「読書感想文的覚え書」というサブタイトルのついた作品論の中で、安藤は、佐藤のこの作品がいわゆる「現代児童文学」の出発点であることを認めつつも、以下のような問題点をあげています。
そして、同時にこの作品と共に「現代児童文学」の出発点であるといわれているいぬいとみこの「木かげの家の小人たち」も合わせて評しているので、「現代児童文学」の出発点およびその後(この作品論集は1975年に出版されています)に対して疑義を述べていることになります。
第一の問題点は、これら二作が確固たる主人公を生みださなかったことです。
ここにおいて、安藤の基準は、海外の児童文学の登場人物(ケストナーの「エーミールと探偵たち」のエーミール・ティッシュバインや警笛のグスタフやポニー・ヒュートヘン、マーク・トウエンの「トム・ソーヤーの冒険」のトム・ソーヤー、モルナールの「パール街の少年たち」のボカ・ヤノーシュ、アーサー・ランサムの「ツバメ号とアマゾン号」シリーズのナンシー・ブラケットなど)においています。
たしかに、安藤があげたの登場人物たちは、それぞれの時代や国における生き生きとした魅力的な主人公たちですし、佐藤といぬいの作品では登場する主人公たちは物語の語り手にすぎず、小人たちは没個性的です。
そして、この作品論集で取り上げられた他の作品群を見渡しても、魅力的な確固たる主人公は見当たりません。
しいていえば、斉藤惇夫の「冒険者たち」のガンバですが、この作品ではガンバ以外のネズミたちはまんが的な「平面的キャラクター(一面的な性格付けがなされている)」であって、前出の海外の作品のような立体的な(まるで生きているような)キャラクターとはいえません。
それから四十年近くたちます。
日本の児童文学では、那須正幹の「ズッコケ三人組」シリーズのハチベエたちや「バッテリー」シリーズの原田巧たちのような人気キャラクターを生みだしました。
しかし、前者は典型的な「平面的キャラクター」ですし、後者は立体的ですが「超人的な中学生ピッチャー」といった非現実的なキャラクター設定がなされています。
そして、21世紀に入ってからは、ゲーム、カード、まんが、アニメなどのマルチメディアとの親和性を求めるために、ますます「平面的」「超人的」キャラクターが児童文学を席巻していて、立体的で現実的でしかも魅力的な主人公は生まれでにくくなっています。
二番目の問題点として安藤があげたのは、これらの作品がどちらも長編ファンタジーであるにもかかわらず、そこで生みだされた世界が、日常的な世界とほとんど変わらない点です。
つまり、「現代児童文学」が否定した近代童話の世界とそれほど変わらない世界しか生みだしえなかったのです。
この問題点については、前述した「冒険者たち」の斉藤惇夫をはじめとして、岡田淳、上橋菜穂子、荻原規子などの優れたファンタジーの書き手が登場してかなり克服されていると思われます(彼らの作品には、海外の先行作品の影響が強く表れていますが)。
最後の問題点は、現実に生きている子どもたち(安藤は特に中産階級以外の子どもたちを対象としています)を描いていない点です。
当時、この問題に対しては、この作品論集で取り上げられた山中恒の「とべたら本こ」や古田足日の「宿題ひきうけ株式会社」などの社会主義リアリズムの作品群が対応していたと思います。
社会主義リアリズムが退潮した八十年代には、皿海達哉や森忠明などの「自分探し」的な作品が多く書かれるようになりました。
そして、九十年以降「現代児童文学」が終焉(あるいは衰退)してからは、こういった作品はほとんど出版されなくなりました(一部、女性向けあるいは幼年向け作品に残っています)。
総じて、安藤は佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」に対して否定的なのですが、「長編的構造」「空想世界の構築」「ストーリーのおもしろさ」など、日本の児童文学にそれまでなかった特長を創造した点はもっと評価されるべきで、現にこの作品は五十年以上のの時間による淘汰をうけながら、今でも新しい読者を持っていて、日本児童文学の古典としての位置を占めています。
