裏:岩崎書店の広告と作品募集。
p1:ミネルヴァ書房の広告。
p2-3:目次
p4:榎本事務所の広告と添削受講者募集
p5:中表紙
p6:小峰書店の広告
p6-59:特集の入選作品と選考評など(間に、広告、「日本児童文学」の予告、児文協が主宰する「児童文学学校」、「実作通信講座」、「創作教室」の告知などが挿入されています)
p60-71「飛び出せ、新人」というコーナーで、「投稿作品賞」の応募作品一編とそれに対する講評二編(間に、広告、児文協が主催する「井戸端会議」、「絵本学校」の告知が挿入されています)
p72-76:「児童文学のとなり」「こども目」「こんにちは!街の本屋です」などの紹介文(間に、児文協が主催する絵本テキスト大賞の告知が挿入されています)
p78-99:「創作時評」「翻訳時評」「絵本時評」「ブックラック」「同人誌評」などの短評(間に、広告、児文協とポプラ社が共同主宰する「新・童話の海」の原稿募集が挿入されています)
p100-102:追悼文
p103:児文協が主催する「子どものための感動ノンフィクション大賞」一次選考結果発表
p104-107:児文協が主催する「児童文学学校」の推薦作品
p108-109:児文協が主催する「長編児童文学新人賞」の告知
p110-113:投稿作品賞選評と告知
p114-115:新人登場
p116:紙面批評
p117-128:連載(間に広告が挿入されています)
p118-130:子どもと本の情報(日本児童文学者協会が主催する「創作講座」の告知が挿入されています)
p131:執筆者プロフィール
p132:編集後記
裏表紙裏:「家の光」作品募集の広告
裏表紙:新見南吉生誕百年記念事業の広告
 以上のように、連載を除くと、プロの書いた創作や評論は皆無といっていいほどないです。
 確かに、「日本児童文学」は日本児童文学者協会の機関誌なのですから、会員間の情報交換も必要でしょう。
 また、財政が苦しいでしょうから、広告や主催している事業も大事な収入源でしょう。
 新しい会員や読者を獲得する必要もあります。
 しかし、それだからといって、アマチュアの書いた文章や広告や告知や短評で誌面の大半を埋めてしまっては、1050円のお金を払って買おうという一般読者は限られてしまうのではないでしょうか。
 もっとも、「日本児童文学」を書店で見かけなくなってからだいぶ時間が経ちましたから、今は会員もしくはこれから会員になろうという予備軍の定期購読者が大半なのでしょうかもしれませんが。
 それにしても、1970年代から1980年代の、そうそうたる作家や研究者たちが刺激的な論文や創作を執筆して、月刊で普通の書店にも並んでいたころの「日本児童文学」を思うと、隔世の感があります。

日本児童文学 2012年 04月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店







 
 
