離婚家庭の五年生の女の子を主役にした連作短編集、「星にねがいを」(1995年)に収められていて、編者の宮川健郎が転載しました。
三年生の時のことを回想する形で、語られています。
仲のいい友だちとのピアノのレッスンの帰りに、スーパーマーケットでその友だちに誘われて初めて万引きをします。
一個ではなく、片っ端から万引きしたので、当然のように警備員に捕まります。
友だちは、しゃくりあげながら万引きしたのが初めてであるように装います。
主人公は、そんな友だちと警備員を冷めた目で眺めています。
連絡を受けた友だちの母親はすぐに飛んできて、同じようにしゃくりあげながら友だちを引き取っていきます(どうやら、主人公がそそのかしたと疑っているようです)。
一方、三時間もたって(たぶん楽器店の仕事を終えてから)やってきた主人公の母親は、あっけらかんと能天気に謝って、警備員にあきれられながら主人公を引き取ります。
その帰り道で、母親は「やるんなら、もっとうまくやりな。」と言いながら、キャラクター・グッズの店で、自分が万引きをしてみせます。
それから二年がたち、身長が15センチも伸びて顔つきが変わっても、主人公を取り巻く状況は変わりません。
赤い靴というタイトルは、この作品では狂言回しとして使われていて(野口雨情の「赤い靴はいていた女の子」という歌と、アンデルセンの「赤い靴」をはいたためにいつまでも踊り続けなければならないカレンを意味します)、いつまでも続く今の状況と女の子の不幸せ(主人公はかすかに感じているようです)を象徴しています。
編者は、この作品を、1970年代の「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)の「タブーの崩壊」(それまであまり書かれなかった、死、離婚、家出、非行、性などの子どもたちの負の部分を描いた作品がたくさん出版されるようになったことです。詳しくは関連する記事を参照してください)とからめて解説しています。
そして、「現代児童文学」が、これらの問題について、「登場人物の非常にナイーブな心理の問題にこだわり続けていて、この十年間(注;1980年ごろに「タブーの崩壊」が注目されて以降)かえって停滞している」という児童文学研究者の石井直人の意見を紹介しています。
この作品については、「離婚、万引き、責任を放棄する親、(中略)「タブーの崩壊」の輻輳(寄りあつまり)によって、子どもたちの現実にちかづこうとした」、「「理想主義的、向日的な方向づけ」をしない」、「単線的なストーリーにそって展開していくのではない」、「元気な文体で明るく書かれている」、「「赤い靴」にまつわる抒情」などと、その「新しさ」を評価しています。
しかし、この作品を読んで、はたして子ども読者は共感するだろうか、あるいはこうした状況にショックを受けるだろうかという点になると、かなり疑問を感じました。
編者は、「タブーの崩壊」的な事象が「輻輳」している点を評価していますが、その一つ一つのエピソードの描き方には既視感があって、少しも「新しさ」は感じませんでした。
「「理想主義的、向日的な方向づけ」をしない」という点についても、作者がなんらかの思想を持ってそうしているというよりは、たんに投げ出しているだけのような印象を受けます。
「単線的なストーリーにそって展開していくのではない」については、解説でも岩瀬成子「あたしをさがして」を引き合いに出していますが、この作品ではまったくそのような感想は持ちませんでした(むしろ、オーソドックスな女の子の心理を中心にしたお話(ただし、回想シーンがあるのでそこが単線でないと言えばそうなのですが、それは屁理屈でしょう)の書き方のように思えます)。
「元気な文体で明るく書かれている。」、「「赤い靴」にまつわる抒情」に関してはまさにその通りで、この一見矛盾するような二つの要素が作品の中で見事に合体しているところが、牧野作品の大きな魅力でしょう。
子どもたちの今日的な問題を描くのは、いつの時代でも児童文学の大事な役割の一つなのですが、それらに対する作者の考え(否定するにしても肯定するにしても)がしっかりと作品に反映されないと、たんなる風俗の皮相の部分を掬い取っただけの作品になる恐れがあります。
