雑誌「びわの実学校」(1985年6月)に掲載され、「だあれもいない?」(1990年、ひろすけ童話賞受賞)に収められていて、編者の宮川健郎が転載しました。
毎週日曜日(おかあさんはデパートに勤めていてお休みは水曜日、とうさんは入院中、主人公の面倒を見てくれたおばあちゃんは亡くなっています)に、小学校低学年ぐらいに思える主人公の女の子が、保育園に通う妹の面倒を見ています。
でも、その日は、友だちとカブトムシを捕りに行く約束をしてしまっています。
とうとう主人公は、室内でのかくれんぼを装って、妹を家に残して出かけてしまいます。
でも、何をしても妹のことが思い出されて、行く途中で引き返します。
家に戻ると、妹はまだかくれんぼを続けています。
主人公は、良心の呵責に耐えかねて妹を抱きしめます。
でも、妹は、七人の青いみじかいきものをきた女の子たちと、かくれんぼをしていたから楽しかったと言います。
それは、いつも妹が保育園ごっこをして遊んでいる、おばあちゃんの形見の七つのこけしのようでした。
編者は、「かくれんぼ」は、「喪失」の空白感が「再会」の喜びへと逆転する遊びとして、児童文学の中にも描かれているとして、坪田譲治(あまんきみこの先生です)「母ちゃん」(1931年)を引用して解説しています。
また、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)が描くようになった離婚や家庭崩壊を描いた作品も、「鬼になった子どもと、そこから去ってしまう親によるおわらない「かくれんぼ」と読むこともできるだろう。」として、今江祥智「優しさごっこ」を引用しています。
また、「「委棄された子ども」という児童文学ゆえに拘束された視点があるのではないか」という柴村紀代(児童文学作家で研究者でもあります)の次のような意見を引用しています。
「親にいかなる理由があろうとも「子どもは捨てられたのだ」という観点に立つ限り、親子の相互理解にはたどりつかない。
児童文学で離婚、親の家出を扱う場合、それはほとんど子どもの視点で語られる。
子どもの側から見れば、離婚も親の家出も、自分を委棄し、置き去りにする不条理な状況としか見えない。書き手の視点が、子どもの側にある限り、それは「かわいそうな子」であり、「理不尽な親」であり、その状況を乗り越えて行くのは「けなげな子ども」というパターンになる。」
編者は、高田桂子「ざわめきやまない」を例に挙げながら、肯定にとらえているようですが、柴村の意見にはいくつかの誤謬があるように思えます。
まず、「書き手の視点が、子どもの側にある限り」という言葉を否定的な文脈で使っていますが、「子どもの側に立たない」児童文学など、そもそも全く価値がありません。
「現代児童文学」はいろいろと紆余曲折はありましたし、いろいろな主張もありましたが、「子どもの論理」「子どもの側に立つ」という点では終始一貫していたように思います。
それは、常に抑圧される側だった「子ども」の歴史を振り返れば、児童文学の書き手に求められる最低限の要件なのです。
もちろん、離婚や親の家出には親の方にもいろいろな事情があるでしょうが、それも含めて「子どもの側に立って」その事象をとらえることが必要です。
それは、柴村が決めつけている「かわいそうな子」とか、「けなげな子」というパターンで描くことではなく、親の事情を含めて子どもの視点でとらえてそれを「けなげな子」ではない方法で乗り越えるべきでしょう。
その乗り越え方法も、柴村が言う「親子の相互理解」だけでなく、親自体が乗り越えるべき対象の場合は「精神的な親殺し」が必要なケースもあると思われます。
さて、編者は、この作品では、「「わたし」のなかには、置き去りにされた「子ども」(主人公にはかくれんぼを装って母に置き去りにされておばあちゃんになぐさめられた記憶があります)がいると同時に、重荷(毎日曜日に面倒を見なければならない妹のことです)をおろして出かけようとする「母」がいる。「わたし」のなかで、「子ども」と「母」がせめぎあい、結局、「わたし」は、かぶと虫とりの途中で、引き返してくる。この「せめぎあい」が私たちを切なくさせるのだが、私たちの切なさを、そっと救ってくれるのが、あまんきみこのファンタジーだ。」としています。
私も、無駄のない有効な伏線のはりかた、簡潔だけど詩的な描写、作品全体をおおうおばあちゃん、かあさん、わたしと脈々と引き継がれている「母性」とでも呼ぶべき安心感など、あまん作品の特長がよく表れた作品だと思います。
それも後天的に習得した創作技巧ではなく、古田足日が今西作品を評した時に使った「童話的資質」(関連する記事を参照してください)という言葉を、ここでも使いたくなってしまいます(そうすると、それから先は思考停止になってしまうのですが)。
細かなことなのですが、編者が使った「あまんきみこのファンタジー」という言葉が気になりました。
「ファンタジー」という言葉は、児童文学関係者の中でも使い方がまちまちなのですが、私は「子どもと文学」で石井桃子が紹介したリリアン・スミスの「児童文学論」における「目に見えるようにすること」という定義の信奉者(「だれも知らない小さな国」の佐藤さとるも彼の「ファンタジーの世界」の中で同様の意見を述べています)なので、あまんきみこのメルフェンに近い不思議な世界を呼ぶのに「ファンタジー」という言葉を使うのには抵抗があります。
もっとも、私が理想的なファンタジーと考えているのは、ケネス・グレアム「楽しい川辺」、トールキン「指輪物語」、フィリパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」、リチャード・アダムス「ウォーターシップダウンのうさぎたち」などですので、かなり偏りがあるかもしれません。