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牧野節子「赤い靴」児童文学 新しい潮流所収

2017-09-20 10:31:53 | 作品論
 離婚家庭の五年生の女の子を主役にした連作短編集、「星にねがいを」(1995年)に収められていて、編者の宮川健郎が転載しました。 
 三年生の時のことを回想する形で、語られています。
 仲のいい友だちとのピアノのレッスンの帰りに、スーパーマーケットでその友だちに誘われて初めて万引きをします。
 一個ではなく、片っ端から万引きしたので、当然のように警備員に捕まります。
 友だちは、しゃくりあげながら万引きしたのが初めてであるように装います。
 主人公は、そんな友だちと警備員を冷めた目で眺めています。
 連絡を受けた友だちの母親はすぐに飛んできて、同じようにしゃくりあげながら友だちを引き取っていきます(どうやら、主人公がそそのかしたと疑っているようです)。
 一方、三時間もたって(たぶん楽器店の仕事を終えてから)やってきた主人公の母親は、あっけらかんと能天気に謝って、警備員にあきれられながら主人公を引き取ります。
 その帰り道で、母親は「やるんなら、もっとうまくやりな。」と言いながら、キャラクター・グッズの店で、自分が万引きをしてみせます。
 それから二年がたち、身長が15センチも伸びて顔つきが変わっても、主人公を取り巻く状況は変わりません。
 赤い靴というタイトルは、この作品では狂言回しとして使われていて(野口雨情の「赤い靴はいていた女の子」という歌と、アンデルセンの「赤い靴」をはいたためにいつまでも踊り続けなければならないカレンを意味します)、いつまでも続く今の状況と女の子の不幸せ(主人公はかすかに感じているようです)を象徴しています。
 編者は、この作品を、1970年代の「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)の「タブーの崩壊」(それまであまり書かれなかった、死、離婚、家出、非行、性などの子どもたちの負の部分を描いた作品がたくさん出版されるようになったことです。詳しくは関連する記事を参照してください)とからめて解説しています。
 そして、「現代児童文学」が、これらの問題について、「登場人物の非常にナイーブな心理の問題にこだわり続けていて、この十年間(注;1980年ごろに「タブーの崩壊」が注目されて以降)かえって停滞している」という児童文学研究者の石井直人の意見を紹介しています。
 この作品については、「離婚、万引き、責任を放棄する親、(中略)「タブーの崩壊」の輻輳(寄りあつまり)によって、子どもたちの現実にちかづこうとした」、「「理想主義的、向日的な方向づけ」をしない」、「単線的なストーリーにそって展開していくのではない」、「元気な文体で明るく書かれている」、「「赤い靴」にまつわる抒情」などと、その「新しさ」を評価しています。
 しかし、この作品を読んで、はたして子ども読者は共感するだろうか、あるいはこうした状況にショックを受けるだろうかという点になると、かなり疑問を感じました。
 編者は、「タブーの崩壊」的な事象が「輻輳」している点を評価していますが、その一つ一つのエピソードの描き方には既視感があって、少しも「新しさ」は感じませんでした。
 「「理想主義的、向日的な方向づけ」をしない」という点についても、作者がなんらかの思想を持ってそうしているというよりは、たんに投げ出しているだけのような印象を受けます。
 「単線的なストーリーにそって展開していくのではない」については、解説でも岩瀬成子「あたしをさがして」を引き合いに出していますが、この作品ではまったくそのような感想は持ちませんでした(むしろ、オーソドックスな女の子の心理を中心にしたお話(ただし、回想シーンがあるのでそこが単線でないと言えばそうなのですが、それは屁理屈でしょう)の書き方のように思えます)。
 「元気な文体で明るく書かれている。」、「「赤い靴」にまつわる抒情」に関してはまさにその通りで、この一見矛盾するような二つの要素が作品の中で見事に合体しているところが、牧野作品の大きな魅力でしょう。
 子どもたちの今日的な問題を描くのは、いつの時代でも児童文学の大事な役割の一つなのですが、それらに対する作者の考え(否定するにしても肯定するにしても)がしっかりと作品に反映されないと、たんなる風俗の皮相の部分を掬い取っただけの作品になる恐れがあります。

星にねがいを (偕成社コレクション)
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偕成社

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児童文学における文学性について

2017-09-19 10:55:06 | 考察
 児童文学が、「児童」と「文学」の二つの中心を持つ楕円構造をしているとして解説してくれたのは、児童文学研究者の石井直人です(詳しくはその記事を参照してください)。
 他の記事にも書きましたが、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)は、常に、その二つの中心の間で揺らいできました。
 実際に児童文学を書こうとすると、大体の場合は、「児童」に力点を置くと「子ども読者」を強く意識しますし、「文学」に力点を置くと書き手としての自己表現が中心になってきます。
 そのどちらも意識せずに、すんなりと「児童文学」は書ければ、それに越したことはないのですが、そうした作品は非常にまれな幸福な作品と言えるのではないでしょうか。
 「子ども読者」を意識した場合、その作品の文学性は(子ども読者にも理解できるかという)制限がどうしても付きまとってしまいます。
 一方、自己表現としての「文学」を追及すると、結果として子ども読者には理解できない「児童文学」ではないものになる恐れがあります。
 その折衷案として、最近見かけるようになったのが、エンターテインメント作品の中に、ここぞという箇所だけに「文学的表現」を散りばめる手法です。
 出版される前の作品なので具体的には紹介できないのですが、例えば、子どもの好きなホラー作品の中に、非常に美しい心の琴線に触れるような描写や表現が、作品のクライマックスなどで使われたりしています。
 こうした手法は、文学的な児童文学作品(変な言い方ですが)の書き手が、そうした作品の刊行は現在の出版状況の中では難しいので、より本になりやすいエンターテインメント作品を書くことによって生み出されているようです。
 希望的な仮説にすぎないのですが、そうしたエンターテインメント作品を手にした子ども読者が、美しい心の琴線に触れるような描写や表現を実際に読むことによって、もっと文学的な児童文学にも手を伸ばすようになったらと願わざるを得ません。