三年生の時のことを回想する形で、語られています。
仲のいい友だちとのピアノのレッスンの帰りに、スーパーマーケットでその友だちに誘われて初めて万引きをします。
一個ではなく、片っ端から万引きしたので、当然のように警備員に捕まります。
友だちは、しゃくりあげながら万引きしたのが初めてであるように装います。
主人公は、そんな友だちと警備員を冷めた目で眺めています。
連絡を受けた友だちの母親はすぐに飛んできて、同じようにしゃくりあげながら友だちを引き取っていきます(どうやら、主人公がそそのかしたと疑っているようです)。
一方、三時間もたって(たぶん楽器店の仕事を終えてから)やってきた主人公の母親は、あっけらかんと能天気に謝って、警備員にあきれられながら主人公を引き取ります。
その帰り道で、母親は「やるんなら、もっとうまくやりな。」と言いながら、キャラクター・グッズの店で、自分が万引きをしてみせます。
それから二年がたち、身長が15センチも伸びて顔つきが変わっても、主人公を取り巻く状況は変わりません。
赤い靴というタイトルは、この作品では狂言回しとして使われていて(野口雨情の「赤い靴はいていた女の子」という歌と、アンデルセンの「赤い靴」をはいたためにいつまでも踊り続けなければならないカレンを意味します)、いつまでも続く今の状況と女の子の不幸せ(主人公はかすかに感じているようです)を象徴しています。
編者は、この作品を、1970年代の「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)の「タブーの崩壊」(それまであまり書かれなかった、死、離婚、家出、非行、性などの子どもたちの負の部分を描いた作品がたくさん出版されるようになったことです。詳しくは関連する記事を参照してください)とからめて解説しています。
そして、「現代児童文学」が、これらの問題について、「登場人物の非常にナイーブな心理の問題にこだわり続けていて、この十年間(注;1980年ごろに「タブーの崩壊」が注目されて以降)かえって停滞している」という児童文学研究者の石井直人の意見を紹介しています。
この作品については、「離婚、万引き、責任を放棄する親、(中略)「タブーの崩壊」の輻輳(寄りあつまり)によって、子どもたちの現実にちかづこうとした」、「「理想主義的、向日的な方向づけ」をしない」、「単線的なストーリーにそって展開していくのではない」、「元気な文体で明るく書かれている」、「「赤い靴」にまつわる抒情」などと、その「新しさ」を評価しています。
しかし、この作品を読んで、はたして子ども読者は共感するだろうか、あるいはこうした状況にショックを受けるだろうかという点になると、かなり疑問を感じました。
編者は、「タブーの崩壊」的な事象が「輻輳」している点を評価していますが、その一つ一つのエピソードの描き方には既視感があって、少しも「新しさ」は感じませんでした。
「「理想主義的、向日的な方向づけ」をしない」という点についても、作者がなんらかの思想を持ってそうしているというよりは、たんに投げ出しているだけのような印象を受けます。
「単線的なストーリーにそって展開していくのではない」については、解説でも岩瀬成子「あたしをさがして」を引き合いに出していますが、この作品ではまったくそのような感想は持ちませんでした(むしろ、オーソドックスな女の子の心理を中心にしたお話(ただし、回想シーンがあるのでそこが単線でないと言えばそうなのですが、それは屁理屈でしょう)の書き方のように思えます)。
「元気な文体で明るく書かれている。」、「「赤い靴」にまつわる抒情」に関してはまさにその通りで、この一見矛盾するような二つの要素が作品の中で見事に合体しているところが、牧野作品の大きな魅力でしょう。
子どもたちの今日的な問題を描くのは、いつの時代でも児童文学の大事な役割の一つなのですが、それらに対する作者の考え(否定するにしても肯定するにしても)がしっかりと作品に反映されないと、たんなる風俗の皮相の部分を掬い取っただけの作品になる恐れがあります。
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