毎週日曜日(おかあさんはデパートに勤めていてお休みは水曜日、とうさんは入院中、主人公の面倒を見てくれたおばあちゃんは亡くなっています)に、小学校低学年ぐらいに思える主人公の女の子が、保育園に通う妹の面倒を見ています。
でも、その日は、友だちとカブトムシを捕りに行く約束をしてしまっています。
とうとう主人公は、室内でのかくれんぼを装って、妹を家に残して出かけてしまいます。
でも、何をしても妹のことが思い出されて、行く途中で引き返します。
家に戻ると、妹はまだかくれんぼを続けています。
主人公は、良心の呵責に耐えかねて妹を抱きしめます。
でも、妹は、七人の青いみじかいきものをきた女の子たちと、かくれんぼをしていたから楽しかったと言います。
それは、いつも妹が保育園ごっこをして遊んでいる、おばあちゃんの形見の七つのこけしのようでした。
編者は、「かくれんぼ」は、「喪失」の空白感が「再会」の喜びへと逆転する遊びとして、児童文学の中にも描かれているとして、坪田譲治(あまんきみこの先生です)「母ちゃん」(1931年)を引用して解説しています。
また、「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)が描くようになった離婚や家庭崩壊を描いた作品も、「鬼になった子どもと、そこから去ってしまう親によるおわらない「かくれんぼ」と読むこともできるだろう。」として、今江祥智「優しさごっこ」を引用しています。
また、「「委棄された子ども」という児童文学ゆえに拘束された視点があるのではないか」という柴村紀代(児童文学作家で研究者でもあります)の次のような意見を引用しています。
「親にいかなる理由があろうとも「子どもは捨てられたのだ」という観点に立つ限り、親子の相互理解にはたどりつかない。
児童文学で離婚、親の家出を扱う場合、それはほとんど子どもの視点で語られる。
子どもの側から見れば、離婚も親の家出も、自分を委棄し、置き去りにする不条理な状況としか見えない。書き手の視点が、子どもの側にある限り、それは「かわいそうな子」であり、「理不尽な親」であり、その状況を乗り越えて行くのは「けなげな子ども」というパターンになる。」
編者は、高田桂子「ざわめきやまない」を例に挙げながら、肯定にとらえているようですが、柴村の意見にはいくつかの誤謬があるように思えます。
まず、「書き手の視点が、子どもの側にある限り」という言葉を否定的な文脈で使っていますが、「子どもの側に立たない」児童文学など、そもそも全く価値がありません。
「現代児童文学」はいろいろと紆余曲折はありましたし、いろいろな主張もありましたが、「子どもの論理」「子どもの側に立つ」という点では終始一貫していたように思います。
それは、常に抑圧される側だった「子ども」の歴史を振り返れば、児童文学の書き手に求められる最低限の要件なのです。
もちろん、離婚や親の家出には親の方にもいろいろな事情があるでしょうが、それも含めて「子どもの側に立って」その事象をとらえることが必要です。
それは、柴村が決めつけている「かわいそうな子」とか、「けなげな子」というパターンで描くことではなく、親の事情を含めて子どもの視点でとらえてそれを「けなげな子」ではない方法で乗り越えるべきでしょう。
その乗り越え方法も、柴村が言う「親子の相互理解」だけでなく、親自体が乗り越えるべき対象の場合は「精神的な親殺し」が必要なケースもあると思われます。
さて、編者は、この作品では、「「わたし」のなかには、置き去りにされた「子ども」(主人公にはかくれんぼを装って母に置き去りにされておばあちゃんになぐさめられた記憶があります)がいると同時に、重荷(毎日曜日に面倒を見なければならない妹のことです)をおろして出かけようとする「母」がいる。「わたし」のなかで、「子ども」と「母」がせめぎあい、結局、「わたし」は、かぶと虫とりの途中で、引き返してくる。この「せめぎあい」が私たちを切なくさせるのだが、私たちの切なさを、そっと救ってくれるのが、あまんきみこのファンタジーだ。」としています。
私も、無駄のない有効な伏線のはりかた、簡潔だけど詩的な描写、作品全体をおおうおばあちゃん、かあさん、わたしと脈々と引き継がれている「母性」とでも呼ぶべき安心感など、あまん作品の特長がよく表れた作品だと思います。
それも後天的に習得した創作技巧ではなく、古田足日が今西作品を評した時に使った「童話的資質」(関連する記事を参照してください)という言葉を、ここでも使いたくなってしまいます(そうすると、それから先は思考停止になってしまうのですが)。
細かなことなのですが、編者が使った「あまんきみこのファンタジー」という言葉が気になりました。
「ファンタジー」という言葉は、児童文学関係者の中でも使い方がまちまちなのですが、私は「子どもと文学」で石井桃子が紹介したリリアン・スミスの「児童文学論」における「目に見えるようにすること」という定義の信奉者(「だれも知らない小さな国」の佐藤さとるも彼の「ファンタジーの世界」の中で同様の意見を述べています)なので、あまんきみこのメルフェンに近い不思議な世界を呼ぶのに「ファンタジー」という言葉を使うのには抵抗があります。
もっとも、私が理想的なファンタジーと考えているのは、ケネス・グレアム「楽しい川辺」、トールキン「指輪物語」、フィリパ・ピアス「トムは真夜中の庭で」、リチャード・アダムス「ウォーターシップダウンのうさぎたち」などですので、かなり偏りがあるかもしれません。
だあれもいない? (子どもの文学傑作選) | |
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