夕暮れのマグノリア
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講談社
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ピエール・ルメートル「死のドレスを花婿に」

2017-09-19 09:44:04 | 参考文献
 連続殺人の犯人として追われる主人公の女性と、密かに彼女を操っている真犯人の男との奇妙な関係を描いたミステリーです。
 エンターテインメント作品なのでかなり極端な設定でご都合主義な展開なのですが、それぞれの視点を使った凝った構成と意外な結末でなかなか読ませます。
 同じ作者で評判になった「その女アレックス」(その記事を参照してください)よりはかなり落ちますが、グロテスクなシーンなどは共通性があります。

死のドレスを花婿に (文春文庫)
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文藝春秋
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天沢退二郎「赤い凧」児童文学 新しい潮流所収

2017-09-19 09:42:53 | 作品論
 「闇の中のオレンジ」(1976年)の中に収められている短編で、編者の宮川健郎が転載しました。
 主人公の男の子が、三才の目の不自由な妹を自転車の後ろに乗せて、団地の小さな公園(原文では遊園地となっています。この作品が書かれたころは、子ども用の遊具がある児童公園のことを遊園地と呼んでいました)へ行く途中で、電線のあたりに一瞬赤い凧が自転車と並走しているのを見ました。
 公園について二人が砂場で遊んでいると、突然ナメクジナマズという象ほども図体がある怪物が現れて二人に襲いかかります。
 二人がなんとか逃れようとしていると、あの赤い凧が現れて、ナメクジナマズをやっつけてくれます。
 最後に、男の子が「おまえ、誰なんだ?」と問うと、「ふふふ、正義の味方、アカヤッコ。ほんとうはおまえらの味方じゃないのさ。でも心配はいらないよ。ここはあの世のとっぱずれ。ふーふーふー」という謎の言葉を残して、空の彼方へ去っていきます。
 これだけでは、まったくわからないでしょう。
 この作品は、作者の代表作の「三つの魔法」三部作の前段階を断片的に描いた本のごく一部ですから。
 編者は、天沢の言葉のあり方が、「現代児童文学」が失ってしまった「童話」の「呪文」のような力を持っているとしています。
 「現代児童文学」は1950年代の出発期に、小川未明たちの「近代童話」の性格を、「近代人の心によみがえった呪術・呪文とその堕落としての自己満足である」(古田足日「さよなら未明」(1959)(その記事を参照してください))として批判しました。
 編者は、「コノテーション(含意性)」の強い「近代童話」の言葉のあり方を、「現代児童文学」では「デノテーション(明示性)」の強いもの変える必要があったとしています。
 しかし、その方向性が強すぎると、極端に言えば薬の取扱説明書のような文学とはかけ離れたものになるとしています。
 これは、「児童文学」が「児童」と「文学」という二つの中心を持つ「楕円構造」をしている(詳しくは、児童文学研究者の石井直人の論文に関する記事などを参照してください)以上は宿命のようなのもので、子どもだけのものではなく「文学」の一ジャンルとして確立しようとしていた「近代童話」から、「児童(子ども)」の方へと大きく舵を切った「現代児童文学」の宿命のようなものでしょう。
 「現代児童文学」が、「児童」と「文学」の二つの中心のどちらかに傾きながら、また揺り戻していった歴史については、それに関する記事を参照してください。
 編者は、そうした「現代児童文学」においても、「童話」の方法で書く作家として、斉藤隆介、立原えりか、安房直子、あまんきみこの名前をあげていますが、これらは至極妥当な選択でしょう。
 しかし、その後で、「実は、天沢退二郎が、現代の「童話」の第一人者なのではないか」という部分には、大いに異論があります。
 確かに、天沢作品は一部に熱狂的な読者を獲得していますが、現代の「童話」としては前衛すぎて、それゆえ傍流(多くの読者に支持されないという点で)なのではないでしょうか。
 天沢は、宮沢賢治に傾倒して詩と童話を書き出し、賢治に関する論文も多数書いています。
 論文の多くが独創的で優れたものであることは、大多数の賢治研究者(私もそも末席をけがしていますが)が認めているところです。
 しかし、編者の「「天沢の児童文学は、宮沢賢治よりも宮沢賢治らしい。賢治のもつ文学的な可能性をさらに煮つめたようなものとして書かれているのだ」という意見には、天沢自身も含めて多くの賢治研究者は首を傾げるでしょう。
 さて、前述したように、この作品は1976年に発表されました。
 この本に転載されている他の作品は、すべて1980年代中ごろから1990年代中ごろまでに発表された作品です。
 このそれらより十年以上古い作品がなぜ転載されたかについては、一切説明されていません。
 編者が天沢ファンなのはわかるのですが、この時期(1980年代中ごろから1990年代中ごろまで)に彼の適当な作品がないのならば、他の「童話」の方法で書く作家の適当な作品を選ぶべきだったと思います。
 もしも、それもないのなら、「童話」の方法でかく児童文学は「新しい潮流」とは言えないのではないでしょうか。