そして、同時にこの作品と共に「現代児童文学」の出発点であるといわれているいぬいとみこの「木かげの家の小人たち」も合わせて評しているので、「現代児童文学」の出発点およびその後(この作品論集は1975年に出版されています)に対して疑義を述べていることになります。
第一の問題点は、これら二作が確固たる主人公を生みださなかったことです。
ここにおいて、安藤の基準は、海外の児童文学の登場人物(ケストナーの「エーミールと探偵たち」のエーミール・ティッシュバインや警笛のグスタフやポニー・ヒュートヘン、マーク・トウエンの「トム・ソーヤーの冒険」のトム・ソーヤー、モルナールの「パール街の少年たち」のボカ・ヤノーシュ、アーサー・ランサムの「ツバメ号とアマゾン号」シリーズのナンシー・ブラケットなど)においています。
たしかに、安藤があげたの登場人物たちは、それぞれの時代や国における生き生きとした魅力的な主人公たちですし、佐藤といぬいの作品では登場する主人公たちは物語の語り手にすぎず、小人たちは没個性的です。
そして、この作品論集で取り上げられた他の作品群を見渡しても、魅力的な確固たる主人公は見当たりません。
しいていえば、斉藤惇夫の「冒険者たち」のガンバですが、この作品ではガンバ以外のネズミたちはまんが的な「平面的キャラクター(一面的な性格付けがなされている)」であって、前出の海外の作品のような立体的な(まるで生きているような)キャラクターとはいえません。
それから四十年近くたちます。
日本の児童文学では、那須正幹の「ズッコケ三人組」シリーズのハチベエたちや「バッテリー」シリーズの原田巧たちのような人気キャラクターを生みだしました。
しかし、前者は典型的な「平面的キャラクター」ですし、後者は立体的ですが「超人的な中学生ピッチャー」といった非現実的なキャラクター設定がなされています。
そして、21世紀に入ってからは、ゲーム、カード、まんが、アニメなどのマルチメディアとの親和性を求めるために、ますます「平面的」「超人的」キャラクターが児童文学を席巻していて、立体的で現実的でしかも魅力的な主人公は生まれでにくくなっています。
二番目の問題点として安藤があげたのは、これらの作品がどちらも長編ファンタジーであるにもかかわらず、そこで生みだされた世界が、日常的な世界とほとんど変わらない点です。
つまり、「現代児童文学」が否定した近代童話の世界とそれほど変わらない世界しか生みだしえなかったのです。
この問題点については、前述した「冒険者たち」の斉藤惇夫をはじめとして、岡田淳、上橋菜穂子、荻原規子などの優れたファンタジーの書き手が登場してかなり克服されていると思われます(彼らの作品には、海外の先行作品の影響が強く表れていますが)。
最後の問題点は、現実に生きている子どもたち(安藤は特に中産階級以外の子どもたちを対象としています)を描いていない点です。
当時、この問題に対しては、この作品論集で取り上げられた山中恒の「とべたら本こ」や古田足日の「宿題ひきうけ株式会社」などの社会主義リアリズムの作品群が対応していたと思います。
社会主義リアリズムが退潮した八十年代には、皿海達哉や森忠明などの「自分探し」的な作品が多く書かれるようになりました。
そして、九十年以降「現代児童文学」が終焉(あるいは衰退)してからは、こういった作品はほとんど出版されなくなりました(一部、女性向けあるいは幼年向け作品に残っています)。
総じて、安藤は佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」に対して否定的なのですが、「長編的構造」「空想世界の構築」「ストーリーのおもしろさ」など、日本の児童文学にそれまでなかった特長を創造した点はもっと評価されるべきで、現にこの作品は五十年以上のの時間による淘汰をうけながら、今でも新しい読者を持っていて、日本児童文学の古典としての位置を占めています。
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