闇の中のオレンジ 三つの魔法シリーズ
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復刊ドットコム

 
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デイビィッド・ウィズナー「3びきのぶたたち」

2017-09-18 11:32:46 | 作品論
 有名な昔話である「3匹のコブタ」のパロディ絵本です。
 オオカミに吹き飛ばされたブタが、物語の外(こまわりの外)に出てしまうのが、パロディのミソになっています。
 ただ、ブタたちの訪ねていくのが、マザーグースの童謡の世界だったり、竜の出てくる昔話だったりするので、それらにあまりなじみのない日本の子どもたちにはどうかなという気がしました。
 最後のオチでは、たぶんオオカミはスープにされてブタたちに食べられてしまったようなのですが、いまいちはっきりしませんでした。
 ただ、物語の中のブタたちの絵がいかにも絵本的なのに対して、物語の外へ出たブタたちの絵はリアルで、その対比は面白いと思いました。
 訳は人気作家の江國香織なのですが、それが作品の質の向上に生かされているとは思えませんでした。
 おそらく彼女の名前を借りて、大人の女性に売り込もうとしているのでしょう。

3びきのぶたたち
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BL出版
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薫くみこ「はじめての歯医者さん」児童文学 新しい潮流所収

2017-09-18 11:31:20 | 作品論
 「ちかちゃんのはじめてだらけ」(1994年)に含まれている幼年文学の作品で、編者の宮川健郎が転載しています。
 虫歯が一つもないことを自慢するクラスメイトの女の子(あまり主人公とは仲が良くないようです)と、それに張り合う主人公の言い争いからお話が始まります。
 そこに、虫歯がある主人公の仲良しの女の子や、サイダー瓶のふたを歯であけられると豪語するゴリラ似の男の子が、話に絡んできます。
 ひょんなことから、歯による瓶のふた開けを男の子に実演させたために、ふたの代わりに男の子の銀歯がとれてしまします。
 そうして、主人公は、男の子と仲良しの女の子と一緒に、はじめての歯医者さんへ行くことになるのです。
 歯医者さん慣れしている二人に比べて、主人公は、歯医者さんでははじめてのことばかりなので、びっくりしたりびびったりの連続です。
 主人公が、仲良しの女の子だけでなく、ゴリラのように思っていた男の子の良さにも気づくラストは、とても読み味がいいです。
 本の題名からすると、主人公のちかちゃんは、歯医者さんだけでなく、いろいろなはじめての体験をするようです。
 筒井頼子「はじめてのおつかい」(1977年)(その記事を参照してください)の成功以来、この種の作品は幼年文学や絵本の定番になっています。
 しかし、女の子向けエンターテインメント(「十二歳シリーズ」(1982年から)など)の名手である作者は、幼年文学でも格段の腕前の違いを見せています。
 編者は、自分の主張である「幼年童話=「俳句」説」(日本児童文学1995年7月号所収)を、長崎夏海「ぴらぴら」(1994年)、正道かおる「チカちゃん」(1994年)(主人公の名前はたまたま一緒ですが、薫作品とは無関係です)などを引用しながら、幼年童話は「象徴」、「暗示」、「省略」を多用して書かれているとしています。
 そして、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)の特長である「散文性の獲得」から積み残されて、未だに「近代童話」の象徴性を維持しているとしています。
 つまり、幼年向きの作品は、「散文的」、「小説的」な「現代児童文学」ではなく、「詩的」、「象徴的」な「幼年童話」(実際に幼年文学ではなく幼年童話と言われることの方がはるかに多いです)であるとしています。
 そして、薫作品は、そうした「詩的」、「象徴的」な「幼年童話」ではなく、「具体的に語る」ことをえらんで成功しているとし、今後はそうした「幼年文学(幼年童話でなく)」を目指さなければならないのではないかとしています。
 編者の解説はここでも非常に的確なのですが、途中で触れている「現代児童文学」が当初目指していた「幼年文学」(いぬいとみこ「長い長いペンギンの話」(1957年)、古田足日・田畑精一「おしいれのぼうけん」(1974年)など)がなぜ継承されなかったか、また、それらと今回の薫作品とはどのように違うのかが説明されていないのが不満です。
 私見を以下に述べます。
 幼年文学をめぐる主導権争いは、「現代児童文学」がスタートした当初からありました。
 そこには、大きく分けて三つの流れがあったように思われます。
 まず第一に、編者が指摘しているような小川未明らの「近代童話」の伝統がそのまま温存されたような作品群です(立原えりか、安房直子などの作品がその代表でしょう)。
 これらの作品の書き手が、古田足日が「幼年文学の現在をめぐって」(1985年)で語っているところの「童話的資質」に恵まれていれば、「子ども、人間の深層に通ずる何かを持っている」作品になり、広く長く読み続けられることになります(言うまでもありませんが、残念ながら「童話的資質」のない書き手の作品が大半です)。
 次に、「子どもと文学」の「おもしろく、はっきりわかりやすく」といういわゆる「世界基準」の影響を受けた作品群で、多くの安易なステレオタイプの作品が量産されました(出版社の立場から見れば、本にしやすいという側面もあります)。
 これに対しては、繰り返し批判(小沢正「ファンタジーの死滅」(1966年)(その記事を参照してください)、安藤美紀夫「日本語と「幼年童話」」(1983年)(その記事を参照してください)など)がされましたが、今でも毎年量産されていて「悪貨は良貨を駆逐する」を幼年文学界で体現しています。
 最後が、「現代児童文学」が当初目指した散文的な「幼年文学」です。
 しかし、この幼年文学は、商業主義による児童書の軽薄短小化(簡単に読めるので売りやすく、簡単に書けるので量産シリーズ化がしやすいです)の中で、なかなか本になりにくい状態です。
 この分野の書き手は、かつての高学年や中学生向けの「現代児童文学」の書き手が多いです。
 なぜなら、他の記事にも書きましたが、「幼年文学」は「現代児童文学」にとっての最後のフロンティア(本になりにくいと書きましたが、高学年や中学生向けに比べればはるかにましです)になっているからです。
 それらに対する薫作品の「新しさ」は、「散文」の質の違いにあると思われます。
 もともとの「現代児童文学」の散文は、「アクション」と「ダイアローグ」が中心でした(関連する記事を参照してください)。
 「少年文学宣言(正確には「少年文学の旗の下に!」(1953年)(その記事を参照してください))」で、「小説精神」の少年文学(児童文学)を目指すとしたのとは裏腹に、「小説」ではなく「物語」的な性格が強いものでした。
 それが、1980年ごろに小説的手法が用いられた作品が増えて(背景などは関連する記事を参照してください)、それらにおいては描写を中心にして描かれるようになりました。
 こうした今までの「幼年文学」の散文に対して、薫作品の「新しさ」は、「エンターテインメント」の散文を「幼年文学」に導入したことではないでしょうか。
 エンターテインメント作品の散文は、よりスピーディなストーリー展開を得るために、できるだけ描写は排して、登場人物(特に脇役)には平面的なキャラクター(この作品ではゴリラのような男の子、意地悪な女の子など)を使い、「アクション」と「ダイアローグ」は適切な説明文を使って省略できるところは省略しています。
 那須正幹「ズッコケ三人組」シリーズなどで広く使われるようになった、こうしたエンターテインメント用の散文は、読者が読むスピードをあげられるだけでなく、書き手が作品を量産するのにも向いています。
 「現代児童文学」において、最初の成功した女の子向けエンターテインメントシリーズのひとつである「十二歳」シリーズの作者が、こうした散文に熟練していたことは言うまでもありません。
 他の記事にも書きましたが、説明文を多用した散文(那須作品や薫作品は適度な使い方をしているので、これには当てはまりません)による書き方は、現在の大人用のエンターテインメント作品でも一般的になっています。

 
ちかちゃんのはじめてだらけ (シリーズ本のチカラ)
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日本標準

  
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岩瀬成子「ダイエットクラブ」児童文学 新しい潮流所収

2017-09-18 09:05:41 | 作品論
 1993年に、雑誌「日本児童文学」に発表されて、その後加筆修正されて雑誌「ひと」に掲載されたものを、編者の宮川健郎が転載しています。
 小さいころから肥満児(一家全員が肥満しているので、遺伝と食生活と運動不足が原因のようです)だった主人公の女の子は、五年生の時に小児科で成人病予備軍とと診断されてしまいます。
 それにショックを受けた母親は、一家でダイエットに取り組むことを宣言し、かなり極端なダイエット食と運動を開始します。
 さらに、主人公と母親は、ダイエットクラブ(肥満児とその母親(彼女自身もやっぱり太っている)たちが、たがいに励ましあってダイエットに取り組むサークルのようです)やスイミングクラブにの加入します。
 母親の食生活改善の努力と、毎朝のランニングでの父親の励ましもあって、一家全員(成長期の弟だけは免除されています)が順調に体重を減らします。
 しかし、ダイエットクラブの落ちこぼれ(みんなの努力を馬鹿にして、表向きはダイエットに背を向けています)の友だちを、ダイエットに目覚めさせようと、ショック療法的に行ったマクドナルドとドーナツショップで極端な過食したことをきっかけに、主人公はダイエットをやめてしまい、三年後の今では体重は75キロあります。
 家族では、姉(見違えるようにやせてきれいになって、やせ形のスポーツ選手との結婚も決まっています)以外はダイエットをやめてしまい、最初から参加しなかった弟も含めて、みんな鯨のように太っています。
 一方、ショック療法で立ち直った友だちの方は、ダイエットを続けてスリムになっています。
 作者は、ダイエットを続けるのがいいとか、太っているのが悪いとか決めつけずに、あるがままの主人公の気持ちを描いています。
 編者は、この作品を、小説的手法で描いて児童文学と一般文学の境界があいまいになっている作品の例として取り上げていて、作者の他の作品(「朝はだんだん見えてくる」(1977年、デビュー作)、「だれか、友だち」(「日曜日の手品師」(1989年)所収)、「迷い鳥とぶ」(1994年)、「イタチ帽子」(1995年)、「ステゴザウルス」(1994年)、「やわらかい扉」(1996年))も紹介して、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)的な「物語」から「小説」へ移行して、「児童文学」から「一般文学」へ越境しているとしています(この作品の発表媒体も、「児童文学」誌から一般紙へ移行しています)。
 例によって編者の解説は非常に適切なのですが、こうしたことが「現代児童文学」にどのような影響を与えたか(あるいはこれから与えそうか)については、言及していません。
 私見を述べれば(編者の文章より約二十年後に書いているので、当然その後の経過も含んでいます。この本が書かれた1997年ごろにすでにこのようなことを考えていたわけではありません)、こうした「小説化」は「現代児童文学」に二つの「空洞化現象」を生み出しました。
 一番目の空洞化現象は、こうした作品が児童文学読者の高年齢化を生み出し、新しい読者(主に若い女性でしたが、現在では女性全体に広がっています)を獲得した一方で、児童文学のコアな読者である小学生向けの作品が質、量ともに(特に質の面において)手薄になり、小学生(特に男の子)の児童文学離れを加速してしまいました。
 この作品でも、小学生の女の子の背後に大人の女性である作者の視線が濃厚に感じられて(特にマクドナルドとハンバーガーショップのシーンで)、この作品は児童文学ではなく、子どもを主人公にした一般小説になっています(ただし、「日本児童文学」掲載の初期形は未読のため、その時にどうだったかは検討していません)。
 編者は、「私には、子どものふりをして書きたがっているようなところがある。」(「日本児童文学」1994年10月号の共同討議「視点と語り」において)という作者の発言を紹介して、作者はそれほどまでに、主人公に密着して語り、作者自身も、主人公を相対化していないのだろうとしています。
 編者がどこまで意識して書いていたかはわかりませんが、ここにおける作者自身はとうぜん「大人の女性」で、主人公が相対化されていないとしたら、主人公もまた子どものふりをしている「大人の女性」なのです。
 こうした作品が、子ども読者(特に男の子)の児童書離れを起こしたのも、しごく当然のことかもしれません。
 二番目の空洞化現象は、優れた児童文学の書き手(特に女性)の一般文学への「越境」です。
 この問題はあまり表立って論じられることがないのですが、江國香織、森絵都、梨木香歩、湯本夏樹実、あさのあつこなど、一般文学へ越境していった例は、あげたらきりがありません。
 よしもとばなな、綿矢りさ、角田光代なども、初期の作品は児童文学で言えばヤングアダルトの範疇に入るでしょう。
 この中には、あさのあつこのように児童文学の作品も書き続けている作家もいますが、もしこれらの作家がすべてその後も児童文学を中心に書き続けていたら、子どもたちは現在よりももっと芳醇な児童文学作品群を手に入れていたことでしょう。
 しかし、これらの越境現象は、以下の理由で当然のことと思われます。
 まず第一に、彼女たちが年齢を重ねるにつれて、書きたい作品世界が児童文学の範疇に収まり切らなくなっていたであろうことがあげられます(マーケティング用語で言えば、作り手側にシーズがあったということになります)。
 次に、彼女たちの主な読者たちもまた年齢を重ねて、児童文学の範疇でない彼女たちの作品を読みたかったのでしょう(マーケティング用語で言えば、顧客のニーズがあったということです)。
 そして、一番大きな理由は、一般文学の方が、はるかにたくさん本が売れる(お金になる)ということで、プロの作家としては最も大事な点でしょう(マーケットサイズが、比べ物にならないほど大きいということです)。
 そうした状況の中で、現在でも、子どもたちを取り巻く今日的な問題を、「児童文学」(「きみは知らないほうがいい」(2014年)(その記事を参照してください)「ぼくが弟にしたこと」(2015年)(その記事を参照してください)など)として書き続けてくれている(読書感想文の課題図書にでもならないかぎりそんなに本が売れないるので、あまりお金にはならないでしょう)作者には、敬意を払いたいと思います。

児童文学―新しい潮流
クリエーター情報なし
双文社出版






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